「こけし這子の話」の臺こけし


天江富弥著「こけし這子の話」は昭和三年一月刊行で、こけしを体系的に扱った最初の文献として貴重である。非常に入手困難な文献であったが、仙台の高橋五郎氏の復刻再版によって後代の収集家達も手元において参照できるようになった。図版掲載されているこけしは少なくとも昭和二年以前、殆どは大正時代のものであるから、今日こけしの年代判定を行う際の重要な規範ともなっている。

 「這子の話」掲載こけしの中には今でも作者名の判然としないものがいくつか残っている。特にこの図版・陸中十二では中央の大寸の志戸平・佐々木與始郎以外は作者名の確定が非常に困難であった。「這子の話」の解説では、右から二本は「鉛こけし」、中央大寸二本は「志戸平」、続いて「臺」、左端二本が「遠野」となっていた。

 近年、集められた聞書きや、工人の交流関係、血縁関係などの解析から、右端の鉛温泉産の二本は、與始郎の叔父にあたる要吉の作で、大沢で作っていたものが鉛で売られたのであろうといわれている。

 一方、花巻の煤孫茂吉などからの聞書きとして臺の作者鎌田千代治の名は昔から知られており、臺から見つかった古いこけしは、皆この鎌田千代治であろうといわれた時期があった。この左から三本目の作り付けの立子についても一時鎌田説があったが、純然たる鳴子の型であり、臺には多くの鳴子作者のこけしが流入した記録があることから、今では鎌田説をとるものはいない。
それでは鳴子の誰の作かとなると未だ定説はない。

明治から大正にかけて臺あるいは臺周辺(花巻・鉛・大沢など)で木地挽きをして働いたことのある鳴子の工人を、系列(グループ)毎に列挙してみると次のようになる。

作風などから見ると、岩太郎系列の小寸に最も近く、岩蔵の小寸といえば納得できるのだが、岩蔵は明治三十八年には鳴子に戻っているので、天江氏の収集年代(大正中期以後)から見ると時代が離れすぎている。保存はいいから土産物屋に店晒しになっていたものではなかろう。岩蔵が働いていた鉛の藤友旅館に製作したこけしのストックがかなりあって後年までそのストックが売られ続けたとすれば岩蔵の可能性も残る。同じように岩蔵の弟子であった秋山忠が岩蔵とのつながりから鉛の藤友で働いたとき(明治四十三年頃)、師匠譲りのこんなこけしを作ったかもしれない。いずれにしても今のところ作者を特定する資料はない。


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