金森遵のこと


Choukokushi 「古計志加々美」の編集執筆をした菊楓会同人のなかで金森遵のことについてはあまり知られていない。「古計志加々美」は各章ごとの執筆者をキチンと明記していないので、誰が個々の文章の執筆者かを特定することは難しい。しかし、鹿間氏は序説の格調高い文章を書いたのは金森遵だといっていたから、おそらくそうだったのであろう。
金森遵氏は日本彫刻史、特に仏像彫刻を専門とした気鋭の若手研究家として期待されていたが若くして戦死した。関野貞、小林剛、野間清六らとともに仏像を日本彫刻史の重要な柱として確立した一人と言われている。
戦前の雑誌「國寶」掲載の「中尊寺一字金輪像」(昭和十三年)、「日本彫刻史考」(昭和十七−十八年)、「國華」掲載の「正倉院伎楽面に就いて 上・下」等の論考や、単行本「貞観彫刻」(アトリエ社・東洋美術文庫・昭和十五年)の著作があり、長谷川傅次郎の写真集「日本彫刻の鑑照」(番町書房・昭和十九年)の解説などを書いたりもした。昭和十九年六月十六日に応召し、十一月南海レイテ島に赴いたが、同二十年に入り消息絶えて戦死認定となった。
戦後になってから金森遵の論文や雑誌掲載の原稿を集めて「日本彫刻史要」(高桐書院)や「日本彫刻史の研究」(河原書店)などが出版された。
京都の高桐書院から昭和二十三年に出版された「日本彫刻史要」は、「國寶」に掲載された「日本彫刻史考」をまとめて一書としたものである。この本の序言として野間清六氏が一文をよせているが、その中で「君は昭和六年東京帝國大学美術史科を卒業以来日本彫刻史の研究に専念し、常に厳しい批判を加えて真実を求めようとした。」と言っている。確かにこの本を通読すると推論・予断を出来るだけ排して、確証ある事実のみにて論を進めるストイックなまでの求道者の姿が見える。
この「日本彫刻史要」は飛鳥彫刻の構成・白鳳様式の可能性・奈良彫刻の本質・貞観彫刻の諸流・藤原彫刻の主調・鎌倉彫刻の諸相という章立てになっていて、各時代において、製作年代を確定できるもの、かつ後代の補修がないとはっきりしているもののみを選別して、それを中心に各時代の様式特色を同定しようという試みである。 したがって飛鳥時代などは製作年代を確定できる資料のないものや補修のあるものを除外した結果、ほとんど法隆寺の釈迦三尊くらいしか扱えるものがなく満足な議論ができなくなっている。Jougan
今日の我々から見ると、どの仏像にどのような感銘を受けるか、その感銘はどういうところから来るのだろうか、そういう疑問が研究のモーティブになるはずだと思うのだが、金森氏の論考ではあくまでも個人の主観や好悪を排すること厳正である。それでもかすかに金森氏の気持ちの重心がどこに傾いているかは推察できるのだが、金森氏は飛鳥・白鳳よりは奈良・貞観に惹かれている様にみえる。北魏や朝鮮の模倣を脱却した奈良や貞観の仏像に日本の彫刻の完成の姿を見ているようである。
昭和十五年刊の「貞観彫刻」は金森氏が質量ともに日本彫刻史上もっとも豊かな時代としている貞観の仏像を紹介したものである。「此の小篇はさうした貞観彫刻への案内の役を勤めやうとするに過ぎないのであって、もとより学問的な論考の如きは敢えて企てる考えはない。」とその序で断ってはいるものの、文中著者の主観は控えめで、様式上の説明記述に多くをさいている。ただ金森氏が最も感銘を受けていると思われるものの一つ、観心寺如意輪観音像の記述にかすかに彼の肉声を聞く事が出来る程度である。
同じ菊楓会同人だった西田峯吉氏は戦後長い間、東京こけし友の会を実質的に主導し、会長在任も長く主著共著も多い。西田氏本人にお会いして話をするときには御自身の好みも、良い悪いの判断もはっきりしているのに、その書いたものでは個人の主観を極力排除していたように見える。また、研究会などで同席した場合にも資料の扱いが際立って厳密で、不確実な資料による推論を嫌ったが、こうした姿勢は、あるいは金森遵の研究態度を自分の理想として追い求めたためかもしれない。
この金森遵とこけしとの接点がどのようにして生まれたかは私は知らない。また、「古計志加々美」の編集にどの程度参画したのかもわからない。しかし、「古計志加々美」の掲載こけし選別などを見ると、古く氏素性のはっきりしないものよりも、昭和に入ってからのものであっても作者も製作経緯も明確なこけしを掲載しているといったところに、金森氏の姿勢の影響が幾分あったかもしれないと思うのである。それは学問を志すものの良心といったものかもしれないが、一方でこけしの美を求めるものにとっては物足りないところにもなった。
またあるいは、土俗味の強いものよりはむしろ完成度の高いもの、たとえそれが昭和十年代であってもそれをこけしの典型として採用すべきとしたのかもしれない。それはあるいは戦時中の日本文化再確認の気運の中で「土俗文化にさえ日本はこれだけ完成度の高いものがある」という国威高揚の無意識の選択基準が働いていたかもしれない。しかし、その選択も純日本的な仏像の完成をもって日本仏教彫刻の典型と考えた金森氏の精神的背景と通底しているように思える。いずれにしても「古計志加々美」は、趣味を中心においた他のこけし文献と比べて異質である。
「日本彫刻史の研究」巻末にまとめられた金森遵略歴から要約すると次の通り。

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