木人子閑話(16)


「陸奥の小芥子」と孔版画

孔版画で紹介された津軽の作者達

「陸奥の小芥子」は昭和十年三月に弘前の木村弦三著作発行になる七十部限定非売、和紙紙装和綴の褐色インク謄写版刷の私家版である。発行部数が少なく、今では稀覯本の一つで、左は都築祐介氏の所蔵本を写させて戴いた。装幀図版は全て板愈良(いたまさよし)の手になり、表紙は佐藤伊太郎大小二本の版画、扉絵は川越謙作、図版三枚に盛秀太郎、斎藤幸兵衛、山谷多兵衛、川越謙作、小松五平、長谷川辰雄、三上文蔵七名の作者作品が紹介されている。このうち、幸兵衛、多兵衛、謙作、伊太郎、辰雄,文蔵はこの「陸奥の小芥子」で初めて世に知られることになる。

「こけし這子の話」で紹介された盛秀太郎,島津彦三郎に加えて、津軽の作者は一挙に四倍増になったわけで、この本が実質的に津軽の最初の系統だった紹介書と言って良い。

鹿間時夫は「こけし・人・風土」の巻末書誌の中で、この「陸奥の小芥子」を「従来、漠然としていた津軽系こけしの組織的研究発表として、今日でも重要な文献である」と紹介した。

表紙、扉絵、図版の版画作者板愈良は明治二十二年鳥取県西伯町(当時の東長田村今長)の生まれで、教員をしながら古玩珍品の蒐集を行い、孔版画をよくした。本名の愈良(まさよし)より、号の祐生(ゆうせい)の方でよく知られているかもしれない。


孔版画に生きた板祐生の世界


本年(平成十二年)二月、面白い展覧会(会期二月十六日〜二十七日)をやっていると知らせてくれる人があって、銀座の伊東屋七階ギャラリーへ行ってみたら板祐生の特別展だった。ワンフロアーのこじんまりした展示だったが大変面白く、この展覧会で随分新しいことを知った。先ずは、板祐生という人物、次に孔版画とは何か、最後に「陸奥の小芥子」で紹介されたこけしを含む板祐生のこけしコレクションとその所在についてである。

板愈良、即ち板祐生は明治末から絵はがき、古銭などの蒐集を始めていたたが、大正六年に同好グループ「珍道楽」に加わって本格的な蒐集活動に入り、大正八年三田平凡寺の主宰していた趣味人の會「我楽他宗」に参加して全国レベルの蒐集家の仲間入りをした。三田平凡寺は東京芝の富裕な材木商の息子で、同好の士を集めて「我楽他宗」を始め、会員はそれぞれ山号寺名をつけて呼び合い、珍玩奇玩を集めては銘々披露し合ったり、様々な趣向をこらした集まりを開いたりして楽しんでいた。三田平凡寺は「第一番趣味山平凡寺」、板祐生は「第二十番十徳山龍駒寺」と号した。

西暦2000年元日の朝日新聞で色々な分野での十九世紀のベストテンをしかるべき人達に選ばせる企画があったが、「奇人」の部を担当した荒俣宏はこの三田平凡寺をベストテンに入れていた。

板祐生は学校教員だった関係でガリ版印刷、即ち謄写版を常々よく使っていたのであろう、これを多用し、さらに孔版画に興味を持って精力的に作画活動に入り独自の境地を開いていった。

私は今まで迂闊にも「陸奥の小芥子」表紙・図版は通常の木版で作られた物とばかり思っていた、多くの文献にはただ「板愈良の版画」とあるから木版画と思いこんでいたのであろう。然し実は孔版画で作られた物だった。孔版画はいわゆる合羽摺りで、紅型など型染めの手法に近い。謄写版の油紙を鋭利な小刀でその色の部分だけ切り抜いてゆくのである。色毎に別の型を必要とするので二十色なら二十枚の油紙を切り抜いた型を作る必要がある。紙の上にその油紙の型を載せて、色インクを着けたローラーで着色していく。

展覧会場には板祐生の多くの作品と共にその型紙やローラー、色インクのチューブなども展示されていた。大正中期から昭和戦前期にかけてこの孔版画を用いた私家本を次々に発刊している。例えば「龍駒珍聞」三十三号、「富士乃屋草紙」三十九冊、「髫髪(うない)歓賞」六冊、「青駒」五冊等。昭和十年の「陸奥の小芥子」はこうした時期に、同好の士として知り合った弘前の木村弦三と共に作られたものである。

ところで「陸奥の小芥子」は木村弦三の著作発行であるから、掲載図版のこけしは木村弦三所蔵の物とばかり思っていた。しかし、今回の展示で見るとこのこけしは板祐生の所蔵のものであった。おそらく「陸奥の小芥子」刊行にあたって図版製作を板祐生に依頼する際に、木村が提供し板祐生に贈ったものであろう。しかし、今もきちんと保存され「祐生出会いの館」(西伯町)で大切にされているというのは実に嬉しい。会場には「陸奥の小芥子」の該当ページが開かれていて、その後ろにその実物こけしが展示されていた。

もちろん、板祐生自身精力的な蒐集家であって絵はがき・ポスター・寺社札・古玩とともに自身でこけしも集めている。当日会場には展示されていなかったが、有名な伝浅之助もコレクション中にはあって、「祐生出会いの館」に行けば見ることが出来るそうである。今回伊東屋の会場で「祐生出会いの館」の学芸員の稲田セツ子さんにお逢いしたが、熱心にきちんと研究し企画展示されている印象を受けた。「祐生出会いの館」のホームページアドレスは下記の通り。

また板祐生関連サイトとして

板祐生はその後、三田平凡寺と決別して「我楽他宗」を去る。この辺の経緯はおそらく三田平凡寺と決別して同じ「我楽他宗」から去った斎藤昌三の場合とともに興味津々たるところである。おそらく蒐集に有る程度の求道的な熱意さえ持っていた板や斎藤にとって、あまりに道楽的に過ぎる三田の姿勢についてゆけぬものを感じたのであろう。

板はその後、料治朝鳴の「版芸術」に紹介され、武井武雄の主宰する年賀状交換会「榛の會」に加わって十傑の一人に選ばれたりした。趣味人からの依頼で蔵書票や所蔵票、私家用葉書を作ったりして孔版画家として趣味界に知られるようになる。会場には板祐生手持ちの住所録も展示されていたが、その広い交際範囲には驚かされた。昭和三十一年六十四歳で病没。

没後コレクションが西伯町に寄贈され、やがて「祐生出会いの館」開設へと至るわけであるが、彼のコレクションを運ぶ中型トラックは十三台に及んだという。こけしの専門の蒐集家のことは比較的よく知られている。また郷土玩具の蒐集家のなかでこけしを割合に良く集めた人のことも大体分かる。しかし、「我楽他宗」時代の人で趣味蒐集の一部としてこけしを集めた人については案外知られていない。そういう意味では、今回の板祐生の特別展は一見の価値があったと思う。




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