阿部平四郎さんのこと



阿部平四郎が平成25年2月25日になくなった。
これは名古屋こけし会の「木でこ・204号」に載せた追悼の小文である。
名古屋の矢田正生さんの御了解を得て、このホームページに載せることにした。


昨年(平成二十四年)九月、新宿の京王百貨店で「阿部木の実展」を見た。木の実さんの古作復元にも、新しい創案の意匠にも、それぞれに彼女の感性が現れていて好ましいものだった。その時、メールアドレスを教えていただいて会場での写真をお送りしたが、やがて木の実さんがフェイスブックを利用されていることを知って、フェイスブックによっても折々の生活の一端を知ることが出来るようになった。
その木の実さんのフェイスブック上に、三月二日に次のようなメッセージが載った。
「フェイスブックのお友達にはこけし関係の方も多いので、やはり父のことをちゃんと報告させていただきます。父平四郎は、二十二年間闘病生活を送っていましたが、昨年十二月に心不全のため入院し、二月には肺炎を併発して、二十五日に永眠いたしました。」


平四郎さんと最初に会ったのはいつだったろう。多分、川連に直接お伺いする前に、鳴子のこけし祭で何回かお会いしている。
師匠の高橋兵治郎さんに付き添って、及位の佐藤文吉さんも一緒にこけし祭に参加していたこともあった。この写真は昭和四十一年の鳴子こけし祭会場である。当時は鳴子小学校に、まだ現在の体育館はなく、会場は今プールのあるあたり、木造校舎の講堂だった。(右は昭和四十一年の鳴子祭り会場、左から阿部平四郎、高橋兵治郎、佐藤文吉)        


本格的に川連に平四郎さんを訪ねたのは、昭和四十二年の正月三日だった。そのきっかけは前年十一月の東京こけし友の会の例会で頒布された米吉型を見たからであった。
じつは復元の中で、平四郎さんのあの米吉型は画期的なものといってよい。
その復元のきっかけや経緯については、西田峯吉さんが「こけし手帖・八十五号・八十六号」に続けて詳述いるから有名な話だ。
当初は、お土産こけしの注文だったが、その中に米吉らしい胴模様のものがあることに西田さんは気づく、それまでは平四郎は泰一郎型の復元しか行っていなかった。
西田さんの問い合わせに対して、平四郎は「常々、泰一郎と米吉の類似性にとても関心がありました。深沢コレクションの米吉を見て、さらに風土記の西田さんの米吉を参考に作ってみました。友の会のお土産こけしなら、会員の皆様から意見も聞けるからと思って加えてみました。」
どの蒐集家から頼まれたのでもなく、平四郎が自分の制作意欲、研究意欲から米吉への挑戦を始めた事に、西田さんはいたく感激した。そして自分の風土記掲載の米吉を昭和四十一年八月に平四郎のもとに送ったのであった。
その後の試作の経緯は手帖掲載の二人の文通によって伺うことができる。九月の鳴子祭の会場で最初の試作七本が西田氏に手渡されるのである。さらに試行を繰り返し、ようやく十一月の例会(十二日)で六十本の米吉型が頒布され、完売となった。
翌昭和四十二年の名古屋こけし会正月例会でも、この米吉型の頒布があり大きな評判になったと聞く。米吉型完成へ精進する平四郎さんに感銘を受けたお一人が、名古屋の豊田勘一さんで、平四郎さんのために朴の木材の調達に協力され、平四郎復元の朴材シリーズが名古屋で続けて頒布されることとなった。  

(左の写真 左から平四郎、箕輪新一、陽子、前列 たくみ、木の実)   


東京こけし友の会十一月例会頒布の米吉型を見て、どうしても湯沢に平四郎さんを訪ねたいと思い、共にまだ大学生だった箕輪新一君と誘い合わせて正月三日の川連行きとなった。
川連の平四郎さんのお宅にお邪魔すると、平四郎さんは、まだ満足せず試作、また試作という状態だった。西田さんの米吉、これは深沢要が昭和十五年十二月に旭川に訪問して作ってもらった二本のうちの一つ、その時の聞書きが「こけしの追求」に載っている、この西田さんの米吉が、私が行った時まだ平四郎さんの手許に有った。そして自分が、日々製作したものと比べ続けているのだった。(右下の写真の白黒の方、右側は西田蔵米吉の現物、左は平四郎さんの復元、左のカラー写真は平四郎さんの習作時期、一本に三方向から目鼻を描いて原物に近づこうと努力していた)

話をするうちに、段ボールの箱を取り出して見せてくれたが、その中には、鳴子で西田さんに届けるために九月五日に初めて完成させた米吉型の残り、その後さらに続けた研鑽の過程のこけしが、山のように残っていた。この箱の中から、胴底に初日と書かれた九月五日のもの、十八日のもの、十月のものなど試作過程のものを頒けて戴いた。さらにこの日、目の前で我々のためにも一本づつ作ってくれた。
八月半ばに西田さんの米吉が届いてから完成までのこの数カ月は、平四郎さんにとって非常に集中力の高い、緊張感に包まれた時間だったはずだ。明確な目標を持って、日々なにがしかの前進を自覚しながら精進できる、作者としてはまさに至福の時間を送ったのだろう。その経験がその後の平四郎さんの展開のすべての原点になったと私は思っている。なぜなら、この米吉型だけではなく、今まで作っていた泰一郎型も、この時点を境に全く別物に変身したからである。おそらく、こけしのなんたるかが「わかった」と叫んだ一瞬がこの数カ月のどこかに有ったに違いない。あの試作こけしの山がそうした経緯の全てを語っていた。

 最初に「復元の中で、平四郎さんのあの米吉型は画期的」と書いた。何故か。
それまでの復元は、先人の型を踏襲することはあっても、何もかも原物の通りに徹底的に写し取ろうというというものでは必ずしもなかった。それは西田さんが懸念したように、蒐集家や業者の介入、依頼によって行われる復元が大部分だったからである。これらは依頼人の満足するものを作ることが第一であって、今の自分の作より、写す原物の方が優れているとすら思っていない場合も多かった。
ところが、平四郎さんの場合は、深沢コレクションで米吉を見て、泰一郎と共通する木地山の始原的なものがそこにはあると感じた。それ故、自分がこれからも木地山のこけしを作って行くならば、その始原的なものをつかみ取らなければならないと思ったのだ。そして、西田さんの米吉を手許に置きながら、あの至福の数カ月にのめり込んでいったのだ。
こうした復元を試みる工人は、その後何人か現れるようになった。しかし、あの時代には稀有であった。自覚的かつ求道的な復元、そして完成された米吉型は、見る者に鮮烈な印象を与えたのであった。   


その後、平四郎さんは面白いこけしを作った。仙台に行って天江コレクションを見た時、一本の小寸こけしに魅せられた。誰のこけしか分からなかったが、米吉の雰囲気がした。
そこでその印象をもとに米吉型を作ったのである。実は、そのこけしは一ノ関の宮本惣七の小寸だった。しかし、出来あがったものは全く違和感のない木地山の米吉になった。下の写真に示したのがそのこけしだが、天江さんの所で見てヒントとしたのは図説「こけし這子」九十六の惣七である。今になって思うと、この惣七に米吉の雰囲気を感じ取った平四郎さんの感性はかなり鋭いように思う。
近年、「こけし手帖」で仙台の高橋五郎さんが取り上げたように、江戸末期から鳴子の温泉街の周辺の村々、鬼首や栗原郡ではこけしが作られていたことが明らかになってきた。
おそらく鳴子でこけしが売れていることを知った近在の木地師たちが同様のものを作って近くの湯治場や人の集まる神社や市で売ったのだろう。鬼首では鬼首の温泉へ、木地山や川連では小安、泥湯、須川など、そして一ノ関では山ノ目の市や遊郭、横山では不動尊の門前などでこけしは売られていたはずだ。
それらは鳴子の古いものにおそらく祖型があり、始原的なところで共通のものを持っていたのだろう。それ故、惣七によってヒントを得たとはいえ、その共通の祖型を押さえているから、違和感のない木地山のこけしになっている。そして、この小寸で胴の太い形態は、その後の平四郎さんや木の実さんの小寸こけしに様々なバリエーションとして現れて、木地山こけしの幅を広げることにもなった(下段群像写真の前列の小寸たち)。   


天江蔵品一ノ関を参考に作ったこけし


今振り返ると、平四郎さんくらいこけしと真摯に向き合って製作をつづけた工人は少ないのではないかと思う。自分の自己存在そのものが、こけしにかかっているといった厳しさがあり、またその厳しさを楽しんでいるという風まであった。
フェイスブックに木の実さんの思いは続く。
「暮れには年賀状用の下絵を描いたり、さいごまでこけしに対する情熱を持ち続けていました。よく、夢でこけしを作ったよと言っていました。十一月ごろまでは、わたしが挽いた木地や色紙に描彩もしていました。 線はかすれたり曲がったりするのですが、そんなことは全く気にせず、無心で描いている姿は神々しかったです。
いちばん大事なものだけでできている、そんなことを感じさせる作品でした。」
娘にこうまで言ってもらえる人は幸せである。心からご冥福をお祈り申し上げます。

前列の小品はその後次々に作られた平四郎さんの様々なバリエーション
(Mar. 31, 2013) 




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