木人子閑話(23)


浪江の怪

うなゐの友 

清水晴風編の「うなゐの友」はこけしを掲載した最初の文献として知られる。
編者清水晴風は当初「うなゐの友」十編を出す予定であったが、六編までで亡くなったので、版元芸艸堂山田直三郎の勧めで西澤笛畝が後を引き継ぎ完成させた。初編は明治二十四年十月刊、その後約十年を経て、明治三十五年十二月に貳編、明治三十九年十一月三編、明治四十一年十一月四編、明治四十四年五月五編が出て、以下、六編大正二年六月へと続く。西澤笛畝の七編は大正六年五月刊からであった。

清水晴風はこの本発刊の経緯として、次のような趣旨を初編あとがきに記している。
「明治十三年の春に友人の竹内久遠が向島言問が岡にて竹馬會を催し、仲間がうち揃って集まったその席に、各地の昔から伝わった手遊びの品を集め連ね展示した。予もその席にいてその品を見たが、まさに美術とはこういうものを言うべきだろうと深く思いを起こした。今世に美術として絵画彫刻物はじめ数々あるけれども、皆それは高尚すぎて予が如きものの愛玩出来るようなものではない。ただ、このような手遊びの品こそ天然の古雅を備えていて、土にて作られるものあり、木を刻んだものあり、その國々の風土、情体を見るに足るべしと感じた。そこで諸国の手遊び品を集めようと思いたって自ら京阪、奈良その他の地方へ遊歴し、また友人が旅する折にはこれにことづけなどして蒐集を続けた。それからもう十二年を経たが、集まった数は三百点を超え、その種類も百余種となった。朝夕これを傍らにおいて、聊かの美術心を養っていたが、この春、木村氏が来てこの私の様子を見るにつけ、一人の楽しみとするよりこれを広く人々に知らせるほうがよい、よろしく梓に上して一つの冊子とすべきだという。自分にもその心があったので言われるままに拙いながら自ら筆にものして渡した。時に明治二十餘り四とせという年九月末の日、本業の余暇に。」
この料亭植半で開かれた竹馬会には、竹内久遠、清水晴風の他、仮名垣魯文、巌谷小波、都々逸坊扇歌、談州楼燕枝、林若樹、坪井正五郎、万場米吉らが集まったが、清水晴風はすっかり玩具にのめり込んで、その会場で「どうだ今日の集まりの記念にこのおもちゃを全部私にくれないか、私はこの古びた趣のあるおもちゃがすっかり気に入っちゃった。私はこれから一生懸命に日本中の玩具を集めるつもりだ。」と言ったと万場米吉は「郷土秘玩」で語っている。このあと十年で晴風は百余種、三百点を収集し、「うなゐの友」を刊行するのである。
こけしの図版はうなゐの友、清水晴風編の以下に載る、
この中で、今日現存すると思われるこけしは三本ある。
一本は、初編に紹介された一ノ関の宮本惣七で、これは、「お茂ち屋集」写真の甚四郎の右側に立つこけしである。花筐コレクションにあり、高橋五郎さんによって「高橋胞吉−人とこけし−」(仙台郷土玩具の会・昭和六十一年九月六日)で写真紹介された。
二本目は、貳編の浪江町邊のコケシ這子であり、西田峯吉蔵品中にあることが「こけし手帖第九十六号」で、西田氏本人によって紹介された。現在は「原郷のこけし群 西田記念館」に収蔵されている。
もう一本は、やはり花筐コレクションにある六編の飯坂佐藤栄治である。入手経路はおそらく惣七と同じであろう。保存極美、魅力的な赤が印象的なこけしだった。所蔵者は入手当初箪笥にしまっていたが、夜中に箪笥の中でドクンドクンと動悸を打つような音が聞こえて眠られなかったと語っていた。

「浪江の怪」とは何か

ところでこの浪江町邊のコケシ這子には実に不思議なことがある。浪江町の玩具こけし這子はうなゐの友五編にも再び登場する。従来これは同じものの再掲と考えられていて、こけし手帖第十八号で「うなゐの友」にふれた稲垣武雄氏も五編浪江についての説明には、「貳編と同じ遠刈田系のもの」と書いていた。
まず、貳編と五編の図版を見ていただこう。

貳編、五編の浪江産こけしを比べてみると、確かに同じこけしのように見えるが、胴模様に描かれた重ね菊の段数が違うのである。貳編のものは五段、五編のものは三段である。
それではこの原物といわれる西田コレクションの浪江産はどうか。右の写真は「原郷のこけし群 西田記念館」より頂戴した浪江こけしの写真である。実は西田氏のものは四段の重ね菊であった。
三段、四段、五段と三種の浪江産遠刈田系こけしが存在することになる。これが「浪江の怪」である。
西田氏がこのこけしをどう見ていたか気になるところであるが、手帖記事の論点は「うなゐの友」の前掲のあとがきから、清水晴風が手遊びの品のなかにどのように美を見ていたかという点にあったから、ほとんどこのこけしそのものについては触れていない。ただ写真の解説に「磐城双葉郡浪江町邊のコケシ這子としてうなゐの友二編に収載のこけし(清水晴風旧蔵)」とあるきりである。
私自身も西田さんとこのこけしを話題にして議論した記憶はほとんど無い。したがって、入手の詳細について直接伺ったことはないが、おそらく「吾八」を介してではなかったか。昭和十四年に何本かの清水晴風旧蔵といわれるこけしが林若樹経由で「吾八」から蒐集家の手に渡っており、このときおそらく浪江産として入手したものを、うなゐの友収載のものと西田氏は判断したのであろう。
(一説には、林若樹の蒐集品が吾八に出たのは昭和十七年頃であったという。このとき清水晴風の描いた「うなゐの友」の美濃版写生原画もともに出たようである。その一部は山田徳兵衛の蔵に帰したらしい。--「竹とんぼ・八十四」安藤舜二))
さて、それでは何故三段、四段、五段と三種の浪江産があるのかということだが、これにはいくつかの解釈があり得る。
@ 本当は今西田コレクションにある四段のものしかない。清水晴風が版画の原画を描くときに、デフォルメをして三段になったり五段になったりした。西田氏は慎重な人だから、根拠がなければ「二編に収載のこけし」とは書かないだろう。
A 浪江は三本あった。五編の首の形態は明らかに西田氏のものと違う。おそらく貳編のものとも違う。何本も持っていたはずのこけしの中から五編で再び浪江を取り上げたのは違うコケシだからだ。また、西田コレクションのこけしは、眉が左右接しているが、「うなゐの友」は貳編、五編とも眉の間が広く開いている。重ね菊三段、四段、五段それぞれ別のこけしである。
可能性としては@Aの中間のいくつかの組み合わせもありうる。
わたしは@の方の可能性があると思っている。確かに同じこけしを繰り返し二回掲載するのはおかしいかも知れないが、その点では貳編、五編の南部盛岡の玩具も全く同じキナキナを繰り返し使っている。
貳編、五編の重ね菊の段数の違いについて晴風はそれ程気にしていなかったかもしれない。晴風の写した胴模様の菊そのものの描き方をみてもかなり正確性を欠いている。本来重ね菊は、一つの菊の上下二つ横に赤点を描いて空間を決め、それから菊の花弁を描く手法をとると思われるが、貳編の五段重ね菊では最下段のみそのような描き方で、他の菊では全く統一性が取れていない。工人はこうした描き方をしない。五編の重ね菊にいたっては、各段の間に縦三本の赤まで入って遠刈田としては変則的である。これらはおそらく晴風の写生が必ずしも正確性に拘泥したものではない、あるいは絵画上のデフォルメがあったためかと思われる。

浪江産こけしの作者は誰か?

そこで、仮にうなゐの友の浪江産は西田コレクションが唯一のモデルだとしよう。すると、貳編が明治三十五年十二月刊行であるから、西田氏のこけしはそれ以前の作と考えられる。では作者は誰か?
写真で見た印象では遠刈田の佐藤治平に一番近い。面描の基本的な特徴が治平と一致しているからだ。例えば眉は左右接するばかりに描かれる。両眉の中心は鼻の位置よりやや左にずれる傾向がある。左右の眼は鼻に接する。目の位置は向かって右の方がやや高い。これらは天江コレクションの治平の特徴に一致する。高橋五郎さんによると西田氏自身はこの浪江産を「清水氏からのもので治平作ではないか」と推定していたそうである。明治期の治平とする判定に説得力はある。
しかし、唯一苦しいのは明治三十五年以前という製作年代の制約である。治平は明治十六年一月十一日の生まれ、明治二十八年十三歳で青根の丹野工場で兄重松の手ほどきを受け修業、明治二十九年重松とともに新地に戻った。明治三十三、四年頃にはこけしやおもちゃ類を盛んに挽いていたのを当時十二、三歳の佐藤円吉が見て記憶している。であるから、この頃のこけしが清水晴風の手に渡って、うなゐの友に掲載される可能性はぎりぎりであるがあり得る。
しかし、この西田氏蔵の浪江こけしをよく見て頂きたい。向かって右の眉毛の辺りに小さい円形の圧痕がいくつも確認できるであろう。これは釘を叩いた跡である。痛ましい話であるが古いこけしにこの種の圧痕が往々にして見られる。子供の伴侶を長く勉め、その役割を終えたとき、カナヅチ代わりに使われることがあるのだ。このこけしはそうした来歴を持っている。
清水氏のコレクションでは、新品を入手したものは一般に保存状態が非常によい。一方でこの浪江産こけしの保存は必ずしも良くない。釘の圧痕もある。晴風の手に渡った時には、作られてから既にかなりの年月がたっていたのだろう。産地ではなく、子供の伴侶を勉めた浪江の地で見つけ出されたものである。治平が最初にこけしを作り得る明治二十八年十三歳の時としても、作られて四、五年でカナヅチ代わりにならなければ「うなゐの友・貳編」には間に合わない。(後で、この浪江こけしは大野延太郎が見出して、清水晴風に贈ったものであることが判明した − 清水晴風と大野雲外
それでは制作年代の上限はいつか、足踏みになってからであるから明治二十年頃以降であろう。上下にロクロ線を彩色で加えるのは足踏みになってからである。二人挽きの時にはロクロ作業場には顔料を置いていなかった。
製作年代は明治二十年代の前半ではないかと思う。こけしが子供の手に渡り、その子供が成長してもうこけしに愛着を抱かなくなったころ、あるいは嫁に行ってしまった後、カナヅチ代わりに使われて、それが明治三十年代前半に清水晴風の手に渡らなくてはならないからである。
描彩の形式からは、作者は治平に近いところにいた先輩工人が候補になる。治平がそのこけしを作る上で一番影響を受けたのは、最初に重松に手ほどきを受けた丹野工場の時代であろう。そのころ丹野工場には茂吉、久吉がいた。重松、その弟重吉、茂吉、久吉などが候補になるかもしれない。
さて、以上は「うなゐの友・貳編」のこけしが西田コレクションのものという@の仮定に立っての話である。
もし、Aが正しく、西田コレクションのこけしが「うなゐの友・貳編」のものと全く別物であるなら、年代の制約はなくなる。
とすれば、作者は治平ということになるだろう。明治三十年代のこけしが、子供の手を経た後に、後年になって清水晴風に見出されたと考えればよい。
最後にもう一つの「怪」、同じように「吾八」から手に入れた高橋勘治のこけしについて、あれだけ執拗な調査追求を惜しまなかった西田峯吉氏が、どうしてこの浪江産の追求をしなかったのだろう。佐藤茂吉は昭和十八年まで生きていたし、治平は昭和二十七年まで生きていた。容易に確認できたであろうと思うのだが。

「うなゐの友」の思い出

こけしの文献の中で「うなゐの友」は手に入れることも目にすることも難しかった。後に復刻版も出版されたが、それも高価で普段参考に出来る文献ではなかった。学生時代に私が最初にこれを見たのは大学の図書館だった。坪内逍遥文庫の中にあった。逍遥が手にして眺めた本であったろう。ただし、ここには初編から八編までしか揃っていなかった。その八冊が丁寧に茶色の帙に納められていた。
この「うなゐの友」の図版が、最近「日本のおもちゃ-玩具絵本『うなゐの友』より-」という本にまとめられて芸艸堂より出版された(平成二十一年五月二十四日発行)。各図版は、おもちゃと縁起物、十二支と動物、人形と羽子板・かるたという三つのカテゴリーに再編成されて紹介されている。監修は畑野栄三で、畑野氏の「『うなゐの友』誕生の秘話」という論考があり、各図版には林直輝の解説がついている。この本で、多くの人が『うなゐの友』の図版を見ることが出来るようになった。
本ページに「うなゐの友」図版を掲載することを許可してくださった(株)芸艸堂に感謝いたします。
また、「浪江こけし」のカラーの写真をお送り下さり、掲載承諾を頂いた「原郷のこけし群 西田記念館」に謝意を表します




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