こけしの文化史 (4)


こけしの世界の物語


「子どものための」とか「こどもたちに語る」あるいは「若い読者のための」といった類の本は、割に沢山出版されているものだ。新刊で買える文庫だけでもいくつかある。
子供にでもわかるように書くとなると、対象全体をパースペクティブを持って把握できていて、特徴的なかつ重要なポイントを興味を絶やさない連続したストーリーとして書かなければならないから、相当な力量がいる。「若い読者のための世界史」を書いたゴンブリッジは、本来著名な美術史家だから、その独特な視点から、世界通史を書いていてこれは面白い。
だた唯一、リオタールの「こどもたちに語るポストモダン」は例外で、内容は難解、大人でも理解して読むには相当の努力が必要だ。こどもに理解できるはずがないと思って解説をよむと「将来大人になってこの本を読む現在のこどもたち」のために書いたという意味らしい。ポストモダンは哲学、現代思想の一つの潮流で、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクスらのモダンに対して、フーコー、デリダ、ドゥルーズ、ガタリなどの新しい潮流がポストモダン、それを子どもにもわかるように書いてあるのかと思ったらまるで違った。

モダンとポストモダンを簡単に把握するのは難しいがその一側面を極く大雑把にとらえれば例えば次のようなことだ。

モダン以前、西欧では「神を中心とした社会」に人間は生きていてこの社会をどうとらえるか、煩瑣な議論がスコラ哲学の下で行われていた。デカルトは「我思う、故に我あり」という自分が存在する確かさから出発して新しい論理的なやり方でこの社会で神が存在することを証明しようとした。カントはその厳然として存在する筈の神を中心とした社会を主観を超えて客観として認識することが可能かを「認識論」として追求した。ヘーゲルはその存在する社会において、神ではなく超越的な国家が人間個々の欲望を調整して理想的な姿にすることができるかを考えた。マルクスはその理想的な形として社会主義国家を経た共産主義国家に辿りついた。これは理論的に破綻なく出来ていたので多くの人が魅了された。これがモダンの「大きな物語」と呼ばれる流れだ。ところが実際にはこの理想を実現しようとした社会主義国家はことごとく失敗した。
一方、「客観的な社会というものが本当にあるのか、所詮は個々の人々の主観としての社会しかないのではないか」という議論が生まれた。フッサールは「万人の主観と一致する客観などはない、主観をもとに多くの人がそれを言葉で交換しあって、共通の確信に到ったものが客観とか真理とか呼ばれるものだ」と考えた。この時点で、「厳然として存在する筈の(神を中心とした)客観的な社会」という前提は一つ乗り越えられたことになる。
フーコーは、「狂気の歴史」の中で狂気の概念が時代によって変わってきたことを示すことによって、知識と権力との構図を明確にした。十七世紀、狂気は最初は通常の人以外の全てを含んだ概念であり監禁の対象とされたが、時代とともに今日の精神疾患の概念に移って行くこと、精神疾患の種類によっても異なる概念があることを記述して、人が「精神疾患としての狂気」を認識するまで、そのようなものは存在せず、認識の推移によってその概念も変わる、すなわち客観的で絶対的な「狂人の社会」などなかったことを示した。それゆえ客観的な「大きな物語」ではなく、「小さな物語」の個々のDocumentに焦点をあてることを重要とした。確固とした客観的な社会を前提としていたマルクスの呪縛からの解放を促すこうした思想の流れがポストモダンなのだ。
しかし、「ポストモダンの条件」を書いた本家リオタールの「こどもたちに語るポストモダン」はこの程度ではないもっと専門的な知識の前提がないと読み続けられない。

さて、これがどのようにこけしの話につながるかということなのだが、「こけしの世界」という客観的な社会が本当に存在したのかということを考えてみたいからだ。

もともと「こけし」が一般名称ではなかったということは既に多くの人が知っている。かつては轆轤挽きのこの人形のことを、地域によって「木偶」と呼んだり「きでこ」「でころこ」「きほうこ」「きぼこ」「こげほほこ」「こげすんぼうこ」「こけす」「きなきなほうこ」など様々によんでいた。
東北の多くの家庭ではおもちゃ箱のなかに一本か二本くらいのこけしは入っていて、その家の子供の相手になっていた。それは湯治にいってお土産に買ってきたものであったり、近所の湯治帰りの人からお土産としてもらったものであったりした。また家によっては、それを雛人形とともに雛壇に飾ったり、また雛人形の代わりとして大事に扱われたりもした。これは江戸末期から大正初めごろまでの話だ。
その当時は「こけしの世界」などという概念は、殆ど意識の上らなかった。せいぜい湯治場で作られる子供のおもちゃで、子供が元気に育ってくれたらいい、また湯治の御利益(ごりやく)がいつまでも続いてくれたらいいと願って子供にあてがわれたものだったろう。

さて、こけしの名称だが、各地域ごとに呼び名が様々であることはかなり調査研究されてきたが、この呼び名が木地屋(作る側)のものか、湯治客(買う側)のものかという整理はあまりされたことがない。
しかし、木地屋側の、つまりこけしを作る側の多くの古文書、寸法帳、価格表などの記載は「人形」「坊主」が圧倒的に多い。ほぼ、全ての産地を包括しているのは「人形」のみである。
遠刈田の「こげす」は五寸以下の作りつけの肩のこけたもの、それ以上の直胴のものとは明確に区別がされていたことがわかる。遠刈田の直胴の方は、木地屋(作る側)では「人形」、湯治客(買う側)からは「きほうこ」「きぼこ」と呼ばれていたようだ。
「こけし」という呼称の初出は文久二年の「御郡村御取締御箇条御趣意帳」いわゆる高橋長蔵文書に記載された「こふけし」だが、これは鬼首村の取締長蔵が記したものだから、「買う側」の呼称だろう。
唯一の例外は、長澤の明治十九年「伊藤長作文書」で、この木地屋が書いた寸法帳では「こけし 小、中、大」となっている。

こうして見ると、木地屋(作る側)では「人形」が広く使われていた。江戸末期においても木地屋の同業ネットワークはかなり発達していて
温泉地では轆轤で挽いて「人形」を作るという情報が、広く東北一帯で共有されていたであろう。
いいかえれば「轆轤で作った木人形」と言う概念は、東北の木地屋の間では「共通の確信」として早くから存在したとみてよい。
それは木地土産物の先進地、箱根から移入された木地玩具、その一つとして東北で発生成長した「木人形」という概念だ。

一方、湯治客(買う側)は、土湯近辺では木で作られた木偶として「きでこ」、仙台周辺では木で作った芥子人形として「こけし」、あるいは木で作った這子あるいはオホコとして「きほうこ」「きぼこ」といった呼称が使われた。これは先行する人形があって、それに変わるものとして「木で作ったその人形」という命名になっている。事実、張子の「仙台ホーコ」は壊れやすかったため、木で作った「木ホーコ」、いわゆるこけしが出現して大きくその製作数を減らしたといわれる。つまり代替されたのである。

このように作る側とは違って、買う側には、数多くの呼称名が存在する。こけしの方言として記述される様々な呼称名は殆ど湯治客(買う側)のものだ。これは、湯治客(買う側)にとって、東北の轆轤製木人形を包括する統一した概念はなかった事を示している。ただホーコや木偶、芥子人形と言う先行する人形が轆轤製の木人形に変わったとしてそのように受け止めていた。したがって、この木人形の概念は、ほぼその呼称名の範囲ごとに複数存在したのである。

要約すれば、木地屋(作る側)としては、「木人形」という温泉地で売る木地玩具としての「こけしの世界」を持ち、一方湯治客(買う側)としては、福島周辺は「きでこ」という轆轤で作った木偶としての「こけしの世界」、蔵王東麓、仙台周辺は「こけす」という木で作った赤芥子人形としての「こけしの世界」、さらに蔵王東麓から宮城北部、秋田、南部地方にかけては「きぼこ」という木で作った這子(ほうこ、おほこ)としての異なった「こけしの世界」を持っていたのである。

つまりこの時代は、共通で単一の「こけしの世界」という概念は存在しなかった。


さて、それでは木地屋(作る側)と湯治客(買う側)全体で統一的な「こけしの世界」という概念が出来たのはいつかというと、それは天江富弥「こけし這子の話」(昭和三年)が出版された以後である。
ここではじめて、「こけしの作者は木地屋という職能集団であり、東北の各湯治場に分布していてこけしを作る、こけしを作る木地屋は産地、師弟関係により一定の系統に属し、系統ごとに容易に判別できる形態様式の特徴を持つ」といった「こけしの世界」の基本的な概念が提起されたのだった。
この本に刺激されて、新たにこけし蒐集に取り組む人や、今まで郷土玩具蒐集の一部としてこけしを集めていた人の中から、こけしを専門とする人が現れて来る。
そうした新しく加わった蒐集家(買う側)も含めて、新資料による精緻化を繰り返しながら共通の概念として「こけしの世界」が定着してくる。
いままで様々な呼称名があったが、不統一な呼称や種々の漢字宛字は紛らわしいので昭和十五年七月二十七日鳴子で開かれた東京こけし会鳴子大会で平仮名による「こけし」を代表名とすることに決めた。これは既に「こけし」で統一できる概念が、木地屋(作る側)、湯治客・蒐集家(買う側)に出来ていたからである。


戦後、この「こけしの世界」と言う概念には一つの大きなの波乱が起きた。それは、新型こけしや創作こけしの発生により、「こけし」という呼び名で木地屋(作る側)、湯治客・蒐集家(買う側)で共有した「共通の確信」が破綻し始めたのである。
そこで新たに「伝統こけし」という呼称を提唱して、従来の「こけしの世界」の強化を始めた。
つまり、理想的な「こけしの世界」を定義付けて、その世界の実現を目指そうとしたのである。これはモダンの「大きな物語」の潮流に近い。
このなかで師弟関係や父子相伝の過大な評価が行われて、こうした関係なしに様式の継承や、習得を行うことは厳しく制限されるようになった。
いまでも
師弟関係や父子相伝が「伝統こけし」の必要条件であると考えている人はかなりいる。
さらに極端になると「貧困の苦しみからこけしの理想の美が生まれる」と言いだす人もいた。これは多分に個人的な思い込みが強い。モダン時代の理想の社会と重ね合わせて、搾取する側でなく、される側にこそ美は生まれるとしたかったのだろう。

ところが「こけし辞典」などで個々の工人
の様式確立の経緯などを読んでいくと、師弟関係や父子相伝は必ずしも絶対的なものではないのだ。
とくに最も様式が考案され発展した明治二十年代には多くの工人が他の系統の工人もふくめて交流混交して、新しいものを生みだしてきたことがわかる。
辞典以後も高橋五郎さん等の著作で、個別の工人の活動史などを丹念にたどると、工人同士の影響関係は実に大きくまた多様で、伝統こけしの要件として一括して客観化できるようなものを定義するのは不可能だということがわかる。

いいかえれば、実体として確固とした「伝統こけしの世界」と言うものがあるわけではない。しかもそれを理想化していけばいくほど、個々の事象としては実態からかけ離れていくのだ。それゆえ、「伝統こけしの世界」を解説したものの大部分は、観念的にはなるほどと思えても、現実の事象と合う部分は極めて限定的になりがちなのである。

結局、戦後の「伝統こけしの世界」という概念設定は、一部の指導的な地位にあった人たちが、新型こけしや創作こけしの影響を排除して、自分たちの理想とする形へ「こけしの世界」を導いていこうという物語だったのである。


最後に、フッサール流に「万人の主観と一致する客観などはない、主観をもとに多くの人がそれを言葉で交換しあって、共通の確信に到ったものが客観とか真理とか呼ばれるものだ」とするならば、いま、そしてこれから「こけし」として「共通の確信」をもてるものとは何であろうか。
我々の向こう側に客観的な「こけし」とよばれる対象があるわけではない。多くの人、多くのこけし愛好家でもいい、その人たちがあれは「こけし」だと「共通の確信」を持ったものが「こけし」だ。したがって、多くの愛好家の世代が移って行けば、それも変わり得るだろう。
たとえば、今晃の新意匠のもの、阿部木の実の新意匠のもの、あれは実に魅力的なものだ。あれは「こけしの世界」のものか?
それは、若い愛好家たちが決めるだろう。その意味で今日この議論は将来大人の愛好家になる「こどもたちに語るこけし世界の物語」だ。


秋山慶一郎(昭和十年作)
慶一郎は鳴子出身、秋山忠の弟。木地は忠に学んだ。
上ノ山、蔵王高湯の能登屋・代助商店の職人をした。
随って師弟関係では秋山忠、ただしこけしには蔵王高湯の影響が大きい。
ただ能登屋や代助商店の形態そのものではない。
鳴子の祖型に岡崎長次郎の様式を加えたものであろう。
これは師弟関係による継承とは言い難いが、見事な作になっている。


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