こけし文献断想


 最も重要なこけし文献とは何か、重要ということの定義は難しいが例えば「こけし辞典」を執筆した時に、特に役に立った文献ということなら、単行本で一に「遠刈田青根新地の木地業とこけし(友晴著)」、二に「羨こけし(深沢著)」、三に「蔵王東麓の木地業とこけし(菅野著)」である。友晴著は割合完成度が高く、書かれている内容そのものをすぐに資料として取り上げることができた。深沢著は追求の糸口の宝庫で、断片的な記述を辿って更に聞書や、戸籍・古文書調査をすることによって貴重な事実を次々に明らかにする事ができた。しかも深沢氏が残した聞書の内容は当時の状況を考えれば驚くほど精確でもあった。鹿間文六
 雑誌で言えば「こけし手帖」「土湯木でこ考」「鴻」等であろう。「こけし手帖」の中では「深沢要遺稿集」「吉田慶二聞書」等が役に立った、「名品こけしとその工人」は連載期間が長かったから紙数は多かったが、情報量としてはその割に豊富ではなかった。新規資料というより既発表の資料の集大成という部分が多かったからである。さらに執筆者によって精度にむらがあって、記述内容の検定が個々に必要になる場合がしばしばだった。年代推定などは入手年月日が判っていて疑問の余地のないものを除いて殆どについて見直しが必要だった。「鴻」は客観的な鑑別の議論を最初に行なった文献として特筆する必要がある。いわば客観的考証的なアプローチはここから始まったと言ってよい。

 蒐集の深みに読者を引きずり込むという観点から最も刺激的な本をあげるのであれば、筆頭は「こけし・人・風土」であろう。この本には私も深い思い入れがある。私が高校生の時に東北に旅した折、木地山でこけしを手にいれたが、帰宅して父の書棚にもしこの本がなかったなら私もここまでこけしに深入りはしなかったと思う。父は特にこけしに深い興味を持っていたわけではない。ただ仙台で大学生活をおくり中井淳教授の部屋に行ったとき、床の間にぎっしりあったこけし(ラッココレクション)を見たりしたというから多少の関心はあったであろう。この本も同窓の鹿間氏が書いたという程度で購入したと思う。ちなみに同じ書棚には「中井淳集」等もあった。こけしを自分で買ってきたので、ちょっと気が向いてこの本を開いたのが私にとっては百年目であった。
 入試間近の無味乾燥な勉強の合間に「人・風土」を熟読した。随分繰り返し読んだことと思う、「土湯こけし幻想」や「治助と作蔵」等殆ど全文暗記してしまった位である。この本にはそれほどに魔力があった。これはこけしの啓蒙書ではないし、単なる解説書でもない、ましてや研究書というような無機的な本でもない。実に不思議な本である。つまり、こけしの蒐集という一種の「狐が憑いた人」が熱にうかされたままに書き通した本である。それだけに感染力が強いので影響を受ける人も出る。ふつうこれを感嘆詞過剰に書くと下品きわまりない本になるのだが、一種独特の高踏的なスタイルで終始しているためさらに迷わされるのだろう。この本の復刻本が未央社から出た時に解説文を書いたが、この自分の文章を読み返してみると未だに迷わされ続けている事がわかって愕然とする。

こうした非常にポテンシャルの高いこけし文献は、どうも戦争の前後に多く上梓されているように思う。特に戦争中は愛蔵のこけしをいつ全部失うかわからない、自分もどうなるかわからないという危機的状況下で、愛惜を込めて切々と書きそして出版している。ここでは、こけしと真正面から対峙し、自分にとってこけしとは何かをギリギリのところで見つめようとしている。それ故極めて深いレベルの感慨や思索に至ることができているように思う。
 実際にあの格調の高い序説を「古計志加々美」に書いた金森遒や、「蔵王東麓」の佐藤友晴、「羨こけし」の深沢要のように、その著作を自分の生きた証として残し、戦争中あるいは戦争直後にこの世を去ったものも多い。彼らの著作は、自分達の青春のそしてこけしの、いわば「白鳥の歌」であった。
 幸いにして生き残った人々も当時はきわめて純真にこけしを見ていたし、その真情も、残された文献には溢れている。鹿間氏の「人・風土」の出版は昭和二十九年であるが戦争中に書いた文章の再録が多い。前述の「土湯こけし幻想」や「治助と作蔵」も初出は昭和十八年の「こけし襍記」である。あの文章の魔力は一つにはこんな時代の必然性があったかも知れない。
同じく昭和十八年に「こけし風土記」を書いた西田峯吉氏は、戦後昭和二十六年に川口貫一郎の伊勢「こけし」誌第十四号に「こけしを愛する人々」と題する小文を寄稿している。ちなみにこの伊勢「こけし」誌は昭和二十年代に唯一活動していたこけし専門誌であり、全国の愛好家が寄稿しているのでこの時代の貴重な文献となっている。この中で西田氏は戦後鹿間時夫氏から受け取った葉書を紹介している。
「私も満州で本を捨ててきました。生命と本とバランスにかけると、どうせ金さえ出せば日本で手にはいると思ひ割愛しました。工芸の支那影絵号、式場氏の生活と民芸特装本、柳氏の茶と美、また富本氏の窯辺陶話や、私のこけし襍記も皆捨ててしまいました。今では探してもないか、あっても物すごい値です。自分自身の専攻の学術書も捨てて今では補充に困ってゐます。でも、あなたの風土記は生命がけで持って帰りました。新義州でチブスで寝てゐた時、毎日愛読してゐました。見て考えてゐました。いつ死ぬか判らぬ異境でしたが、こけしの事を思ってゐれば苦痛はまぎれるのでした。」
西田氏はこの手紙にふれて「何といふ真実のこもった一言であろう。この鹿間兄の如きこそ、ほんとのこけし愛好家であり、尊敬すべき蒐集家であると私は信じている。」と書いた。このあとやはりシベリアから六年間の抑留生活を経て引き揚げてきた佐久間貞義氏をも紹介し、この畏敬すべき両氏を玩友とし得えたことを幸運に思うと結んでいる。西田氏の感慨は、こけしへの哀惜を心の底に秘めながら、あの過酷な時代をとにもかくにも潜り抜けることができた人たちへの共感であり、戦後のこけし界はこうした人達の共通の感慨に支えられて再びスタートしたのであった。このこけし界の求心力は昭和三十年代半ば迄は続いた。やがて時間の流れの中でこの求心力は薄れて行き、それとともにこけし界の紆余曲折も始まることになった。

文献というのは、時代とともに生きた人たちの心の軌跡である。それ故書誌というものも、時代・心のうねりというものをきちっと抑えておかなければ単なる系年的な本の羅列に終わってしまう。そういう意味ではやはり「人・風土」の「こけし書誌」がこけし関連の書誌の中で一番内容があるように思う。鹿間氏はこれを書誌学の専門書を読んだ上で書いたと言っていた。
またこけしの文献は、読む側の立場から言うと、自分が読んだ時期の自分の心の軌跡とも呼応している。「人・風土」を開くと、私は今でも高校時代の不安定な心情を、勉強部屋の匂いのようなものと一緒に思い出すのである。「羨こけし」でもそうだが、愛読書はやはり愛読した時代に自分を引き戻す力がある。それ故、自分の心の軌跡に結びついている文献は自分の歴史の一部と言える。こうしてみると、出版年次に基づく時系列的(クロノロジカル)な書誌ではなくて、ある個人の精神史にもとづく書誌というものがあっても良いのかも知れない。

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