宮本常一と周防大島のこけし 


miyamoto今年(平成十六年)はじめ日本中世史の網野善彦氏が亡くなった。網野氏の著作からはたびたび啓示や刺激を受けて注目していたが、この機会に手元にある本を開いてみると、網野氏と民俗学者の宮本常一氏との共鳴に気が付いて興味深かった。既成の枠組みを超えて、この列島に存在し続けた構造を見極めたという実感に、二人は共鳴しているように思える。歴史資料や文献のみに頼ることをせず、徹底的にフィールドワークを積み重ね、民俗・民具資料について知悉した中から数々の着想を生み出す宮本氏のやり方には、おそらく網野氏は多少戸惑ったのではではなかったか、しかしたどり着いた地点は中世古文書を中心として史料を緻密に分析する網野氏のの到達点に極めて近く、その成果に具体的な肉付けをするものであることに気が付いて網野氏は驚きもし、力づけられてもいる。

もっとも、よく調べてみると、昭和二十五年に網野氏は渋沢敬三が創設した日本常民文化研究所に入り、そこで漁村資料の収集をしていた。宮本常一ともそこで出会っているから、本来宮本とかなり近いところを歩いていたのかもしれない。
網野善彦は大学時代にマルクス史学に傾倒しやがて挫折したという経験を持っていて、それが時に氏の文章にこわばった筋のようなものを感じさせるのだが、旅をして人の話を聞き、集めた物によって実証し、自分の道をひたすら進む宮本常一のやり方は、網野氏のそんなこわばりをほぐしてくれる力もあったようにも見える。唯物史論では、いつも虐げらていて貧しいはずの人たちが、宮本常一の世界ではむしろ生活力があって逞しく、広い活動範囲を持っていたことなどが自然体で語られており、それは網野が中世史の世界で同じように感じていたことでもあった。
私も宮本氏には一度手紙でこけしと温泉習俗について御質問し御返事を頂いたことがあった。以下の一文は、そのいきさつを「木の花・二十八号」(昭和五十六年五月)に書いたもので、それをそのまま再録する。宮本氏のお手紙は武蔵野美術大学の封戔に民俗学研究室と書き添えられてあった。

宮本常一氏の手紙

ニューヨークで一番早く読む事の出来る邦字紙は、読売新聞で、毎日ファクシミリで電送されてくる紙面が写真印刷されたものを米国読売が配送してくれる。写真印刷の独特の粉っぽい紙面で、宮本常一氏の死を知ったのは、帰国準備に追われていた二月の初めである。

宮本常一氏は、日本全国を自分の足で歩き、自分の眼で見、耳で聞き、手で触れて物事を把握するというタイプの民俗学研究者であった。また、儀礼や習俗という眼に見えぬ構造のみを追求するのでなく、物的資料をも重視して、特に民具学の提唱者としても知られている。

しかし、こけしとの関係という面では宮本氏は必ずしも多くを語っていないようで、注目されたものとしては昨年(昭和五十五年)九月十日付朝日新聞夕刊に掲載された木地玩具に関する一文ぐらいが記憶に残る程度であろうか。この記事の中で宮本氏は氏の生まれ故郷である周防大島にもこけしはあったと述べ、こけしが東北固有の玩具であったとする今日の定説を再考する契機を与えた。この記事に関しては、「こけし手帖・二百三十八号」で宍倉氏が、「木の花・二十七号」で久松同人が注意を促している。

私自身は宮本常一氏と直接会ってお話を伺う機会はなかったが、かつてこけしの発生とからめて湯治習俗について質問し、御返事の手紙(昭和四八年一月七日付)を戴いたことがある。その当時、湯治習俗を農耕儀礼の一形態とする考えに私は熱中しており、豊饒の呪力の再生儀礼としての湯治習俗こそ、こけし発生の母胎と考えた。そこで、こうした視点に関連する文献・資料について主にお尋ねしたと記憶している。

このように作業仮設に基づいて資料を収集しようというやり方は、今考えて見ると、宮本氏の民俗学研究の方法と距離のあるものだったかもしれない。にもかかわらず親切な御返事を下さった宮本氏の御厚意には心から感謝申し上げなければならない。この返信の中で、宮本氏は湯治関連の文献類を紹介して下さった後、例の大鳥のキボコについても言及している。また「ろくろは使わなかったけれど」と限定して鹿児島県南西諸島の木偶についても触れている。この文脈から読みとるなら大島キボコは明らかにろくろ製ということになろう。宮本氏は、こけしの存在は「東北のみの特異な現象」ではなく日本全国のいろいろな場所に存在したと考えていたようである。これは民俗資料に注目して日本全国を歩いた宮本氏の意見として無視し得ない。ただし、今となっては宮本氏のこけしの概念がどの程度の広がりを持ったものか判断出来ないのが残念である。

返信を戴いた時には、自分の仮説の傍証を集めることに夢中になっていて、宮本氏の御返事の中の新しい課題について追求を怠ったのが悔まれるのである。なお、宮本氏に質問の手紙を書いた時、同時に宗教学者の堀一郎氏に同様の手紙を出そうと考えていたが、当時堀氏は病床中にあり、回復の時期を待っているうちに亡くなってしまった。その点では、宮本氏とは誠に有難い御縁であったと思う。

宮本氏のお手紙は、氏がこけしを語ったものとして貴重なものと思う。ここに全文を紹介させて戴き、併せて宮本氏の御冥福を心からお祈り申し上げたい。

(なお、お手紙の掲載について宮本氏の奥様に御諒承を願ったところ、快諾の御丁寧な御返事を頂戴した。)

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拝復

お返事おくれて申しわけありません。湯治について今日までまとまって書かれたものは何冊かあります。が、いま私の手もとにありません。その一つは風俗史講座の中であったと思いますが、中桐確太郎氏の浴場史があり、仏教史講座の中にも沐浴について書いたもののあったのを覚えています。また藤波剛一博士の「東西沐浴史話」もよい本でした。そのほか「変態浴場史」などが戦前に出たものです。私は戦災でこれらのものを焼いてから、その後は買入れていません。湯は斎(ゆ)から来たことばであり、湯によってきよめられてゆくことについては折口先生の「古代研究」三冊にかなりくわしくふれており、御参考になるのではないかと思います。

なおコケシは新しいことぱで、古くはキボコといっていたようです。コケシボウコともいったといいますが、コケシということばそのものは木屑のことであり、キボコの方が一般的だったようです。そしてそれは東北だけのものではなかったようです。私の郷里山口県大島などにも幼少のころにはありましたし、またろくろは使わなかったけれど、形からいって同形のものが、鹿児島県南西諸島にあったのを見ました。丹念に見てゆけば各地にあったと思いますが、大ぜいの人の眼が、東北にのみそそがれていて、他の地方についてしらべなかったことから、東北のみの特異な現象のように思いこんだのではないかと思います。

コケシについての書物はたくさんありますが、それが信仰的なものであろうと指摘したのは三原良吉氏などが古い方であり、兵庫の橘文策氏もそのように見ていました。ただ木地屋は西日本にも広くわたりあるいておりながら、そこでは温泉で木偶を売ったという例はあまりないようです。追求していくとき、何故一方に分布し、他方にはそういう現象が少ないかということが、大変問題になることだと思います。あるいは西の温泉地にもあったのかもわかりません。それでは何故早く消えたのかが間題になります。ただ湯治中に里の人が湯治見舞にゆき、湯治者がかえるとき、湯治土産をもって帰ったという伝承は、東にも西にもあり、東北ではその土産の一つがコケシであり、西の方ならば草履など作って持って帰ったとか、ワラビ・ゼンマイをとってもって帰ったとか、いろいろの土産をもって帰っています。但し、別府への湯治の場合は、湯ノ花を土産にすることが多かったようで、そうした習俗を通してコケシの位置づけをすべきではないかと思っています。湯の宿のことは、私も「日本の宿」に少しふれて書いておいたことがあります。とりあえずおくればせながら御返事まで

一月七日            宮本常一

橋本正明様

この原稿の後で、橘文策の「こけしと作者」を見ていたところ、次のような記事を発見した。
「民俗学をやっている宮本常一からの通知では、最近同氏がこけしを持って帰ったら、令姉は一眼見るなりおおかはいいホーコさんだと叫ばれたそうである。意外にも親しみのありそうな口ぶりに興味をそそられて聞いてみると、山口県大島に育ったころ(二十余年前)村に森口といふ樽屋の爺さんがゐて、こんな木人形を作ってゐたそうである。爺さんはもと四国から渡ってきた木地屋で、人形は棒状の作りつけで顔を描き、ホーコさんと呼んで子供達が弄んだそうである。」
橘文策はこうした情報をもとに、こけし(きほうこ)は木地屋がいるところであれば何処でも作られたであろうと言う見解を述べている。

天理ギャラリーで展示されたトカラ諸島の木人形


平成二十年春、「こけし 鳴子と弥治郎」というテーマで天理参考館所蔵のこけしが東京の天理ギャラリーに展示された。

このとき、参考出品として、トカラ人形も陳列された。昭和十年のもので、トカラ列島のうち中之島のものと紹介されている。
トカラ列島は、南西諸島の内、鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼群をいう。十あまりの小島からなる。市町村名で言うと鹿児島県鹿児島郡十島村である。

「またろくろは使わなかったけれど、形からいって同形のものが、鹿児島県南西諸島にあったのを見ました。」と宮本常一氏が手紙で触れているのはこの人形のことだと思われる。

これがどのように用いられていたのか、昭和十年に作っていたのであれば、まだこの人形が使われていたころの人が生存しているだろう。要調査項目である。
このトカラ人形について、いろいろな方から情報を頂いた。
天理参考館の幡鎌真理さんからの情報:鹿児島県歴史資料センター黎明館の学芸員に問い合わせたところ、トカラ列島中之島十島村内の神社のご造替で余った用材で作られるもののようです。奈良の一刀彫も春日大社のご造替の余材で作られたものが価値がありますので、そのようなものであったのかとも思います。

こけしの会同人久松保夫さんの「はうこ考」(木の花第参号)のなかにも「鹿児島県大島郡十島村宝島で、玉寄神社の改築の際、大工に携わるもの達が建材の剰りで子供らへの土産に作るという十八センチほどの木彫人形(ただニンギョウと呼ぶ)は、カラフト・アイヌの信仰偶像「ニポポ(木の小さな子)」に通じる姿体をしている(アチック・ミューゼアムノート第一「民具問答集」昭和十二年刊)」という記事の引用があった。

鹿児島県十島村の中之島天文台長兼歴史民俗資料館長福澄孝博さんからは、資料館の展示にトカラ担当の川野和昭先生が書いた説明文の内容を送っていただいた。
「トカラ人形 宝島・平島 : 宝島では、旧暦11月に霜月祭りを行い、4年に1度集落の宮を立て替え、その余った部材で、名付け親が女児に遊び道具として人形を作り与えた。女の子たちは、正月には床の間に飾って餅を供えて祀り、2日には抱き初めをし、平素は抱いて子守唄を歌って遊んだという。しかし、昭和10年代で作られなくなった。奈良県天理市の天理大学付属天理参考館には、戦前に収集された「大隈国 中之島」という銘のある人形が収蔵されており、中之島を含めてトカラ列島では広く作られていたことがわかる。」
福澄館長からはトカラに関する著作の多い元鹿児島大学の下野敏見先生の名前も教えて頂いた。
民俗学者下野敏見氏の著作には、トカラはじめ南西諸島の行事、祭事を中心とするものが膨大にあることが分かった。
早稲田大学中央図書館の研究書庫でさっと眺めたところ、「南西諸島の民俗T」(法政大学出版局)に「昔からある手作りのニンギョウ(トカラコケシ)」として写真掲載があり、本文には「人形:コケシの原型を思わせる人形。宮造りの時、ひまをみては、各人が浜坂のところでこしらえたもので、材木は柔らかいクサギ、古墳出土の埴輪にも似た形で、全体の姿が古風、また、その製作法もナタやカマで作るだけに、臼の切り込みにも似た古い作風である。人形はトカラ各島で作られた。」とあった。
木人形についてはこれだけしか見つけられなかったが、下野氏の著作から、南西諸島にはナマハゲにも似た仮面来訪神の行事や藁人形、巫女(トカラではネーシーという[京の内侍に通ず])を中心とするシャーマンの祭事も多く、古い日本の文化が多く残っていたことがわかった。下野氏の著作のなかに宮本常一氏と写った写真も載っていたから、宮本氏は確かに南西諸島でこの人形を目にして記憶していたのだ。

ついでに近くにあった田畑千秋さんの著作「奄美の暮らしと祭礼」(第一書房)を見たところ、トカラ同様の人形をおぶって子守の真似をする女児の写真があり、その人形をヨヰヨと呼んでいる。「ヨヰヨは主に父親が娘のために作り、材はフンゲィ(下駄等も作る木。桐と材質が似ていて、工作しやすい)。二、三歳頃から四、五歳頃の女児が髪をサジ(手拭いのこと、後にティンヌグキともいうようになった)で押しあげて(後ろ髪が下がらないようにする)、おぶったり、寝かしたりして子守りごっこをする。女児の遊び。」とある。人形はトカラのものに良く似ているが、円柱ではなく、背面が平らになっているようだ。またこの遊び方は東北のコケシの場合とよく似ている。

こうした女児のもてあそびものが、東北のオシラサマのように、巫女の採り物とかかわりがあれば興味深いが、下野氏の著作に多く紹介されている巫女関係の写真には紙製の御幣のようなものはあったが、木の人形のようなものは見つからなかった。神社の余材を使うということからもどうも気にかかるのである。

柳田國男は、巫女の操るオシラサマからベロベロの~を経てコケシの原型を考えていたが、あるいは南西諸島の木人形も巫女ノロやネーシーの演技か採り物とかかわりがもしあれば、木人形というものの共通の祖型を知る上で重要な視点になるだろう。下野氏の本の写真にある仮面訪問神や、巫女(祝女)の姿を見ていると、トカラには原初的な世界が近年まで残っていたようであり、さらに何かヒントが得られそうな期待もある。

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