鳴子 大穴厄除子如来



鳴子の大穴とその下の祠入口の鳥居
鳴子から潟沼に向かう途中に大穴という場所がある。しばらく前まで脇道を挟んでその両側に鳴子の町営住宅があった。大沼君子さんは新屋敷の坂の途中の家から後年ここに移って暮らしていた。この町営住宅は鳴子町が大崎市に町村合併されたころに撤去されて、いまは雑草ばかりが生い茂っている。
この脇道の突き当りの雑木林の先に高い崖が立ちはだかっており、その中腹に大きな穴が開いている。それが大穴である。まるで山の神の女陰のように見える。
これがご神体であったのだろうか、この大穴の下に社があってお参りする人も多かったらしい。
参詣の人は湯元の坂の突き当り、横屋旅館があった辺りから斜めに上る山道があって、それを登って大穴の下に至ったらしい。今はこの道はない。代わりに旅館「吟の庄」に向かって左手を上って新屋敷の道に出て、あとは階段状の坂を上るルートがある。大穴住宅に大沼君子さんを訪ねた時にはこの道を使った。
自衛隊が作った潟沼までの自動車道は新しい。
秋山忠がいう厄除子如来は、この大穴の下にあった社であろう。参拝客は横屋からの山道を登ってこの社にお参りし、お札やこけしを授かって来たと語っていた。大穴付近には今でも鳥居が二か所ほどある。いずれが厄除子如来かはわからない。厄を除けるから「よけし」、それが転化して「こけし」になったという説もあった。今では厄除子如来があったことを知る者も少なく、子供のころ肝試しと言って、この大穴に入ったという思い出を話してくれる人がいる程度になっている。大沼君子さんが元気なころに尋ねていればもっと詳細が分かったかもしれない。そのころの君子さんは山歩きが好きで多くの山野草を採取して庭にたくさん植えていた。
この大穴は、夏は木が茂っていて見えない。落葉が進む秋になるとようやく見えるようになる。
昔の絵葉書を見ると、温泉神社のあたりは今と違って殆ど木が生えておらず、地肌がむき出しになっている。おそらく硫黄ガスの濃度が高くこの辺りには木が生えなかったのであろう。大穴やそこに登る道も、あるいはもう少し木が少なくて、その頃なら夏季にでもこの大穴は拝めたのかも知れない。


大穴時代の大沼君子さん




産地風影

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