木人子閑話(8)


「こけし手帖第五十四号」 −戦地に行ったこけし−

こけし手帖

tecyou東京こけし友の会は会誌「こけしの郷愁」十二冊を発行したあと、昭和三十二年二月より誌名を「こけし手帖」と改めて、今日まで四十年に渡って刊行を継続している。同一会誌名で愛好会が刊行する会誌の中では最も長く続いている部類に入るだろう。手帖創刊号から十二号までは今村秀太郎の編集、表紙絵のデザインは武井武雄であった。今村は東京吾八の再開を期に編集を小野洸に譲って退いた。小野洸は十八号まで今村調を踏襲したが、十九号以降表紙絵も自らのデザインに変更し、巻頭に「名品こけしとその解説」を連載するなど内容を充実させて、初心者にも専門家にも評価される手帖の黄金期を築いた。小野編集時代は昭和三十九年第五十三号まで続いたが、その後第五十四号より友の会編集委員会の持ち回り編集に替わった。写真に示すのは第五十四号、委員会編集で表紙のデザインが一新した。委員長鹿間時夫、編集事務担当土橋慶三も委員会編集第一号ということで気合いが入っており、巻頭「名品こけしとその解説」には土湯渡辺作蔵を取り上げ、さらに「こけし断想」の佐久間貞義記事、またのちに単行本となった鹿間時夫の「こけし鑑賞」連載と内容的には見るべき物が多い号であった。しかし、このあと個人の責任者が不明確な委員会編集は、委員同士の編集方針が対立する中で、次第に無個性で無難な大衆化路線に変わり、初心者に対する啓蒙記事が増えた一方で専門的な研究考証が乏しくなり、内容的には薄味の会誌になっていった。

戦地に行ったこけし

こけし手帖第五十四号には、戦争出征にあたって戦地に持っていったこけしの話が、はからずも二つ同時に掲載された。佐久間貞義の弁之助のこけしと鹿間時夫の栄治のこけしである。

佐久間貞義と弁之助のこけし

bennosuke佐久間貞義は福島県土湯の温泉旅館富士屋の出身、戦後福島市の山下町で洋服仕立業を営んだ。昭和三十四年、同四十一年の第一次、第二次福島こけし会結成に参画。小柄で温厚、こけしをこよなく愛して、その愛好家が増えることを喜んだ。昭和十八年に土湯佐久間弥の物置から古こけし五本を発見、作蔵未亡人クラ、斎藤太治郎、西山勝治の証言でその古こけしの作者が渡辺作蔵であることを究明したのは大きな功績であった。昭和四十八年三月五日に病没した。

佐久間貞義は「こけし断想」にこう書いている。「あれから十五年経ってみれば、苦しい年月を送った北方の島、千島の軍隊生活も、シベリアの抑留生活にもよく生き伸びてきたものだと感慨一入である。あの千島の孤島で砂浜の陣地構築に一日の作業につかれてもどる幕舎の中で、いつも慰めとなっていたのは、この真黒になった小さな弁之助のこけしであった。そして、故郷の土湯においてきた沢山のこけし群像を夢に見ることであった。そのうち悪夢のような苦しい戦争も終結し、いよいよ懐かしい内地に戻れると思ったら、ソ連の船でシベリアへ連れて行かれてしまった。sakumasadayoshi来るべき時がきた、と諦めて過ごす毎日であった。しかし、自分にはこけしがついているのだ。あの可愛い沢山のこけしが、故郷の家で、私の還るのを待っていてくれるのだと信じ、それだけを心のよりどころとして頑張ってきた。長い死んだような五年間はこけしこけしと、心の中で考え乍ら、それだけで救いになった日を送ってきたといって良い。二十四年七月夢にまで見た故国に帰る日がきた。その頃の抑留帰還者はみな、赤い思想教育の影響で、左翼傾向になっていた。内地においても最も思想闘争の激しい時期ではなかったろうか。故国に帰る私についても、実家の人達がみなそのことを心配していたらしい。東京駅に着いたら多くの親類の人達が私を迎えに出ていて呉れた。しかし、赤旗をふり革命歌を唱え、代々木の党本部に行く戦友達とどうしても離れられない。死生苦楽を共にした友を裏切ってどうして私だけが家に帰る事が出来ようか。家の人々の制止懇願するのをふり切って私も一緒に代々木に行こうとした。そのとき迎えにきていた弟の手に、こけしがあったのだ。ああこのこけし。長い間の夢の中でさ迷い歩いた心のこけし。私の心は決まった。矢張りこけしと一緒に、真直ぐ家に帰ろう。(こけし手帖第五十四号)」

掲載こけし写真は千島、シベリヤを佐久間貞義とともに過ごした西山弁之助作五寸五分、土湯で見つかったもので大正十二、三年の作という。また、東京駅で弟の手にあったこけしは斎藤太治郎の六寸であったという。肖像写真は、二本の作蔵を手にする佐久間貞義。

鹿間時夫と佐藤栄治のこけし

shikamaeiji-1鹿間時夫は自分が編集委員会委員長としてスタートする「こけし手帖第五十四号」に「こけし鑑賞−佐藤栄治」を書いた。
「このこけしはこけし鑑に最初に紹介され、渡辺鴻氏旧蔵品であった。shikamaeiji戦前私は鴻さんの家で、これをゆずってもらった。それから大事にして満州に持って行った。異郷に一人いた若い父親には、これが国に残してきた幼い長女の俤をしのばせた。三十八度線を命がけで歩いてきた引揚げのリュックサックに、このこけしも入っていた。今日まで何とか守ってきた私は、このこけしに特別の愛着と思い出を持っている。鴻さんの前には、舞妓さんのコレクションがあったときいている。大正か昭和初め頃の作であろう。(こけし手帖第五十四号)」

私はこのこけしをリュックサックに入れて満州から歩いて引揚げる時の壮絶な話を鹿間さんから直接聞いたことがある。

「君ね、そりゃ凄いものでした。引揚げの途中、新義州で私が腸チフスに罹ってね。鴨緑江の河岸で病舎に熱にうなされて寝ていたんだよ。リュックは枕元においてね。勿論、このこけしもその中に入っていたんですよ。亡くなる人も多かったんですがね。ある晩、私の隣で寝ていた人が”痒いーっ!”と言って息を引き取ったんですよ。それが断末魔だったんですね。しようがないんで皆で埋葬することにしたんですが、毛布を取り除いてびっくりしました。体中に虱がびっしり着いていてね。陰部も見えないくらいでしたよ。そこで毛布に包んだまま鴨緑江の河岸で荼毘にふしたんですが、炎の中で虱がパチパチとはじけるんで、しばらくはその音が耳から離れませんでした。」

写真はリュックの中にあった鹿間時夫氏の佐藤栄治八寸七分。

過酷な時代であった。こけしもまたその時代を見てきたのである。



印

ホームページへ