木人子閑話(25)


二つの「こども博覧会」

   博覧会の時代

 今年(平成二十三年)の正月、神田の古書店「ひやね」に行ったところ畏友岡戸正憲さんに会った。岡戸さんは平成元年に加藤文成コレクションの選りすぐりのこけしを前にして行った高麗幸雄さんとの対談集「こけし雑俎別冊」の著者である。その岡戸さんから、A5版の封筒に入ったものを「これ差し上げます」と言って贈られた。封筒の中には二冊の小冊子が入っていたが、それがこの左の写真の「こども博覧会」であった。それぞれ明治三十九年、明治四十年に発行された貴重な文献である。
明治三十九年十一月の京都「こども博覧会」にこけしが出品されたことは知っていたし、「こども博覧会」記念号から「お茂ち屋集 全」がそのこけし展示部分のみを抄録したものについて閑話(5)でも紹介したが、そのオリジナルの「こども博覧会」記念号は見たことがなかった。その現物を頂戴したので大変驚くとともに感激した。

頂いた本をパラパラとめくって京都市岡崎町博覧会館のこけし展示のオリジナル写真はすぐ発見確認したが、ところでこの「こども博覧会」の本が何故二冊あるのか不思議に思いつつ大切に家に持ち帰った。

こども博覧会については山口昌男も「晴風小伝と印譜」を引用しながら「京都こども博は、三越の音に聞こえた児童(こども)博に先駆けて行われた催しである。・・・・子ども博を始めたのは京都であったが、東京三越の日比翁助は、巌谷小波を主幹とする学者、芸術家の研究会を結成して子どもの研究および博覧会を三越で開催することによって文化情報発信基地としての百貨店の立場を大いに高めた」(内田魯庵山脈)と書いているくらいで、私も京都が最初と思い込んでいた。 
 家に帰って翌日、ゆっくりこの二冊を見てみると、左側の赤い表紙の京都教育会報記念号に、大沼甚四郎、作並系の古こけし、一ノ関の宮本惣七が写っている写真、すなわち「お茂ち屋集」に再掲された写真のオリジナルがある。ただ、その「参考品出品目録」には「奥州三春馬外 一二九 東京 清水晴風」と記載されて晴風出品一二九品はひとくくりにされ詳細は記されていない。
一方右の方の「日本の家庭臨時増刊 第三巻第四号」(同文館)の方を見ると写真はないが、目録は詳細で、出品部門別目録の第四部(玩具と遊戯に関するもの)清水晴風出品の中に「磐城浪江町小けしおぼこ、奥州一の關こけしおぼこ」の二つが記載されている。
ここまできて私はやっとこの二つの「こども博覧会」が別の博覧会であることに気がついた。同文館の方の出品こけしの記載が、京都の写真の出品こけしとは違うからだ。写真を見る限り京都には浪江産小けしおぼこは出品されていない。そこで同文館の冊子をよく読むと、これは同じ明治三十九年の五月四日から二週間上野で開催された「こども博覧会」であることが分かった。「こども博覧会」は京都が最初ではなく東京上野が最初であった。
しかも、京都教育会館報「こども博覧会」の趣旨をみると「計画を立てながら実行できずにいたが、既に東京に、大阪に、こども博覧会もしくは玩具展覧会の開設を見るに至っては三都の一つにして、しかも関西の教育の中心たる京都において最早一日の猶予すべきではない。」と書いてある。

そこで「博覧会強記」(寺下勍)の博覧会年表で調べてみると、「こども」あるいは「児童」の付いた博覧会としては、この明治三十九年五月の上野公園で開かれたものが最初であり、しかもそれ以後、規模の大小はあるが日本各地で戦前だけで三十一回も開催されていることが分かった。ただその全てにこけしが出品されたかどうかは分からない。
明治末からの戦前の期間に、何故このように「こども博覧会」が盛行したのであろうか?そもそも何の目的で会ったのか?
最初の「こども博覧会」の同文館版で、教育学術研究会が整えた博覧会の趣意書を見ると、大略次のように書かれている。
明治三十四年春フランスのパリで「こども博覧会」が開催された。前大統領や、時の衆議院議長、文部大臣らが会長で複雑で大規模な組織をもった盛大な催しだった。非常に成功して、一般社会の謳歌するところとなった。極東の地で戦捷(戦勝国の意)の島において、これを挙行しなくていいわけはない。「こども」は将来の国家社会を左右するものだ。児童教育は重要かつ至難、学校教育にだけ任せてよいものではない。家庭教育の改善進歩も、国家現今の急務である。「こども博覧会」は、こうした急務の一端に応ぜんとして行うものである。

このときの会長は伯爵・東久世通禧であった。東久世通禧は、もともと京都の尊王攘夷派の公家、公武合体派が実権を握った後長州に逃れ、王政復古により復権した。明治四年には岩倉具視の使節団に理事官として随行して、欧米を廻っている。
この東久世通禧も、巻頭で「子供の遊戯や玩具、衣服も十分教育ということを考慮して与えられなければならない、家庭でのこのような考慮は十分行われていると言い難い。教育家および家庭の参考に資すると共に、こどもに清新なる娯楽を与えるというのが目的である。各国の子供の遊び方の比較や、子供の育て方に関する古今の変遷を見ることによって、得られるところも多いであろう。」といっている。
その時代を含めてこの博覧会の背景を要約すれば、日露戦争の戦勝国になったが将来ますます発展するために「こども」の教育を重視する機運が強く起こったこと。海外で「こども博覧会」が盛大に行われていて、国家の将来への目配りが行き届いているのに、日本も遅れてはならないという意識があったことなどであろう。
上野や京都の「こども博覧会」は後の百貨店で開催された児童博に比べて「小規模」と書く研究者が多いが、実態としてその規模はかなり大きなものであったことがこの本を見るとわかる。
 上野公園五号館で開かれた「こども博覧会」は全六部からなる構成であった。

清水晴風はこの第四部に前述の磐城浪江町小けしおぼこ、奥州一の關こけしおぼこ他大量の郷土玩具類を出品している。なおこのときの奥州一の關こけしおぼこは同文館版の挿絵(右図)にある通りあまり似ていないが大沼甚四郎である。もう一本は閑話(23)で紹介した浪江産であった。
ところで、この同文社版の出品目録を見て、もう一つの新しい発見をした。
こけしを出品していたのは清水晴風だけではないのである。中澤澄男という人の出品したものの中に、陸中飯坂の小けしおぼこ・一、陸中盛岡の小けしおぼこ・一、仙台の小けしおぼこ・二 と四本がある。中澤澄男は本郷区西方町とあるが、今まであまり注目されたことのない名前である。じつは中澤澄男は大野延太郎、八木奘三郎などと並んで、集古会考古学派のひとりである。この明治三十九年に八木奘三郎と共著で「日本考古学」を博文館から出版している。中澤はこけしの他にも、三春駒、八幡駒、雉車など出品しているし、同じ人類学教室で集古会の柴田常恵は「玩具の一つ二つ」という小文を寄せている。坪井正五郎の帝国大学人類学教室貸下としても多くの海外アジアの玩具類が出品されているから、この「こども博覧会」では集古会メンバーが強力な出品者でり、協力者であったことが分かる。「こども博覧会賛助員」には坪井正五郎や清水晴風のほか、箕作元八、三宅米吉、巌谷季雄、小杉榲邨、千家尊福など多くの集古会会員が名を連ねている。

同じ年の十一月に京都岡崎町博覧会館で開催された「こども博覧会」の冊子には「古代玩具 東京清水晴風君出品」として写真が掲載されており、その中に右図のように三本のこけしが写っている。一つは奥州一ノ関小けし這子として出品された大沼甚四郎〈現深沢コレクション)、その右が一ノ関の宮本惣七(花筐コレクション)、手前に寝かされているのが作並古こけし(花筐コレクション)である。
京都の博覧会にも、内容詳細不明ながら「陸前岩沼馬外 一一 東京 中澤澄男」の記載が目録中にあり、おそらくこの十一品の中に東京同様こけしも含まれていたであろう。

三越児童(こども)博覧会とこけし

「日本の家庭臨時増刊 第三巻第四号」(同文館)で面白いのは三越呉服店や白木屋呉服店が第二部で全面的に出品協力しているところである。第二部の「中央の花飾りをした棚は、三越呉服店の出品ばかりを入れたので、目も眩ゆきような気がするのでした。」と解説がある。三越呉服店が出品しているのは赤子用、こども用の衣類、装身用品である。「こども博覧会賛助員」のリストには日比翁助の名もみえる。
日比翁助は慶応義塾を卒業後、三井銀行に入社、本店副支配人にまでなったが、明治三十一年請われて合名会社三井呉服店の副支配人に就任した。明治維新後、三井は財閥として大きく発展し、三井銀行、三井物産、三井鉱山など「三井の御三家」がその中心となったが、呉服店は武士の顧客の喪失、洋服への服装の変化などで取り残され、その立て直しが日比翁助に期待されたのだった。
明治三十七年、三井事業から独立して株式会社三越呉服店となり、日比翁助は専務取締役就任、そして百貨店構想に向かって進み始める。明治三十九年には欧米視察を行って、ロンドンのハロッズをモデルにすることを決めた。
上野の「こども博覧会」はまさにそのタイミングで開かれたのである。
日比は百貨店構想を推進するにあたって、顧客ニーズを掌握するために明治三十八年に「流行研究会」なるものを結成した。各界の権威を集めて、衣装、調度類の流行傾向を研究討議し、三越に助言を行う会であった。会員には新渡戸稲造、森鴎外、巌谷小波、遅塚麗水、松居松翁、黒田清輝、石橋思案などがいた。
巌谷小波は児童文学者、父は貴族院議員の巌谷一六、小波は明治二十四年に書いた「こがね丸」が圧倒的な好評を得て人気作家になっていた。この巌谷小波の進言で三越は明治四十一年に「子供部」新設、そこへ行けば子供のものは何でも揃うというフロアを設置した。巌谷小波はその「子供部」の顧問となった。
この「子供部」の活動の中から「小児会」を経て「三越児童博覧会」が生まれる。「小児会」は懸賞を付けて新案玩具を募集する企画で、その審査員の中には巌谷小波のほか坪井正五郎などもいた。それが発展して明治四十二年四月の「第一回児童(こども)博覧会」に至る。
この児童博は「児童そのものを陳列し、若しくは児童の製作品を陳列するものにはあらず、男女児童が平常坐臥行遊に際して片時も欠くべからざる衣服、調度及び娯楽器具類を、古今東西に亘りてあまねく鳩集し、また特殊の新製品をも募りて之を公衆の前に展覧し、以て明治今日の新家庭中に清新の趣を添へんことを期する」という趣旨であった。三越本店の日本橋通りに面した2600平米の空地が会場となって、展示館が新設され、また事務棟の一部も改装されて会場となった。二階正面にゴシック調の入口があり、そこを入ると教育、美術、服飾、工芸、農林、尚武、機械などの展示があった。中庭には噴水があり、小規模な動物園もあった。会期中には、展示のほかに余興、講演などが行われ、三越少年音楽隊の演奏が好評であった。非常に盛況であり、子供用品という市場を確立したことも百貨店には大きな成果であった。
巌谷小波は季雄という本名で日比翁助とともに上野の「こども博覧会賛助員」に入っているから、上野の「こども博覧会」への三越の積極的な参加に対して、日比翁助に何らかの働きかけがあったのかもしれない、そしてそれは日比翁助の百貨店構想と呼応し、また三越児童博覧会へと発展したのであろう。
さて、何故これだけこだわって三越の「児童博覧会」について言及するかと言うと、この博覧会で多くのこけしが売られたはずだからだ。
例えば、志戸平の佐々木与始郎の弟与五郎は「明治三十八年十三歳の夏から木地を習い始めた。はじめはコマ、こけしなどを挽いた。私が木地を習い始めた明治三十八年頃、三越から大量のこけしの注文が来て、家族で挽いた。」と語っていた。この聞き書きは昭和四十四年のことだったから明治三十八年という年次そのものは正確なものではないであろう、おそらく明治四十二年ころの三越児童博覧会のために大量の注文を受けたのだと思う。三越児童博覧会の出品を家族で行ったとすれば、それは与市、与始郎、与五郎のこけしだったはずだ。与始郎・与五郎兄弟の父角次郎は明治四十年に亡くなっている。また、鳴子の高橋盛も明治四十年ころに三越からの注文があり、家族そろって製作したと語っていた。思いがけぬ大量の注文には家族そろって製作にあたらざるを得なかったであろう。あるいはそれが勘治一家と言うこけしが比較的多く残った理由かもしれない。
三越からの注文は、鳴子や志戸平ばかりではなかったであろう。「うなゐの友」などでこけし産地として知られていたところ、例えば飯坂や、浪江にもあったかもしれない。どういう作者が、それに応えてこけしを送ったのだろうか。三越の赤いレッテルが貼られた古いこけしがどこからか出てこないであろうか。
貴重な文献を譲って下さった岡戸正憲さんに感謝します。


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