こけしの文化史 (7)


こけしのジェンダーの物語


この「こけしの文化史」シリーズは、ベンヤミンの「子どものための文化史」のように、大人でも読みごたえのある内容を、子どもにも理解できるように書きたいというのが最初の動機だったのだが、シリーズが進むにつれて、いつものように大人でも分かり難い文体に戻ってしまった。
こけしの文化史(4)「こけしの世界の物語」では、文庫や新書で出版されている「こどものため」というコンセプトの翻訳ものをいくつか紹介したが、日本人によって子供のために書かれた本としては、戸井田道三の「日本人の神様」が印象に残る。
これは1980年「ちくま少年図書館」の一冊として刊行されたものだ。

戸井田道三は、能や狂言の研究家であって、その方面の著作も多いが、人間の身ぶり、手ぶりや表情の深い意味を、その空間、状況などとの相関の中で読み取る感性が非常に優れていて、随筆や寄稿、雑事を扱った文章であっても、とても興味深い。
戸井田道三の著作は気がつけば購入して愛読していたが、1993年に筑摩書房から出版され始めた「戸井田道三の本」の4冊のシリーズは、どういうわけか買いもらした。後で気がついてあわてて探したが、品切れ絶版、ようやく古書展で探して「1.こころ」と「2.かたち」だけ手に入れた。
この「1.こころ」のなかに「日本人の神様」は収録されていて、私はここで初めて読むことができた。日本人がながくいだきつづけ、近年になって忘れ去られつつある世界観のなかで、確実にあった神々との交流を淡々と、かつ説得力ある語り口で記述してあって、非常に楽しい本であった。1996年には「ちくま文庫」版も出版されたが、これも古本市で購入して再読した。

さて、本題に入ろう。「こけしは女児をあらわした人形というのは本当だろうか?」というのが今日の物語だ。

今日の代表的な辞書で「こけし」を調べると次のように説明されている。
郷土人形の一つ。東北地方の原産。木地挽。円筒状の胴に丸い頭をつけ、簡単な彩色をして女児の姿をあらわす。小芥子這子(こけしぼうこ)、こけし人形。木ぼこ。木でこ。(広辞苑 第二版補訂版)

東北地方特産の郷土玩具の一。木地(きじ)を轆轤(ろくろ)で挽(ひ)いた円筒状の胴に丸い頭をつけて女の子の顔をかき,胴に赤・青・黄などで簡単に彩色した木製の人形。小芥子這子(ぼうこ)。木ぼこ。木でこ。こけし人形。(大辞林 第三版)

東北地方の郷土玩具。また、その様式をまねたもの。ろくろびきの木製人形で、丸い頭と円筒形の胴からなり、手足はなく、簡単な彩色で主に女児の姿をかたどる。土地によって胴の形や描彩、顔の面相などに特色がある。木ぼこ。木でこ。こけし人形。こけしぼうこ。 (大辞泉)
こけし辞典でも、「こけし」の項目で、鹿間さんは次のように女児と書いている。
ほとんど全部女児を現わしていて、「だるま」「七福神」のような男性は描かない。
このように、ほとんど全てがこけしを女児としているが、その根拠は何であろうか。
調べて見ても、その根拠を語っているものはあまりない。
こけしの名称の「木でこ」「きなきな」には全く性別を特定するものが入っていない、「木ぼこ」も「木這子(きぼうこ)」であれば性別はない。ただ、「木おぼこ」となると女児の「おぼこ」から来たと言えるだろう。また「こけし」という呼称については、堤人形の「赤けし」からきているならば女児と言えるかもしれない。同様の堤人形の男の方は「つんぬき」と言って、「赤けし」と言うのは女だからだ。
こけし工人の側からは多くの産地でこけしを単に「人形」と呼んでいた。これにも性別はない。ただ鳴子の工人たちは「ぼうず」と言う呼び方もしていた。坊主なら童子(男)であろう。

こけしが女児と言う根拠が必ずしも明確ではないにしても、今ではほぼ99%の人は女の子の形象と信じて疑わないであろう。見た目が華麗で愛くるしく、女児とみて不自然なところはない。

さてここで、童子(童子は男子、童女は女子)ではないかという疑問を一つ上げて見よう。

まずは、こけしの頭の模様の水引き手である。前髪の後ろを水引きで結んだ様式は、御所人形の童子に祖形があり、それが多くの土人形や張り子の人形に継承され、やがてこけしの頭部の模様にまでいたる。
こけしの水引き手の様式は、御所人形の様式を取り入れた堤や相良の土人形から来ていると考えるのがふつうである。
とすれば御所人形や、堤、相良の土人形で水引きを付けているのは大部分が男の童子であるから、水引き手を冠するこけしも男の童子と考えるのが自然ではなかろうか。
達磨と童子
水引模様は、江戸末期になって本来の慶事の儀礼的目的から、そのデザイン性を活かして小袖・振袖の装飾に広く用いられるようになったが、その展開を経て江戸末期に京の人形師によって前髪の飾りに採用されるようになったと言われている(澤村英子:ページ末の引用参照)。婦人が髷の元結に紙絞りを用いた事はあったが、この前髪の後ろを結ぶ水引飾りはただ人形だけの装飾なのか、あるいは実際に児童がやっていたのかはわからない。性別があったかも不明であり、水引からだけでは男女の区別をするのは難しい。堤人形の「赤けし」のように女児と思われる人形であっても、簡略化した水引が描かれている場合もある。
ただ、御所人形にしても、堤、相良の土人形にしても大部分が童子であることに間違いはない。
何故こうした縁起物の形象として童子が選ばれるのか。これが次の論点になる。

さて、戸井田道三の「日本人の神様」では、我々が昔持っていた習俗やしぐさ、あるいは昔話の中から、神の存在や神との関係を、明らかにしてくれるが、そのなかで山や川の上流からやってくる「小さ子神」というものを繰り返し説明している。
鎌倉時代に書かれた辞書によると、正月に仙人の装束をまねて小松を手にささげて祝言をいいにくるものがありました。
仙人の装束といっているのですから、ひと目見ればわかる風態をしていたのでしょう。小松を手にしていたのは、山の霊がその松に乗りうつっているものと考えていたらしいのです。
そう考えますと、手にした小松が東北地方のオシラサマやコケシのように人のかたちに見えたとしても、おかしくはありません。
こうした文脈の中から、川の上流から流れて来る桃から生まれた桃太郎や、山姥に育てられて里に下りる金太郎という童子にふれ、次のような黒川能の話を紹介する。
黒川の王祗も、シデをつけたホコが山の神の依代として当屋の扇柱に安置されると、御柱の木遣歌のように「神になる」のだと思います。 この王祗様の下で、演能前に五歳くらいの男児によって大地踏がおこなわれます。当屋の頭人が三本のホコの根もとをおさえて扇のかなめのようにし、王祗を開き四十五度くらいの角度で前かがみにします。すると大地踏の稚児を抱きかかえて来て、その開いた王祗の下に降ろし、はじめて地を踏むかたちになります。
大地を踏む所作は、相撲がシコを踏んだり、能で足拍子を踏んだりするのとおなじで、地霊を踏み鎮める意味があるのです。
     (中略)
子供が祭りにこのような役割を持つことは、あちこちにあります。おひとつものなどとよばれて祭りの行列の中にいることも多くありますが、たいてい人の背に負われるか、馬の背ではこばれます。そして馬の上でいねむりをすると神がのりうつったなどといいますから、神の依代であったわけです。 大地踏の稚児が小さ子神として生まれることは、妊婦が産気づくと馬を山へつれて行って安産のために山の神をつれて来るという習俗とどこかで関連しているでしょう。そして大地の豊穣をうながす有効なマジナイでもあったでしょう。
童子は「小さ子神」であるからこそ、縁起物の人形として尊重されたのであろう。御所人形にしても宮中と言う山と同じような異界から下賜される童子であったのだ。

こうしてみると、五穀豊穣の山の神を山から運んでくるのは、童女ではなく童子でなければならなかった。その童子は四股を踏んで、大地の精霊を呼び覚ましたりもする。
自分たちの田畑をうるおす水を供給する川の、その上流にある温泉、その湯治場から、山人である木地屋が作った「神秘的な童子=こけし」を自分の村に運ぶことはそれなりの意味があったに違いない。
御所人形、堤・相良人形も、たんなる普通の童子ではなく、神秘的な力を持った童子であり、それ故その指標としての「水引」で飾られていたのかもしれない。

こう考えると、こけしは童女というより童子であったと考えても不思議はない。この可能性については仙台の高橋五郎さんとも話したことがあった。五郎さんは仙台の「こけすんぼっこ・第三号」(平成4年8月)で、水引き手と土人形の影響考証から、童子説を既に唱えている。
だが、こけしのジェンダーが未だに真剣な議論の対象にならないのは不思議だ、おそらくは女児の形象という思い込みがかなり早い時期に定着してしまったからかも知れない。


遠刈田のごく古いこけし、周治郎かと言われる(高橋五郎蔵)
例えばこのこけしは、童子として作られたのか、童女として作られたのか

平成25年春、東京国立博物館で「大神社展」が開催され、神社関連の国宝や重文を多く含む神道美術が展示された。神像も多く出陳されたが、その中に童子童女の神像もいくつかあった。多くは童子で、神の依代としては童子の方が一般的であったのだろう。

水引模様が何故人形に用いられるようになったかについては、山野美容芸術短期大学美容芸術学科の澤村英子が人形にみる装飾表現の特質について(Ⅲ)」の中で次のように記述している。
「意匠」としての水引については、御所人形が最も出回った時期の江戸後期は、小袖および振袖の文様に「結び」ないしはそれに近い、それに関わるようなものが流行していた。 つまり、御所人形の額に施された、あの特徴ある水引文様は、もともとは江戸中期からすでにあったが、時代の好み・流行から江戸後期の御所人形に一番多く見られるのである。水引手御所人形は、目出度いことからの吉祥性のみを追求していたのとは違い、この時期の趣向性を最もよく表した意匠であったから、人形師たちはわざわざ目立つ額の部分に水引文様を入れたということが以上のことから考えられた。
すなわち、髪を結ぶ水引は吉祥性よりは実用性から始まった習俗であった。そして、水引という様式が、本来の慶事の儀礼的目的から、意匠としてのデザイン性に着目され、小袖や振袖の装飾表現にまで用いられるようになった江戸末期に、はじめて人形の髪の装飾模様に取り上げられるようになったことを指摘している。ただ、この議論も、装飾と言うこと自体が本来実用をこえた象徴性に支配されているはずだから、吉祥性という意味が地下水脈のように、人形の水引き手にまで流れていることを否定するものではない。ただ、人形の水引き手に至るには、人間が髪を結ぶための実用性と、水引の意匠がデザインとして受け入れられるという二つのステップが介在したという指摘であろう。
(Apr. 29, 2013 )

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