木人子閑話(17)


愛好家の「座」と鴻の眼

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 こけしはただ集めて一人悦に入っていれば良いというものではない。こけしが私たちを魅きつける本質的な部分を読み取ること、そして過去にこけしに熱を上げた先輩たちがどのようにこけしと対峙していたかを感得すること、そうした「鑑賞」あるいは「凝視」という営為を通じて、そのこけしを作った工人や、過去あるいは現在・未来の鑑賞者たちと無言の交流をすることが大切であって、それこそがこけしを楽しむ醍醐味と言える。そういう意味で、収集家と鑑賞者は必ずしも同一ではない。熱意ある収集家は今日でもたくさんいるが、ひところに比べて優れた鑑賞者というのは非常に少なくなったように思う。
 如何にして優れた鑑賞者になれるのか。長年営々と努力を積み重ね、時間もお金も使ったがこけしを見る眼の育たない人もいるし、ほんの僅かの努力でキチンと本質を見ることができるようになる人もいる。天性のものも確かにあるだろう。

 こけしを見る眼というのは「鑑定眼」というものとは違う。こけしの作者判定や年代鑑別は、ある程度の努力で誰でも一定の水準に達する。ただ、良いこけしがなぜ良いのかわからない。それは道具屋の丁稚が、ある程度の年月勤めると偽物贋作を見極められるようになる、また値段もつけられる、しかし、未見の範疇の「よいもの」を見極めることはできないのと同じである。

 しかし、如何なる人も生まれつきで良いものがわかるということはあまりない。初心者ですでに一流の眼を持った人というのには今まで出会ったことがない。どんな人でも過去の経歴や知識、先入観による歪みを取り除くための訓練が少しは必要である。このような訓練や修行のようなものをどのように行ったか。そのためにかつては鑑賞者たちの「座」といったものがあったのである。kouyoshi

 「座」というのはこけし愛好家の集まりであるが、例えば、各々が話題となるこけしを持ち寄って、勝手気ままな話をしながら、美的な序列付けを意識的/無意識的に行うのである。日本の文化と言うのは、こうした「座」によって支えられてきたものが多い。茶道しかり、俳諧しかりである。初心者はおそるおそるこうした「座」のなかに顔を出して、先輩たちの議論を拝聴しつつ自分の眼というものを養っていくのである。こうした「座」で共有するひとつの秩序というものが個人の主観などという貧しい価値観をはるかに越えたものであると言うことをこの場で学ぶのである。ここで重要なのは既成の「美の序列」を暗記することが大事なのではなく、どういう見方の中からその序列が出来てくるかを感得することだ。それがわかれば、自分の感性と最も整合性の取れた切り口で、この基準を身につけることが出来る。いわゆる自分の眼が出来るのである。

 こけしの新しい収集家たちが、こけし道楽といった明治大正の大旦那趣味からはっきりと訣別したのは昭和になってからである。最初の「座」と言えるような集まりは渡辺鴻・亜沙夫妻のサロン「茶房鴻」であろう。夫妻は昭和十五年七月から十七年五月まで、こけしの頒布を行うとともに専門誌「鴻」(全十四冊)を発刊した。従来作者名が混同されていたこけしの判別や、年代の議論を初めて科学的に行った雑誌である。鴻の茶室はもともと鴻夫妻の私邸で、京王線代田橋から和田堀給水場にそって二分ほど歩いた住宅地にあり、その平屋の十畳一室を低床板張りにして開放したもの。椅子十脚ほどの喫茶室で、郷土玩具やこけし、ランプやオルゴールが置かれてあった。会員たちは鴻のサロンに集まって、こけしを並べてその美について語り合った。深沢要やセルソ・ゴメス、後に「こけし加々美」を発刊する菊楓会同人などその常連メンバーであった。
この集まりの主宰者渡辺鴻氏は確かに水準の高い眼を持っていた。昭和十七年に出版された「こけし加々美」(便利堂)は、戦時に日本の優れた文化を出版の形で残そうという使命感、そして戦争でいつ失われるかわからないという危機感のもとで溝口三郎(国立博物館学芸員)、金森遵(仏教美術史家)、西田峯吉・土橋慶三が編集した。多くのこけしが写真で掲載されているが、その中で見るべき物のかなりの物が当時の渡辺鴻所蔵であった。例えば、後に鹿間蔵となった
佐藤栄治阿部治助(天理教時代)、原色版を飾った佐久間由吉および斉藤松治(後に石井眞之助蔵となった)のともに復活初作、同じく原色版の岩本善吉尺一寸九分等々。鴻はおそらく茶房において常連客の相手をして議論を続ける中で確実に自分の眼も養っていたに違いない。kouzen

 ところで、なぜ昭和も十五年をすぎてようやくこうした鴻のサロンが出現したのか? 「座」的な集まりが始まったのか? その理由は至極簡単である。鴻以前の蒐集家は直接工人に注文してこけしを手に入れたり、頒布会に申し込めばそこそこ出来の良いこけしが手に入った。しかし、昭和十四、五年は第一次こけしブームであると同時にこけしが衰退に向かう時期であった。新しい蒐集家はもう新しいこけし、その当時の今様こけしには満足できなくなっていたのである。いわゆる古品の蒐集という方向に、蒐集活動が移行したのが丁度昭和十四、五年ころであった。渡辺鴻はそういう古品蒐集を本格的に志向した最初の蒐集家ではないだろうか。銀座の吾八は自ら発行していた雑誌「これくしょん」を介して、古品の誌上入札なども始めた。「これくしょん参拾壱號」(昭和十四年十一月)はこけし名作号でこけしの古品が一度に誌上入札にかけられ、有名な鳴子の高橋勘治もこの時に出た。すなわち蒐集家はこうした数少ないチャンスに自分の眼を頼りに蒐集を行わなければならなくなったのである。鴻のサロンでは「あのときの入札であれは良かった」「あれは出来の割りに高すぎた」「あのときの物の方が良かった」などと言う議論がさかんになされていたであろう。そういう会話の中で、こけしの出来不出来を語る概念や言葉が次第に豊富になっていったと思われる。鴻を中心とする「座」は、工人から直接良いこけしを入手できる牧歌的な時代が終わって、古い蒐集家に懇願して割愛してもらったり、入札会で落札するなど自分の眼を頼りに蒐集する時代に移行した時、必然的に生まれたものといえるのである。

 戦後では、大阪の米浪庄弌が同好者の集まりをつくり、寺方徹、阿部四郎、綾秀郎、雲井聖山、森田丈三、中屋惣舜らが「於けし園」米浪コレクションのこけしを俎上において観談を始めた。米浪氏が師匠格だったため通称「於けし園こけし教室」と呼び、この集まりが後の「大阪こけし教室」に発展するのだが、後年になっても「大阪こけし教室」には米浪氏が始めたころの「座」的な雰囲気が強く残っていた。これは「座」的な雰囲気をまったく欠いた「東京こけし友の会」とは際立った対照である。

 中屋氏は後年東京へ移ってから、新井薬師の自宅に数人づつ愛好家を招いてはこけし鑑賞・座談・頒布を行った。米浪氏の「教室」に倣って「中屋教室」と言った。「中屋教室」では彼の全コレクションを拝見できるわけではなく、各回テーマがあって、例えば「土湯」の回では、違い棚に三本ほど鯖湖の角治・キンが並べられ、和室の隅に長くひかれた緋毛氈の上に、太治郎や今朝吉、由吉などが三−五本くらいづつ組になって寝かされて置かれていたものだった。話題は鯖湖からはじまり、太治郎に移ると今度は三−五本の太治郎を違い棚に並べかえて話を続けるのだった。組で合わせて鑑賞し、時には古陶磁や土人形などとの取り合わせを楽しんだりもした。kansyou

 「東京こけし友の会」は一般愛好家向けの無味無臭の団体を西田峯吉氏が志向したきらいがある。そのため熱心な研究者のための活動を警戒して、最大公約数的な初心者のためのより啓蒙的な活動に力点をおいた。それに物足りない「友の会」有志(とはいうものの西田氏自身もこの会の会員だった)は「みずき会」という研究会を作り、「鴻」がはじめた鑑別や年代変化をさらの科学的に徹底して行って「こけし研究ノート」(全十二冊)を発刊した。

 そして「座」としての性格を残した最後の集まりは「こけしの会」であった。同人誌「木の花」(全三十二冊)を発刊した。こけしの「座」的集まりの中では最も活動量が豊かであり、残したものも大きかったが九年間の活動の後、昭和五十八年に解散した。「座」の気風を維持していくためには、個性豊かな鹿間時夫、久松保夫両氏を失ったことが大きな損失だった。一定数の打てば響く同人が、「座」の維持には必要なのである。また別の見方をすれば、「座」というものが持っている閉鎖的、排他的性格から一定期間以上継続すると必然的に閉塞してくるのはやむをえない。必要な時期に解散することもまた大切だったのかもしれない。

 こけしの優れた鑑賞者は、こうした「座」的な集まりのなかで育ったのである。面白いことには多くのこけし語彙がこうした「座」における議論のなかから生まれてきた。孤立した収集家はこけしについて語り合う機会がすくない、したがってこけし語彙も乏しい。すなわちこけしについての種々の概念操作を行うためのツールを欠いているのである。鹿間時夫氏はこのことを十分に意識していたのかもしれない。彼は「こけし鑑賞」(美術出版社)においては意図的に独特の用語を創作多用した。さらに「こけし辞典」編集に際しては「こけしの観賞用のターミノロジー」を極力採用することに努めた。「言葉」が貧しいと、過去そして未来の鑑賞者たちとの豊かなコミュニケーションが出来ぬと思ったのであろう。

 「座」という性格を持ったこけしの集まりがなくなってから、こけしの鑑賞はきわめて個人的なレベルに退行して行くのではないかという懸念を持つ。例えばこうしたホームページが新しい形の「座」の役割を担えるだろうか。あのような濃密な空間を築くことが出来るだろうか。一つの挑戦ではあるが、これも一定数の打てば響く呼応者が現れてこなければ先の見通しは明るくない。

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