南部風影
志戸平温泉 (絵葉書)
橘文策氏撮影による与始郎 (昭和六年頃)
志戸平は豊沢川に沿った古い温泉地、坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、一行が発見して受けた矢傷を癒したと伝えられる。元禄年間から湯治場として盛んに利用された。大正八年に温泉軌道が花巻から鉛まで開通し、昭和四十四年廃線となるまで、この風情のある軌道で温泉場に向かうことが出来た。
志戸平の木地業は古く、南部藩の「御領分物産取調書」には木地類産地として二子万丁目通志戸平が記載される。木地師は代々佐々木姓を名乗り、明治初年には広く盛岡、一関方面に製品を出していた。明治中期、与始郎の祖父与市の頃にはこけしを作っていたと言うがその頃のものは残っていない。与始郎の父角次郎、与始郎の弟与五郎も木地を挽き、志戸平では四台の轆轤で、与市、角次郎、与始郎、与五郎が並んで仕事をした。角次郎、与始郎ともにこけしは挽いたが、描彩は与市が専ら行なっていたらしい。角次郎は四十九歳でなくなった。与市はその後大正三年に没したので、与始郎妻センがその描法を受け継いだと言われている。
昭和五年、一家は志戸平からセンの実家のある横川目に移った。
現在では与始郎・センの三男覚平がこけし作りを継承している。
この与始郎と覚平の木地を挽く姿をよく見て欲しい。右手の鉋の握り方、馬をはさんで上から握る左手、木地の伝承は父子相伝で正確に伝えられている。
昭和二十六年に世を去った与始郎には会うことが出来なかったが、一緒に木地を挽いていた弟の与五郎には会うことが出来た。
与五郎は大正三年入隊するまで志戸平で木地を挽き、大正六年兵役除隊後一時志戸平に戻るが、まもなく花巻に出て菓子製造業に転じた。
右の写真は昭和四十四年、花巻の自宅でその時も続けていた菓子店の前で写したもの。
与五郎はいろいろな話をしてくれた。
「明治三十八年十三歳の夏から木地を習い始めた。はじめはコマ、こけしなどを挽いた。角次郎の弟の要吉のこけしは見たことが無いのでどんなものかわからない。私が木地を習い始めた明治三十八年頃、三越から大量のこけしの注文が来て、家族で挽いた。祖父与市のこけしは、兄与始郎に比べて胴のくびれがずっと細く、小さな幼児でも握って振れる様になっていた。」
この明治三十八年の三越注文のこけしが現存しているか不明、それらしい志戸平こけしも発見されていない。見つかれば、それは未見の与市の描彩である可能性が高い。
このやりとりのあとで与五郎はとても貴重なものをくれた。それは与五郎が花巻に移るにあたって持参した与始郎の古いこけしであった。花巻に移った時期を考えれば大正六年頃のものであろう。
二本の与始郎作を紹介する。左の七寸八分が与五郎から頂戴したもの。志戸平の工房で作られたものに違いない。右は昭和七年頃のもの。横川目に移って間もないころのものであろう。描彩はともに妻女センである。
与五郎の子供達の伴侶をも勤めたであろう左の七寸八分は、その時代の傷も見えるが良く無事に残ってくれたものである。おおぶりの面描はおっとりして静かだが、子供たちと長く遊んでもらった満足感を漂わせる顔のように見える。
神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」(昭和五十三年)には久松蔵の小寸佳品とともにこの左七寸八分が展示された。