こけしの文化史 (2)


こけし復元の物語


皆さんは「復元こけし」というものをご存じだろうか? 

こけしを作る工人が、昔のこけしをオリジナルとして、出来るだけ忠実にそのこけしを再現したもののことを言う。オリジナルとなるこけしは、その父親や祖父、あるいは師匠が昔に製作したこけし、時にはその工人本人の数十年前のこけしの場合もある。

今回は、この復元こけしを取り上げながら、こけしのアウラというものを考えてみたいと思う。アウラ、いまならオーラと発音した方が、通りがいいかもしれない、でもここではアウラと言おう。その理由と、アウラの意味は後でゆっくり説明する。

この復元という形でのこけし製作が、盛んに行われるようになったのは、おそらく昭和三十年から四十年代のことだった。それは大体の場合、蒐集家やこけしの店の主人が工人に依頼して行われ、工人本人の自発的意思でおこなわれることはあまり多くなかった。

復元が盛んになった時代は、経済の高度成長期で、日本が大きく姿を変える時期だった。一方で日本の古いものがどんどん失われていく時期でもあった。そんな時代だから、こけしも失われゆくもの、古き良きものの一つであり、集めたいという情熱が高まった。蒐集家の数も増えて、「戦後のこけしブーム」と言われた時期だった。

ところが、その当時作られていたこけしは、大正時代から昭和初期に作られていたこけしと比べて格段に見劣りのするものが多かった。一つは戦後すぐに全国的に発生普及した「新型こけし」の影響であり、もう一つは形ばかりは昔ながらのこけしのように見える「一般型」の出現によるものだった。

「新型こけし」は、おもに観光地の土産品として作られ、描彩に顔料を使った大量生産のものが多かった。東北の昔からのこけし工人の中にも、依頼されて「新型こけし」を作った者も多く、その影響は本人のこけしにも、産地全体のこけしにも及んでいた。当時の温泉地や観光地の一般観光客用の土産としては、肩が砲弾型に極端に下がった、目尻の垂れた描彩の新型風のものがよく売れたからである。

そこで、この新型こけしの悪い影響を払拭したいという動きが起こった。「伝統こけし」という言葉を作り、昔ながらの「伝統」の形、様式をいかに工人たちに守らせるかということを、当時蒐集界の指導的な立場にいた人たち、例えば「東京こけし友の会」の幹事たちは考え続けた。「伝統こけしガイド」という本を出版して、この本に載っている工人だけを「伝統こけし工人」として認定できるとしたり、コンクールの審査などでは新型を峻別して「伝統こけし」を対象に賞を与えたりといった努力をした。

ところが「戦後のこけしブーム」で蒐集家が増えてくると、「伝統こけし」の需要が増えてきた。昔からのこけし工人以外の人、極端な場合には「新型こけし」の作者までが「伝統こけし」の意匠を纏ったこけしを作るようになった。型は全く「伝統こけし」であるが、様式は画一的で大量生産的な気分がそのまま残っているものだった。言い換えれば、「伝統こけし」の典型的な要素だけを寄せ集めたモデルを想定し、その複製を大量生産したようなこけしだった。これが二つ目の「一般型」である。
「こけし辞典」では、この現象を「一般型」、「鳴子共通型」という項目を立てて説明している。

昭和三十年から四十年代は、そうした「新型」と「一般型」の影響で、こけしの質が全体的に低迷していた時期であり、その一方で蒐集家は時代の背景を受けて増加していた時期だった。「復元」は、こうした時期に盛んに行われるようになった。

ここで、昭和三十年代に行われた有名な「復元」の例を紹介しよう。それは佐久間虎吉による自分の約二十年前のこけしの復元だ。戦後の虎吉は、新型の影響を受けたためか、胴も太く砲弾型になり、口も赤で描く、甘い作風に変わっていた。昭和十五年ころの直線的で緊張感のある胴、俗に三角胴と呼ばれる古風な胴は姿を消してしまっていた。昭和三十六年に橋元四郎平さんが昭和十五年の本人作を持って行って復元を依頼した。虎吉自身も「おれはこういうものを作っていたのか」と感じるところがあって、気持ちを込めて復元を行った結果、レベルの高い復元作が出来た。復元を行った後、亡くなるまでの虎吉のこけしは一定の水準を保つことが出来た。

高橋盛による勘治型、芳蔵による善吉型、岡崎幾雄による栄治郎型など一定レベルの復元が行われた結果もあって、蒐集家やこけし商店主の依頼による復元が次々に行われるようになった。

 

何故、復元のようなことまでする必要があるのか? そんな復元こけしに価値があるのか? 複製とかイミテーションを工人に作らせるのか? 

でも、いまの本人が作っているものよりずっといいものが出来る? 模写はいつの時代にも重要な成長の過程だ?

こういう議論が盛んに起こって、いろいろな立場から、復元を支持する人、反対する人が自分の主張を繰り広げた。

反対するものの議論の論点はいくつかあった。

1.      当時、その工人が作っていたものに比べれば「復元こけし」の方が良いが、それでもオリジナルを凌駕することは出来ない。コピーに過ぎない。

2.      復元と呼ぶのはおかしい、コピーであるから「写し」というべきだ。工人の個性とか芸術的な表現とかは見られない。イミテーションだ。オリジナルの不要な癖まで写すようなものは、わざとらしくて見るに堪えない。

さて、これからの話を進めるために先程ふれたアウラについて説明しておこう。

これはヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』という本の中で使った「アウラ Aura」を念頭に置いている。それ故、ここではオーラではなく、アウラと呼ぶことにする。

彼はこう考えた・・・・芸術作品は本来ただ一つのもの(唯一性)で、ある特定の場所、例えば教会の中に置かれていて礼拝される(礼拝性)ものだった。この礼拝という社会的伝統、一種の儀式の中で唯一性を持つものとして権威が生じ、アウラ(畏怖や崇敬の感覚)が生じる。ところが写真などの機械的な複製技術は、唯一性を壊して大量生産を可能にする。つまり、儀式への寄生的な依存から芸術作品を解き放つ

それでは、いよいよ今日の話の本題に進むことにしよう。こけしには芸術作品のようにアウラはあるのか、あるとすればそれはいったいどこから来るのだろう。

一本のこけしを考えてみよう。そのこけしは一本でも、それが作られた時には似たようなものが同じ工人の手によって何本も作られたはずだ。例えば、工人の店ではザルの中に何本も転がされて売られていたはずだ。それでもアウラが生じる条件の唯一性があると言えるのだろうか。まして礼拝性はどうなのだろう。

実は、こう考えて見ればいい。唯一性が生じるのはこけしが買われていって、その所有者と向き合った時からだ。
その所有者が女の子供であった場合、ある感情を伴って向き合ったときに唯一性が生じる。さらに、それを見守る周囲の大人たちが、温かい視線を送りながら、誰もが自分たちの地域の五穀豊穣の希望をふくらませる時、一つの閉じた空間ができて礼拝性が生じるのだろう。ここでアウラが生まれる。

もう一つ重要なのは、こけしを作った工人たちも、そのこけしがやがてそういう空間でアウラをもつようになるということを十分知っていたということだ。
つまり、工人も、村人も、こけしで遊ぶ女児も、皆一つの「集団の夢=宇宙観」の中に存在したのだった。礼拝性とはそうした一つの宇宙観の中で一定の然るべきマナーをもって扱われる性質のことだ。
この宇宙観という言葉は、前回の「こけし誕生の物語」でふれた「人の形の造形に対する集団の遠い記憶」と言い換えてもいい。

こけしが、もはや女児の手に渡らなくなってからも、工人がその宇宙観を確信して製作している時はよかった。この宇宙観の中で期待される機能を果たすようにこけしを作っていたからである。
蒐集家は、自分の手に入れたこけしと向き合いながら、鑑賞という儀式を通してアウラを引き出し得たのである。

昭和三十年代四十年代のこけしの質の低下は、「新型」や「一般型」の蔓延によっておこったが、その背景はこの宇宙観の喪失である。若い世代のこけし工人たちには、もうそうした宇宙観の中に生きるこけしを実感する機会は失われていた。

それゆえ様式だけは一応「伝統こけし」であっても、しかも「新型」や「一般型」の影響を受けていないこけしであっても、その宇宙観を喪失したこけしには殆どアウラを感じることが出来なくなっていた。
ある蒐集家は、この時代に「伝統こけしの形骸は存続しても、真のこけしは既に滅んだ」といった。アウラのないこけしは真のこけしではないという思いからだ。
これは突き詰めれば、「人の形の造形に対する集団の遠い記憶=宇宙観」が失われた今、作られるこけしは復元であろうと本人型であろうと皆、「昔のこけしの複製」に過ぎないという見方なのだ。

 


アウラ再現を目指した復元

古土湯の黒こけしは西山辨之助古作と言われている。
当初は渡辺作蔵古作ではないかと言う説もあった。
憲一は辨之助、恒彦は作蔵と見立てて復元を行った。
阿部治助は大正期、これは実際に敦子さんという女の子のおもちゃだったという経歴を持つ。
頭の裏に「敦子」と言う墨書が残る。敦子さんは強いアウラを感じながら可愛がっていたであろう。
あるいは敦子さんの無事な成長を祈って雛壇に飾られていたかもしれない。
勝英復元は「木の花」23・24号 「写し展」の時のもの。

「復元」というものが目的としたことを整理すると、第一は当時のこけしから復元を通して「新型」や「一般型」の要素を払拭してやろうということだった。工人に技術が備わっていて、ある程度忠実にオリジナルを写すことができれば、復元作は当時本人が作っていたものより数等質の良いものになった。
第二は、伝統的な形態や様式においては非の打ちどころのないこけしであるが、アウラを欠いたものしか作れない現代工人に、アウラの強いオリジナルを復元してもらって、幾分でもそのアウラを再現してもらおうということだった。しかし、この成功例は必ずしも多くない。そもそも、唯一性も礼拝性も欠いた環境で「アウラを再現しろ」というのは至難の要求と言うべきだろう。にもかかわらず、その結果を見て、「復元こけし」はオリジナルを凌駕出来ない、所詮「写し」だ、極端にいえばイミテーションだという非難や落胆の声を起こすのはやや酷だったかもしれない。

さて、戦後のアウラの希薄になったこけしに対して、蒐集界は「復元」以外にも、いろいろな形でのアウラ発現の仕組みを模索してきた。それが戦後のこけし蒐集という活動を一部で支えてきた。

その例をいくつか挙げてみよう。

1.      工人そのものを神格化する
工人の血筋、師弟関係、修業や、生活の苦労、逸話などを伝説化し、やがて工人自体を神格化して、そのこけしを貴重なものとして敬う。いいかえれば、工人をスターとして扱い、ファンになる。

2.      こけし自体を神格化する
そのこけしの製作経緯や、来歴、出版図版に掲載された等の付加情報によって神格化する。
あるいは年代変化におけるピーク期の作品として神格化する。

こうした新しい価値を信奉する集団、あるいはその空間では、対象となるこけしは礼拝性を持ちうるかもしれない。なにがしかのアウラを発するかもしれない。しかし、そのアウラはどうも本物らしくはない。

やはり、こけしが本来の礼拝性を与えられていた空間とは「人の形の造形に対する遠い記憶」を共有する集団が形成していた空間であろう。その空間では、こけしに期待するものが集団的無意識として、集団の夢として明確だった。そこで発現するのがこけしの本質的なアウラのはずだ。

それではそういうアウラを、今後のこけしに期待できるか。「人の形の造形に対する遠い記憶」がほとんど失われている現在において。これは非常にチャレンジングな課題だ。アウラまでも再生させようとした「復元」の試みはほとんど成功していないのだから。

西田峯吉はなくなる一ヶ月前の講演でこんなことを言っていた。「みちのくは 遥かなれども ・・と詠われていたが、新幹線も出来てもう決して遥かではなくなった。風土は失われつつあるとも言われる。しかし、こけしはいつまでも風土と結びついたものであってほしい。」 この意味は、良いこけしが生まれるには、風土と結びついていなければならない、その風土とはこけしが生まれた風土であり、「人の形の造形に対する遠い記憶」を共有していた生活空間としての風土のことであった。復元によるアウラの再生にも、この「生活空間としての風土」への深い共感が必要なのだが。

ところで最後になるが、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』の中で展開する議論は、アウラの消失を嘆くものではなかった。彼は・・・・礼拝的価値という軛から解放された芸術作品は、新たな知覚の対象となり展示的価値を持って宗教的な対象から政治的な対象になる・・・・・とも言っている。彼はむしろ、宗教性に限られていたものから遊戯性という広い世界へ芸術が乗り出していくことの意味を考えていた。映画芸術などがその典型であった。また、この時代に展開をし始める「現代美術」の運動とも呼応していたであろう。

こけしが、神殿的な密室空間における鑑賞の対象、すなわち鑑賞者にアウラを示すという役割から、このアウラの消失によって解放されたとしたら何が残るか。

あるいは新しい遊戯の世界に進む可能性がある。これはごく最近の若いこけし愛好家層のこけしの楽しみ方を見ていると感じられることだが、こけしを、自分達の日常の思い思いの空間に多種多様な取り合わせ、配置や、コスチュームなどと組合わせながら、置いて楽しむというように、はるかに豊かな遊戯性を持ったこけしとの接し方が始まっている。古い世代の礼拝型の鑑賞とはまるで違う。
新しく出版される雑誌や、若い世代の人が作ったこけしの本などにも、こうした基調で作られているものが多い。
自分の楽しみ方の写真をフェイスブックなどで同好者と共有して、互いに支持(いいね!)の反応を交換し合い、その世界を拡大し、豊かにしようという動きも見える。
あるいは、アウラを喪失したこけしは遊戯性を獲得して、こけしとしてのあたらしい居場所を見つけつつあるのかもしれない。

さあ、今日の話の締めくくりとして、将来のこけしがどのようになって行くか、その二つの可能性をまとめておこう。

一つ目は「人の形の造形に対する集団の遠い記憶=宇宙観」を工人も、蒐集家(愛好家)も十分理解して、古品と呼ばれるものを深く凝視し、アウラを含めた「復元」を追求することだ。アウラを再現できれば、それはもう複製ではなく唯一性を獲得し、礼拝的鑑賞の対象となる。これが今日の話の本題だった。

二つ目はアウラなきこけし、その遊戯性の可能性をさらに追求することだ。礼拝的価値は失われたが展示的価値が新しく生まれる。展示自体が一つの遊戯であって、こけしを作る工人と、それをあらゆる取り合わせ、空間設定の中にディスプレイする愛好家のコラボレーションの世界が生まれる。その遊戯は、愛好家が繰り出す多様なディスプレイに、愛好家同士が互いに呼応しあうネットワークとして発展する筈だ


(追記)
アウラという言葉を使ったのはベンヤミンであるが、芸術の変質についての問題意識は、ベンヤミンの約100年前、フランス革命の後くらいから生まれていた。
たとえば、ヘーゲルは『美学講義』の中で次のように言っていた。
「芸術の最盛期は、我々にとってもう過去のものになってしまった。芸術は我々にとって、もはやその本質的な意味や、本来の生命力を持たず、かつてはそうであったように全ての人からその必要性を認められ、高い位置にあるべきものとして敬われなくなった、むしろ我々の観念の中にのみ生きるものとなった。」
これは芸術がもともとあった場所から美術館に移されて展示されだした時期(最初の公共美術館は、フランス革命のころに生まれた)以降の経験を踏まえた議論だった。
ここでヘーゲルの言葉の「芸術」を「こけし」に置き換えてみるといい。
こけしの本来あるべき場所、「人の形の造形に対する集団の遠い記憶=宇宙観」を共有していた人々のいた空間、から蒐集家の手に渡って鑑賞の対象に変わった時、こけしは「凋落(Verfall)」して、観念の中に生きるだけのものになった・・・ということになる。
ベンヤミンは「複製技術」という面からこの状況をとらえて、それを新しい用語で明快に記述したが、芸術の凋落こそ、アウラの消失であり、それは礼拝的価値から展示的価値への移行に伴って起こったと表現した、ただ展示的価値の中にも新しい可能性の展開を期待していた。
こけしの「復元」は、アウラをもつこけしの再現を目指しているが、一方で「復元」という手工業的複製自体が本質的にアウラ減少の過程を含んでいるので、きわめて危うい綱渡りを試みていることにもなる。
ただ、困難ではあるが「復元」は、アウラの再現を期待できる数少ないチャレンジの一つであることも確かなのである。

質問があれば mhashi@nifty.com までお寄せ下さい。
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