上手物と下手物 

「こけし手帖・618」の高橋五郎さんによる「新発見の鳴子系こけし」は心を揺さぶられる報告である。特に鳴子こけし発生に近い時期から、もてあそぶというより、立てて飾るという形式のこけしが作られていた事が伺えて非常に興味深い。発見時の汚れの具合から子供が遊んだ形跡は十分あるが、旧家に残ったというのはもともと大事にされたもので残すべき性質のこけしであったからだろう。
こけしが子供のおもちゃであったというのは確かであったとしても、本来おもちゃとして作り始められたのか、立てて飾るものが次第にもてあそびのものに変わって行ったのかはまだ定かではない。あるいは縁起物として神棚に立てられたり、雛壇に立てて飾られたりした方が古いかも知れない。
ここに紹介するのは、私の30年前の旧稿で「木の花・第参拾号」(昭和57年2月)に掲載したものである。
こけしには最初から上手物と下手物があった。上手物は「立てて飾られるもの」、下手物は「こどもがもてあそぶことを想定したもの」といった議論をしている。

以下「木の花・第参拾号」(昭和57年2月)掲載の稿。


斎藤太治郎のこけしは、同時代の他の土湯のこけしと比べて際立って精巧、ロクロ模様や彩色も手が込んでいる。太治郎は木地を西山辨之助に習ったといわれるが、晩年の辨之助の枯淡の作風とは全く脈絡が見いだせないため、「太治郎の作風は彼一代の創作」というのが定説になっている。
 何故、太治郎がこのように手のかかる巧緻なこけしを作ったかということは確かに一つの問題である。晩年、彼が蒐集家に対してかなり自意識過剰な行動をとっていた事が知られているので、「蒐集家向け、都会の大人向けのこけしを意識して作った」に違いないという考えが一般的であるが、それは果して真実であろうか。
 太治郎が最初に接した蒐集家は恐らく天江富弥氏で大正末期のことと思われる。天江氏の入手したこけしは<這子>図版に掲載されているが既に太治郎の様式は完成している。
<辞典>によれば、大正十三、四年に土湯坂ノ上から上ノ町に移り、こけし製作を再開して高定商店に出したとある。恐らく、天江氏との接触もこの直後と思われるが、この時点で将来の蒐集家による需要までは、予測出来ないであろう。従って、太治郎の様式は、蒐集家向けの創作と簡単にかたづけられない。
 戦後、精巧な作風は蒐集家向けの二次的なものとして、評価を貶す風潮があった。滝ノ原の伊藤儀一郎がその典型的なものだが、小林倉吉や大野栄治もその影響を蒙っている。ところで、その極端な例の儀一郎にしても、大正十二年鈴木軍治氏が発見した時既に、日本画家野口小蘋の絵手本に依った緻密な胴紋様を描いていた。石井コレクションの古い儀一郎(木地山の久四郎が旧蔵していたもの)も同様であった。
小林倉吉や大野栄治の型は、後年蒐集家向けの多少の偏向が見られるとしても、本質的な修正は何もないのである。 とすれば、儀一郎のこけしも合めて、蒐集家出現以前から、精巧で手の込んだこけしの需要が確かにあった、と考えるほうが自然である。

 箕輪同人は、「こけしに上手物と下手物の二種類があったに違いない」と述べていたが、確かにこうした区分の存在を支持する事例はかなりある。例えば、鳴子の高橋勘治の尺二寸は、明治三九年頃の作で明らかに蒐集家以前であるが、仕上げや大きさ、重量からみて子供の翫物(もてあそびもの)ではなく、上手物として別の目的があったと思われる。天江コレクションの伝大沼又五郎髷物にしても同様である。震災や戦災で焼失したが、加山道之助、橋田素山、岸本彩星諸氏の蔵品中にも大寸の髷の古鳴子 (高野幸八作か)があったという。
 蔵王高湯の雛飾り用に作られた岡崎栄治郎も代表的な上手物だが、<古作図譜>に載った照井音治なども、手にした時の重量は相当なもので、幼児が持ったりおぶったりして遊び得るものてはない。描彩が定かでない程黒くなった古いこけしの中にも、尺以上のものが予想外に多く、このうちかなりのものが上手物として作られたと推量てきるのである。

 以上のように、上手物は特別注文による例外品ではなく、確実な需要のもとに相当数作られていたのであろう。
 今まで、上手物と下手物という区分を明確にしていなかったので、あいまいになっていた事が、こうした視点を導入することによって新しい展開を見せるかもしれない。

 例えば、次のような仮説も立て得る。

 こけしには、安価で小寸な下手物として創り出された型と、何らかの目的(例えば雛飾り)のために上手物として創り出された型の二つの範疇がアプリオリに存在する。両者のある部分が多少変質して幼児の翫物として発展する(あるいは、小寸の下手物は、はじめから幼児の翫具としての側面を射程に入れていたかもしれぬ)。
 遠刈田のにんぎょうと称するものは上手物起原、こげすと称する作り付け小寸は下手物起原である。工人の中にも上手物志向、下手物志向のものがいた。鳴子でいえば、利右衛門・勘治は上手物志向、岩太郎・直蔵は下手物志向、直蔵の流れを汲む本荘の河村清太郎は下手物の小寸たちこを原型としていた。木地山も、鳴子の小寸作り付けを原型としている。一方、一ノ関の宮本惣七は、技巧面でかなり零落しているものの鳴子上手物の変容ということになろうか。

 以上のように考えてくると、太治郎は土湯の古い上手物の流れを伝えた貴重な工人だったかもしれない。こけし製作を中断していて再開した工人は、復活当初に中止直前の作風を再現するという法則があるが、大正末に再開した時のあの型は、明治二二年に土湯を去って木地業から離れる以前の型そのものだったという可能性もある。晩年に枯淡のこけしを残した辨之助の尺の黒いこけしが<古作図譜>にあるが、あれは決して下手物ではない。

 箕輪同人らの新著<山形のこけし>は内容の充実した力作で、新説も多くあり、それらは概ね受け入れられるものである。ただ一つ別の見方も出来ると思うのは、作並系の発生に関してで、私は作並を一次的発生地と考えるより、遠刈田の影響のもとにこけしを作り始めた系統の発生地とするほうが自然であると感じている。
 <山形のこけし>で遠刈田影響発生説を否定する材料として、一、作並固有の鼻の描法 (上端の接した垂れ鼻)、二、遠刈田にあるこげす(小寸物)が作並にないというニ点を挙げている。第一点については、弥治郎の撥鼻同様に遠刈田の垂れ鼻の一変形とみてそう無理はないだろう(描彩の変遷参照)。説明が難しいのは第二点の方で作並に何故こげすが伝わらなかったか不思議である。作並を直接伝承した山形は、小寸物として独得の小人形(作り付け、六分頭、二寸胴)を作るが、こげすは確かに作らない。ここで一つの仮説は、遠刈田に上手物のにんぎょうと、下手物のこげすの二つの範躊があり、作並は上手物のにんぎょうしか伝承しなかったという整理である。山形小林家は寸法によりこけしを、小人形、相人形、中人形、大人形、大大人形に分類規格化したが、ここで人形という名称を使っているのは遠刈田の上手物のにんぎょうによるものではないか。
 いずれにしても何故上手物のほうだけが作並に伝わったかという問題は残るが、鳴子の例でも本荘のように下手物のたちこだけ伝承する例もあり、上手物と下手物という範疇が今考えるより離れていたとすれば、一方のみの伝承ということもあながち不自然ではない。 

今後さらに議論すべき問題であろう。

 


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