ブルーノ・タウト「日本文化私観」


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ブルーノ・タウトは1880年ドイツのケーニスベルグで生まれた建築家である。ライプチヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、ケルン工作連盟展での「ガラスの家」、さらにはベルリンでの一万二千戸におよぶ集合住宅の設計監督とめざましい活躍をしたが、ヒトラー台頭と同時に親ソ派と誤解され、亡命を余儀なくされた。昭和八年に日本国際建築学会の招待で来日、昭和十一年まで日本に滞在して商工省工芸指導所嘱託となり、工芸の指導に当たったりした。この間「ニッポン」、「日本文化私観」、「日本美の再発見」等の著作をものした。桂離宮を高く評価し、その築造主小堀遠州を敬愛した。日本を離れてトルコに渡り、国会議事堂の設計や、技術者の養成に活躍したが1938年トルコで客死した。

このブルーノ・タウトの著作「日本文化私観」(原著名「欧羅巴人の眼で見た−ニッポンの芸術」)は昭和十一年明治書房より出版された。近年(1992年)講談社学術文庫にも取り上げられ刊行されたので、今でも書店で入手できる。

この本の「工芸」の項にこけしの写真口絵が掲載されている。付けられた説明には「白石の人形」とあるが、「工芸窯」で西川友武が指摘するように作並のこけしである。作者は平賀謙蔵、昭和八〜九年の作であろう。

タウトの解説には「地方の工場へ注視を向けてみようと思う。これらのうちには、今も伝統が確保されているのである。たとえば、仙台の白石にある淳朴な親方があって、非常に敏活に、精巧な子供の人形を私の見ている前で、蝋を引き色を塗って素晴らしい技術で製作して見せてくれた。もっともこんな風に製作出来る人は、この地方ではこの人だけであると云われている。しかしどこの地方へ行っても、それぞれの小工場の親方のところには古来の技術がなお生命を保っているのが見られる。」とある。

白石は記憶違いであろう、目の前で作ったとあるから、タウトは作並を確かに訪れているのである。



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