空想こけし博物館(1)

"un Musee Imaginaire Kokeshi"


確かに湊屋の伝統をひく西山辨之助

DIAGHILE

西山辨之助
明治末年の作

これを見ると辨之助のこけしは
浅之助や作蔵のこけしに近く
分家の西屋は本家湊屋の作風を忠実に
継承していたことがわかる

西山辨之助の古い作品は、明治四十年代のものが佐久間貞義蔵品中にある。頭部に小豆の入った尺物で八郎畠の民家から発見されたと聞くが、残念ながら黒くなっていて描彩は見えない。また土湯で見つかったという五寸五分はやはり佐久間貞義蔵で大正十二、三年頃の作、かなり保存は悪いが描彩は残っており、下瞼がピンと跳ね上がった小ぶりの目をして古風な作品だった。

いわゆる辨之助として今日多く目にする物は、橘文策が昭和六年に土湯を訪れたときに、西山の作業場の棚の上に並んでいた七本を手に入れたもの。辨之助が気まぐれにたまたま作った物が偶然蒐集界に紹介されることとなった貴重な物である。しかし、当時八十歳に近い辨之助の手すさびの作だけに枯淡の味はあるものの、おそらく最盛期の作風とはかなりの隔たりがあるであろう。最盛期の辨之助がどのようなこけしを作ったかは蒐集家が瞼の裏に思い描くしかない、と思っていた。

さて、木人子室蔵品中にやはり小豆入りの尺物の古い土湯こけしがあり、面描はかなりはっきり残っているものの全体に黒くなっており面描以外の描彩は全く見えない。辨之助とも作蔵ともあるいは浅之助とも言われていた。

種を明かせば、この頁掲載のこけしは木人子室の土湯黒こけしをデジタル修正したもの。色を復元してみるとやはり作者は辨之助が最有力であろうか。面描の部分的特徴だけ追うと、浅之助に似るところも作蔵に似るところもあるが、全体から見られるようになって、こうしてみると結局辨之助が無難かも知れない。しかし、後年「土湯ルネッサンス」と言われた佐久間兄弟の復活作と並べて、その同列と言ってもそう違和感はないであろう。辨之助としてもやはり湊屋の流れを汲む作風なのである。佐久間貞義蔵品の尺物同様に小豆がはいっており、一応明治末年作とした。

修復前のこけしを見る


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