友人の部屋で、アルフレート・クーピンの画集を見ていたら「Sumpfpflanze」という銅版画に出会った。横長の画面で、女性が長く横たわっており、題名の「沼地植物」が、その女性にからまるように生えていて、陰温な巨大な花がポカリポカリと咲いていた。まるで、その植物は横たわる女性から養分を吸い上げて、巨大な花を開かせているように見える。花は巨大であれはあるほど、また豊饒であれほあるほど、相対する死というものの存在を、確実にするものらしい。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と梶井基次郎は書いた。「屍体はみな腐爛して蛆がわき、たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のようにそれを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根をあつめて、その液体を吸っている。何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。」
吉行淳之介は、焼夷弾で廃墟になった地面に、咲き出した向日葵、そして庭の紫陽花にも、その下に埋まっている屍体のイメージを追っていた。「あの花の下に、何かが埋まっているのだろうか。平べったく、乾し固まった人間の屍体でも埋まっているとでもいうのだろうか。」
世妃末のウィーンで、異彩を放った画家グスタフ・クリムトについては、飯田善国がその本質を書きつくしている。「クリムトの裸体画に漂うエロティシズムがときに頽廃と腐敗の匂いを発散しつつも、酸味に墜ちるのをかろうじて免れているのは、それが、死の匂いと溶け合っているからである。それは、死の匂いと溶け合うことによつて、ある名状し難い甘美な憂愁の気分を生み出す。そしてこの名づけようのない憂愁こそクリムト芸術の本質を成すものであった。(死と性の匂い)」
クリムトの描く女性像は、過剰な装飾の背景の中に溶け込むように描かれている。初期は絢爛たる金箔を用い、泡巻状の唐草や、円形、楕円形の抽象的な装飾であったが、晩年は次第に写実化して、空間一杯に埋めつくされた花模様に変っていく。とすると、初期の描象的な装飾も、宝石のように結晶化した花模様であり、「花と女」というイコンが、クリムトにとって重要なモチーフであったことがわかる。そして、クリムトが女の中に不可知な深淵を見てとり、そこに死の匂いを嗅ぎとったとするなら、背景の花は、その死の匂いを吸収して無限に増殖をつづけ、更に死の匂いを再生産し続けるのである。死と花と女との緊張関係は、同じ世紀末の画家エドアール・ヴュイヤールなどと比べれば、クリムトの方がはるかに深いところから発したものであった。
花が、過剰で豊饒で、絢爛と輝けば輝くだけ、相対する死のイメージも鮮やかにその存在を具現する。それは「生と死」の、互いに侵食しつつ、相い償う抜き差しならぬ対応でもあるからだ。
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こけしの胴模様を、二つのグループに分類するとすれば、「ロクロ模様」と「花模様」になる。特に「花模様」は、遠刈田系、作並系、蔵王高湯系、鳴子系、肘折系、木地山系の基本的な胴模様として広く分布している。
こけしの花模様に影響を与えたのは、漆器や、伊万里、切込などの陶器、そして堤や相良の土人形だといわれているが、それでは何故、こけしの胴模様として、特に花を選んで採り上げたのかという事に関しては、殆んど議論された事がない。こけしの胴模様として好んで花が描かれ、その花模様のこけしを喜んで買い求めていた背景には、おそらく、こけしと花との始原的な結びつきがあったのだ。
「花と言ふ語は、簡単に言ふと、<ほ・うら>と意の近いもので、前兆・先触れと言ふ位の意味になるらしい。」(折口信夫「花の話」)花が爛漫と咲くという事は、土地の精霊が、その年の豊作を、先触れとして花の形で見せるという事であった。
日本では、春咲く植物を「花」と総称して来たのは、特に開花期と農耕の開始期が一致していたからであり、その花が、その年の五穀豊饒と密接に係わっていると考えられたからである。
春の花でも、特に桜は、語源的にも<さ・くら>、すなわち穀霊・穀神を表わす<さ>と、神座の<くら>からなり、穀霊の憑依する座という意であるから重要視されてきた。「昔の人は桜の花が咲くと、これを稲の花の稔る前ぶれと感じ、その桜が時ならず早々に散ると、稲の花の収穫をまたずに散る凶兆だと感じた。そのため、桜の散り時になると、人々は、花弁の早期に散るのをふせぐ、いわゆる<花しずめ>の祭り−鎮花祭を行ったのである。」(三隅治堆「花のなかの日本人」)
桜が稲の花と重層視され、過剰に咲き競う桜と、稲の豊作とが同じレヴェルで感得されていたことに気がつくと、梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋っている!」というイメージの根が、はるかに深いものであることを知る。
古事記によれば、「スサノオがオオゲツヒメに食物を要求したとき、女神が鼻や口や尻から、いろいろなものをひり出して、饗応しようとしたのを見て怒り、女神を打ち殺したところ、その死体の各部分から、蚕・稲・粟・小豆・麦・大豆などが生じた」という。
殺害された神の屍体から穀物が出現するという主題の死体化生神話は、東南アジアからアフリカ、インド=イラン、アメリカそしてギリシャなど、広い地域に分布し、モルッカ諸島セレム島の殺された少女の名をとって、「ハイヌヴェレ型神話」と呼ばれている(A・E・イェンゼン「殺された女神」等参照)。
おそらく、殺された女神は、死んで大地と同化するという意味で地母神に密接に結びついていたであろうし、女神より化生する植物は、豊饒な創造のシンボルとしての「生命の木」でもあったのだろう。
アルフレート・クービンの面妖な花が、「沼地植物」であるという事は、横たわる女性を宇宙的混沌であり、生命、豊饒、再生のシンボルでもある<水>が包んで、一層その呪的能力を強化しているのである。
「花と水のモチーフが、植物と女性のモチーフとともにあらわれているということは、大女神と同一視される宇宙木によつて象徴化される無尽蔵の創造という中心観念に負うている。」とエリアーデも記している。
メソポタミアはじめ、近東地方では、「生命の木」は葡萄であった。そして、聖樹としての葡萄と女神という連合的な表出が、神話や図像に繰り返し現われており、この背景にも今述べたような「宗教的形而上学的意味」があるのである。我国にも、変質しつつ伝承され、「樹下美人」図などに残されていることは周知の通りである。そして葡萄から作る酒は、単なるアルコール飲料ではなく、祖型的な水、すなわち天上世界の水と了解されていた。
小苅米晄の著作「葡萄と稲」は、その副題にもある通り、ギリシャ悲劇と能の文化史を農耕文化に特有なパターンに由来する発想の比較という視点から議論したものであるが、両者が酒を造る原料としての「葡萄と稲」の相対化は、両者が生命の木として象徴化した「葡萄と桜(=稲)」の相対化とする視点も持ち得るだろう。
日本における神話的言語世界で、桜と稲とが互換性を持ち得たが故に、桜や花を中心とする行事や習俗は多彩に展開することが出来たのであろうし、また梶井基次郎のイメージが我々の心の底で強く響きわたりもするのであろう。
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「各地の花見行事を子細に見ると、たずねる野山に、特別の指定があるようだ。花の名所というより、尊い神のいます霊山といったところが、選ばれる。……中略……元来、農耕の開始期にあたって村人たちが神のおわす御山に登って祭りをし、やがてその神を伴って村に帰ってくる。」(三隅治雄、前掲書)
花は神の<よりまし>であった。冬の間、山の神として山中にあった田の神、農耕をつかさどる田の神を、春に花の枝とともに、村へ迎えるのである。
花見に行って、桜の木の下で酒宴をひらくというのも、本来は<さ>の神の前で、当年の田のなりわいを予祝祈願するのが目的で、酒肴も、木に依り憑いた神への捧げ物だったのである。
東北、北陸などでは、小正月に、シン粉をねって蒸したダンゴ、あるいは桜を型どった餅をミズキにさして飾る。この餅花と称する習俗は、新しい年の神を招くためであり、やはりこの餅花のような五穀のたわわな稔りを祈願するものであった。
このため、ミズキはダンゴノキとも呼ばれるが、餅花飾りに何故ミズキが用いられるかという事ははっきり判っていない。しかし、ミズキは、その名の示す通り、切り口から水がしたたる程に樹液の多い木であるから、前述の「花と水」のモチーフを考えるならば、聖樹となり得る資格を十分に持っていると言えよう。エリアーデも、「樹液の多い木は神的母性を象教化する」と書いている。
我々は、ミズキが代表的なこけしの用材であることを知っているが、これも単にミズキの物理的材質がこけしに適していたというだけではなく、神を招き、五穀豊穣を祈る、そして水のシンボリズムとも結びつく聖樹ミズキが、こけしの用材として最もふさわしいとする考えが、強く働いていたに違いない。
同じ小正月の行事で用いられる祝儀棒やホタキ棒は、多産と豊作を祈願するものだが、これも一部を削りかけにしてあり「削り花」として、神の依代と見做されていた。
花に神が憑依するという指摘は、折口信夫にもある。例えば、生花など花を飾る習俗の始源について「神が天から降りて来られる時、村里には如何にも目につく様に花がたてられて居り、そこを目じるしとして降りて来られるのです。だから、昔の人は、めいめいの信仰で自分々々の家へ神が来られるものと信じて、目につくやうに花を飾る訳なのです。」と語っている。花が、神にとっては依代(よりしろ)であり、人間の側から見れば招代(おぎしろ)であったとすれば、花は天上界と地上界の接点、すなわち《中心》のシンボルでもあった。
蛇ノ目を戴くこけしも、花で飾られるこけしも、同じ《中心》を表わし、神が憑依するための標的を示すという意味で、シンボルとして等価だと言ってもよいであろう。
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こけしの胴模様は、さまざまなバリエーションをもつ菊模様が多く、梅、桜、椿、牡丹などが続く。実際に、何の花か判らぬものもあり、例えば山形の小林一家の花模様は、梅だ、いや満開の桜だ、あるいは紅花かもしれぬ、と長い間議論がつきなかった(木人子閑話・14参照)。自分の描く花を「何の花という事はない。ただの花だ。」と言っていた工人もあり、花の種類よりも、花を描くという事の方が、遥かに大事だったのであろう。
菊は、四世紀に百済から日本へ伝えられたと言われているが、実際に伝わったのは奈良朝以後ではないかという。中国では「不老長寿」の象徴でもあり、このテーマは我が国でも「枕慈童(菊慈童)」として能に移入されている。西洋では墓地の花とされているが、やはり「生と死」に深く係わるものという共通の発想があるのであろう。これは雨月物語の「菊花の約(ちぎり)」などにも流れている。「木地屋」が、菊紋につながる人々であり、それ故、菊花を好んで描いたとするのは俗説であろう。
花の種類が何であろうと、こけしの胴模様として花を選んだという事自体、既に意味のあることである。
花が、神の憑依する依代であること、そして、「生と死」の二つの世界の緊張関係に、深く係っていること、それが更に農耕社会の、時間的空間的な秩序をもたらす儀礼の中で重要な役割を担っていることに注目しなければならない。
こけしは木地屋によつて作られ、湯治場において湯治客によって買われていったものである。湯治は、単なる観光ではなく、農民にとって「死と再生」の儀礼であった。
温泉の浴槽のなかに身を沈めることは、一度死んで、母なる大地=地母神の胎内に入ることであり、湯からあがることは、新らたな創造の力を身につけて誕生することである、丁度湯ノ峰の壺湯から蘇生する小栗判官のように。それは、五穀が一年の周期で、播種−成育−収穫という形の、死と再生を繰り返すことと対応しており、いわば宇宙の時間的秩序化でもあった。
そして、湯の中に身を横たえて死の時間の経過をまつとき、既に身体の此所彼所に、新しい生命の充実を感じとり、それはやがて、豊饒な花のイメージに結実する。豊饒な花こそは、来たる新しい年の、五穀豊穣の確かな予兆でもあったのである。
死と生の相対するものの対応関係は、女と花(五穀)、大地(地母神)と生命樹、湯治場と農村の関係と重って神話的な深層世界を形成しており、その両者を結びつけるものの象徴として、こけしが生み出されたと考えることが出来る。
そして、農民が湯治場で新しく生まれ変って、農村に帰るとき、新らたな創造の力=山の神を伴うことの可視的形象として、お宮笥(みやげ)であるこけしを携え、そのこけしに神の憑依を感じ取っていたといえる。こけしの花もまた、五穀豊穣の予兆であり、神の依代としての採り物だったのである。
こけしの歴史は、わずか二百年程度のものであるが、その中にも、神話的なものの中心となるモチーフが、形を変えて反復されていることがわかる。こけしを取り巻く宇宙的な秩序、その中に眠っている祖型的なもの、それらに対する感覚を、研ぎすませてゆくことによつて、更に豊かなこけしの神話的世界を享受することが出来るだろう。
こけしの世界は、十分に豊饒であって、我々によつて宇宙論的な照明があてられることを待っている未解読の要素は、まだまだ多く残っているのである。
《参考文蔽》
・飲田善国‥「クリムト」新潮社
・折口信夫‥「花の話」(折口信夫全集、第二巻)中央公論社所収
・折口信夫‥「日本美」(折口信夫全集、第一七巻)中央公論社所収
・三隅治雄‥「花のなかの日本人」(伝統と現代H)学芸書林(「祭りの情念」三一書房、再録)
・イェンゼン‥「殺された女神」(人類学ゼミナール2)弘文堂
・エリアーデ‥「大地・農耕・女性」未来社
・小苅米晄‥「葡萄と稲」白水社
・山口昌男‥「知の祝祭」青土社
こけしの花模様を、二つに分類するとすれば、遠刈田の抽象化された様式と、鳴子の写実的な様式になろうか。抽象、写実という表現は、必ずしも正確ではないが、遠刈田では重ね菊、旭菊、菱菊といった左右対称の様式が多く、変形の桜崩しにしても、同じ形を、胴の上から下へ、何段かに整然と描いており、鳴子のように、異なる形の花模様を、重ねたり、散らしたりしているのとは、様式的に区別される。この様式のいずれが古いものであるかという点については、はっきりしていない。
一般に模様というものに対して、「抽象化された模様の方が完成度が高い」という通念があるようで、写実的に対象を写すことから、やがて高度な抽象化へ進むと考える人が多いが、美術史的には誤りで、抽象的な模様の起原の方が古い。この点で、正しい記述は「手描きの文様も、始めは草花を扱うにしても、極めて抽象的な文様を描きましたが、それがだんだん写実的な文様へ変化しています。」とした溝口三郎のものが、こけし関係では唯一であろう。溝口三郎は、おそらく以下のリーグルの「美術様式論」をふまえている。「最初の植物形は象徴的・対象的意味によつてであったろう。この対象類型に、ただこの少数の類型にむすぴついて、はじめて、以下の発展がなされたのである。(中略)ほとんど幾何学化された植物文様形式を、ふたたぴ自然形の植物に近づけようとする明瞭な傾向がおこったときでも、これは直接には生きた植物の写実的描写という道においてではなく、むしろ伝統的植物文様の除々のゆるい自然化活気づけという道をたどったのである。」
即ち、写実的な植物紋様は、より抽象的な紋様が、マンネリ化して色褪せた時、それを活性化するために、部分的に写実化した要素を付加することによって次第に生まれてきたとされるのである。
遠刈田の胴模様の変遷を整理した佐藤友晴の遺稿でも、二人挽き時代の古い様式として井桁模様を第一図にとりあげ、次に抽象的な花模様をあげている。より写実的な技梅は第三図である。
しかし、これを他産地間の発展段階の差異にまで及ぼして一概に論じることは出来ない。こけしのように出発が江戸末期と比較的新しいものでは様式として既に写実の域に至ったものを写すことからスタートすることもあり得る。例えば作並の<菊籬>などは極古い様式だが、漆器や焼き物の写実的な図案を写すことから始まったと考えられるからだ。
同様に、遠刈田と鳴子の比較も、出発点となった胴模様形式が既に異っていると考えられるので、両者の新旧関係を模様の抽象写実で議論するのはあまり意味がないであろう。
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最後に、リーグルが植物模様の起原について述べた部分を紹介しておくことにする。
「植物による最古の美術表現は装飾として考えられたか、あるいは、それに内在する対象的(祭官的、象徴的)意味のためであったか……。この後者の命題は次のことを前提とするだろう。はじめて植物形を描いた人類はより前進した文化段階、いいかえると芸術活動では素朴な装飾欲をまったく超えた文化段階に到達していたと仮定することである。そして事実、古代の完成し成熟した文化状態をじっくりしらべると、造形芸術と宗教とはあきらかに緊密な相互関係に立つことを知る。そうであってみれば、今日もはや正確に年代を決定しえない古い時代からして、立体的自然現象を追感し、再現する「造形」芸術のよりひろい追求の芽ばえは、もはや内在的装飾欲や彫刻的、模倣的構成欲には帰せられない。むしろ、全面的に宗教的動機、つまり対象的なる動機に帰せられるべきであろう。」(長広敏雄訳)
リーグルが、美術史的に解析し、植物文様の起源論に対して得た結論が、今日、「起源」という問題自体、学問的な設問となり得ないと言われだした時点においても、なお十分に意味を失っていないのは、リーグルが既に、文化の祖型というものに対する感受性を持ち得ており、始原論的な視座を獲得していたからであろう。