こけしの文化史 (1)


こけし誕生の物語


これから、こけしがどのようにして生まれたのかについて話そう。

こけしが作られ始めたのはそんなに古い昔のことではない、江戸時代末期文化文政から天保にかけての頃と言われているが、ほぼ天保の年代(1830-1843)と考えた方がいい。明治維新の30年位前のころだ。
天保の前の文化文政時代(1804-1829)、これは俗に化政期といわれるが、気候天候も経済も比較的穏やかな時代で、江戸を中心に町人文化が花開いた時期にあたる。浮世絵や黄表紙、滑稽本も庶民に喜ばれて数多く出版された。皆さんがよく知っている弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』も文化十一年に初版刷刊行が完結している。

この時代に、弥次さん喜多さんのように庶民でも旅に出るようになった、金毘羅参りや伊勢参りも盛んに行われるようになった。これは江戸の庶民だけではない、東北の農民でも金毘羅参りや伊勢参りに出かけるものが少なくなかった。東北の村々で時に「金毘羅」と彫られた石碑を見かけることがあるが、これはその地の人々が金毘羅を参詣した時に、その記念に建てたものだ。

金毘羅や伊勢にまでは行けない人々も、自分たちの田畑を潤す川を遡って、その山間(やまあい)にある温泉に湯治に行くことは出来た。馬の背に布団や米・鍋釜を括り付けて、温泉場に行き、2週間3週間と逗留して湯治に努めることは、農民たちにとって、体力の回復をはかると同時に限りない娯楽にもなった。また、金毘羅や伊勢参りでご利益(りやく)を期待したように、湯治にも五穀豊穣や安産多産のご利益(りやく)が期待された。
このように庶民が自分たちの村を離れて旅をするようになると、お土産というものが生まれてくる。旅で得たご利益(りやく)を自分たちの村に持ち帰り、出来るだけ長くそれを保持したい、また近所の村人にもお裾分けしようという気持ちがあったからだ。

東北や江戸から、金毘羅や伊勢参りをする人たちが必ず通ったのは箱根である。箱根にはこうした旅人のためのお土産を作る人たちがたくさん居た。とくに箱根湯本の近辺には木材を加工する人たちが集まって、寄木細工や挽物玩具を作り、商っていた。挽物玩具にはきれいな色彩が施され、長旅でも持ち帰るのに苦にならないように小型で精巧なものが多く作られた。十二玉子や七福神などの入れ子人形は大いに喜ばれ、これらはロシアに持ち帰られて手本となってマトリョーシカが生まれたりしている。

湯本村には伊豆屋という木地挽物細工の店があって、1寸(約3センチ)四方の小さな箱に、挽物人形を百あるいは二百いれたものを「芥子人形」と呼んで商っていた。おそらく1センチ程度の挽物人形に三十六歌仙や七福神などの簡単な描彩が施されたものだったろう。

「東海道名所図絵」 寛政三年(1791年) 箱根湯本挽物店
箱根名品挽物細工 
街道湯本村にあり。花美なる諸品を細工して、色々彩り塗りて店前に飾る。
また雛の芥子人形の細工をしおらしくして、わずか方寸の箱に百品二百品も入れるなり。
湯本伊豆屋の店諸品多し。

東北の湯治場で、こけしが誕生する契機として、この箱根の木地玩具との関係を語る伝承がいくつか残っている。

鳴子温泉では、天保年間瘡という皮膚疾患の療養のために源蔵湯に逗留していた箱根の木地師が、源蔵湯の隠居家督であった大沼又五郎に小物挽きの技術を伝え、又五郎が最初にこけしを作ったという。またこのこけしの誕生には伊勢参りから帰った鳴子神社の神官早坂何某からの示唆があった。

土湯温泉では、稲荷屋の佐久間亀五郎が天保年間に伊勢参りに行った。その途中で箱根の木地物玩具をみて、土湯でも挽物細工をお土産として作ることを思い立ったと言われている。

作並温泉では南條徳右衛門(注1)という木地師が岩松旅館に雇われて木地を挽き始めたが、この木地師は箱根で修業した人。大々人形、大人形・中人形・相人形・小人形と呼ぶこけしを作り、その寸法は徳右衛門の弟子岩松直助の「萬挽物控帳」に残されている。

「華美な色彩を施した木地細工物の玩具を作り、それを土産物として売る。」というビジネスモデルが、天保時代に箱根から東北の温泉地へ伝わったということの意味は大きい。赤を多く用いる玩具類は赤物と呼ばれ、特に疱瘡除け、つまり天然痘に罹らないようにするための効能があると信じられていた。東北の温泉地では、まずこうした箱根由来の赤物の玩具類が作られるようになり、子供の土産に多く売られるようになった。そして、こうした温泉地でやがてこけしが作られるようになる。伝承記録はないが、もう一つのこけしの大きな産地、遠刈田でもおそらく同様の契機があったであろうと考えてよい。

さて、箱根木地細工からの影響があったとしても、箱根にこけしは存在しなかった。「芥子人形」とよばれる土産物はあったが、1センチほどの小さな挽物人形で、それが百も二百も3センチ四方の小箱に入ったものだった。それはこけしとは違ったものだろう。それではどうして東北で、今あるようなこけしが生まれたのか、また箱根で何故こけしが生まれなかったのか、それが次の問題になる。

皆さんは土偶というものをご存じだろうか。縄文時代に作られた土製の人の形の焼き物だが、その大部分は女性像である。しかも、人体を大きくデフォルメして、特に女性の生殖機能を強調しているものが多いことから、豊穣、多産などを祈る意味合いがあったと考えられている。また、出土する土偶は大半が何らかの形で破損していて、故意に壊したと思われるものも少なくない。そのため、祭祀などに用いられ、その折に意図的に壊すことによって、災厄などを祓おうとしたのではないかとも言われている。

この土偶は実は山梨から東、特に関東から東北での発見が圧倒的に多い。なぜ東北を中心とする東日本に多いかについてはいくつかの説があるが、ここでは次の二つを紹介しておこう。

一つ目は縄文時代の早期末、いまから7,300年くらい前に起こった鬼界カルデラの大噴火を原因と見る考え方だ。九州南方の海底火山の噴火で、極めて規模が大きく、九州、四国全域が甚大な被害を蒙り、本州の西半分でもかなりの被害を出したと言われる。九州南部全域に60cm以上の火山灰が積もり、降灰は東北地方にまで及んだようだ。これによって西日本の縄文文化はほぼ壊滅状態となった。これが西日本で土偶が出土しない原因となったという。

二つ目は縄文時代の東西の文化特性の違いに注目する考え方だ。東日本のブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本の照葉樹林帯に覆われる地域との生業形態の差異に原因を求める見方だ。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に収穫期が集中するため、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる。そのため、社会集団の結束(Unity)を強化する目的で、土偶を用いた祭祀を行っていたのだろうという考え方である

ここでは特に二つ目の考え方に注目しておこう。

落葉性堅果類を主食とする生活は縄文時代で終わり、土偶も以後作られることはない。ただし、人の形をした造形が豊穣と多産を司る力を持っていて、それに共同体共通の願いをかけるという記憶が、東日本、とくに東北には脈々と残っていた可能性がある。そしてそのような記憶に基づく習俗を共有するということが、共同体の結束にも繋がったのだろう。

それが時に、手で繰る「おしらぼとけ・おしらさま」のようなものとして現れたり、子育て地蔵のようなものとして現れたり、仮面をつけて演じる「なまはげ」のようなものとして現れたり、ねぶたの人形型燈籠として現れたり、堤人形の赤けしや仙台張子のおほことして現れたりする。


稲作の日本への伝播は、縄文時代中期に起こり、弥生時代になって広く日本中に広がるが、東北へも日本海を北上し、津軽海峡を経て太平洋岸を南下し、茨城あたりまで相当に早い時期に伝わったらしい。それでも夏にやませが吹くために安定的な米の収穫は得られずほそぼそとした生産が続いたが、ようやく江戸時代にいたって伊達藩を中心に米の生産地として定着するようになるのだ。稲作は典型的な労働集約的な生産のやり方であり、特に田植えは共同体あげての一斉作業となる。湯治は、そうした田植えなどの集中作業のあとに体力回復のために出かけたものだった。

だだ、一つの村の中には湯治に行けた人もあるし、行けなかった人も当然でてくる。行けた人は行けなかった人の分まで湯治のご利益(りやく)を持って村に帰る必要があった。山の湯治場で獲得した山の神の五穀豊穣の呪力を土産物とともに持ち帰って、隣近所の人達と分かち合う必要があった。 こけしは湯治のご利益(りやく)を持ち帰るためのお土産として最もふさわしいものであり、それ故湯治場で喜んで買われたのだった。

箱根からお土産としての小物木地細工が東北の湯治場に伝わった時、その土地の小物挽の木地師たちはお土産となる木地細工をいろいろ作ったに違いない。独楽や木地玩具もなど箱根から伝わったものが多かっただろう。しかし、彼らの誰かがやがて木人形を轆轤で挽いて作り始める。それが、お土産として最も人気が出て、他の温泉地にも伝わっていく。遠刈田・鳴子・土湯・作並、どこが始まりであるにせよこうした木地師のいる環境の温泉地全体にその木人形が広がるのには数年程度しか要さなかったであろう。それがこけしである。同時に複数の産地で作り始めたと考える人もいるが、おそらくどこか一つの産地が作り始め、それが他の産地にも伝わったと考えるのが自然だろう。新たに生み出すために必要なエネルギーにくらべれば、伝播のエネルギーの方が極端に少なくて済むからだ。

こけしという呼称は箱根の「芥子人形」から来ているという人もある、また仙台堤の土人形にある「赤けし」から来たという人もいる。いずれにしても木でつくった小さなけし人形と言った意味であった。

なぜ、この木人形が当時の東北の人たちから支持されて人気が出たのだろうか。それは土偶の時代から人の形をした女性像に五穀豊穣・安産多産を願いながら村中が一致団結した記憶が脈々と続いていたからであろう。それは東国の家父長的なトップダウンの組織を横から支える重要な仕組みになっていたに違いない。

これはこけしが現代の土偶であると言っているのではない。まして、こけしの土偶起源説を唱えているのでもない。こけしと土偶は全く別物である。土偶がその役割を終えてから、こけしが誕生するまでには数千年という長い時間が経っている。
だが、落葉性堅果類を一斉に共同作業で収穫したときに、土の人形の祭祀で結束を固めたようとしたことと、稲作の共同作業で村が結束する時に、木の人形を配りあって連帯したことの間には、数千年持続したある種の民衆の記憶があるかも知れないということを言っておきたい。ちょっと難しく言うなら、東北の人たちは、人の形の造形によって共同体の共通の宇宙観を常に活性化し続けて来た、つまりその造形が力強いアーキタイプ(元型)として存在し続けたのかも知れないということだ。

おそらくこのアーキタイプは古くは東日本全体に共有されていたであろう、鎌倉時代から江戸時代にかけて西日本との混交がかなり広く関東地方にまで進んで行った結果、こけしが生まれる江戸時代末期には、このアーキタイプは東北地方のみにしか鮮明に残っていなかった。それ故、箱根ではついにこけしが生まれることはなかった。

稲作は当然西日本にもある、いやむしろ西日本から東日本に伝わったというべきだろう。それでは同じように村全体の結束を図る必要がある稲作の共同作業を西日本ではどのように実現させていたのだろうか。それは東日本の「家父長的な縦の統合と、それを横から支える共有されたアーキタイプ」とは異なった合意形成や結束の仕組みとしての「寄合」つまり「座的結合」によるものだった。この辺の事情は、宮本常一の「日本文化の形成」や網野善彦の「東と西の語る日本の歴史」に詳しい、機会があればぜひ一読して頂きたい。。

この違いが、結局こけしが東北でしか生まれなかった一つの理由になるわけだ。

皆さんは、「こけしは木地師がたまたま自分の娘におもちゃとして挽いて与えたものが広まった」といった類のこけし誕生譚をもう信じる気持ちにはならないだろう。日本でも世界でも、いま玩具となっているものが最初から単純におもちゃを目的として作り始められたというケースは極めて少ない。

こけしも江戸末期に突発的に生まれ出たものではない、時代によって形を変えながら出現したいくつもの人の形の造形、その一つとして生まれたのであって、その誕生には、箱根からのお土産としての木地細工の伝承と、村から山沿いの温泉地へ湯治に行くという習俗の確立が契機となっていたのだ。


(注1) 南条徳右衛門は享和元年(1801年)の生まれ、作並で慶応元年(1865年)に65歳で亡くなっている。徳右衛門の弟子であった岩松直助が記した「萬挽物控帳」に南條徳右衛門は箱根発業の木地技術を相伝したとある。またこの控帳に記載されている値段表は何回か更新修正されているが、「桜臺が一貫六百文の時に、南條徳右衛門が定め置いた値段が、段々一割二割と上がって行って、そのまま辛未秋より金札(藩札)で四貫文の相場になったので、新たに左のように定めておく」という記載がある。この辛未を文化八年(1811)と見て、こけし(人形)がその時点で作並に存在したという解釈が行われている。
ただ、南條徳右衛門が11歳の文化八年に、それ以前に本人が定めた値段を改定するというのは年齢的に無理がある。
この辛未を次の明治四年(1871)とすれば新たな値段表を更新したのは、南條徳右衛門ではなく、この「萬挽物控帳」を岩松直助より受け取った弟子の小松藤右衛門ということになる。藤右衛門は明治七年頃にこの「萬挽物控帳」を弟の庄司惣五郎に譲渡しているから、明治四年にはまだ手元にあったはずだ。
もし、小松藤右衛門が値段表を書き直したとして、その明治四年はどのような年であったろうか。それは廃藩置県が行われ、それを機に藩札回収令が発布され、各藩札は新貨幣単位(圓、銭、厘)により価額査定され、実交換相場による藩札回収が始まった年である。その査定によって藩札の価値が設定され相場が変わったので藤右衛門は値段表の更新を行ったのではないだろうか。
そうであれば、作並のこけしも、南條徳右衛門が箱根で修業し、湯主の岩松に招聘されて作並に移り、それから後の三十代になったころに作り始めたと考えるのが自然であるから、その創始はやはり天保年間のことになる。
ただこの考証は「萬挽物控帳」が誰の手によって書かれ、誰の手によって書き継がれたものかの精査が必要であり、今後の課題も多い。ここでは辛未=明治四年説を採って、作並のこけし製作を天保年間としておく。

(June, 2010)
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