こけし発生の「場」



橋本正明



 「木地師が没落してゆく道程のなかから、こけしが発生した。」という事が良く言われる。これだけでは意味が十分解らないが、「木地師の没落」と「こけしの発生」という二つの事象に如何なる因果関係が隠されているかを考える事によって、或いはこけし発生を究明するための指針が与えられるかも知れない。 


 近世の木地屋が一般の町人百姓すなわち里人に対して相当の誇りと優越の感情を持っていた事は著明である。彼等は惟喬親王伝説を信奉し、自ら高貴の血筋を引く者と確信していた。一般に木地屋等「あるき筋」に属する人々、即ち遊行民は定住民からの差別と賤視に対抗しなければならず、出自について誇示しょうとする発想が必然的に生まれる傾向にある。特に木地師の場合は、こうした発想が惟喬親王という貴種を職の祖神とする伝説を生み、「全国の山々、何処でも木地挽を許す。」という論旨などを創作したと思われる。ところが、近世になると信長や秀吉等の時の支配者が木地屋を利用する目的からこうした縁起、論旨に基づいて職を公認する免状等を発行したので木地屋の特権は公けに実効を持つこととなった。このようにして木地屋は里人に対し気位の高い感情をもち、里人は蔑みの感情を禁じ得ないながら木地屋文書には畏敬の念を持つという精神的関係が成立した。経済的には、木地屋は特殊技能による日用雑器類を肝煎等の「元締」をとおして供給する事により里人を支配し、里人は米、味噌等の生活用品の供給を保証することによって木地屋を支配していた。こうした均衡は江戸末期まで維持されていたが、文政以後の不況と天保飢饉等により山村経済は崩壊をはじめ、木地業のみでは生活が成立しにくくなった。一部の木地屋は薪炭、放牧など木他以外の業務に手を出したが、これは里人達と経済的に衝突する事になり、種々の軋轢を生じる結果になった。例えば宮城県大倉村の木地師新国家は薪炭業に手を出し、村民の山林への立入りを禁止したため諭山事件を起しているし、嘉永六年羽後木地山の木地屋侮辱事件もこうした時代を背景にしている。ここで大部分の木地師は最終漂移地で転業したり、或いは山をおりて漆器業の生産体制下に吸収されたり、町や温泉地等の消費地に定着して消費者の要求に直接呼応する木地屋へと変質していった。こうした傾向を決定的にしたのが明治維新後の林制改革であるが、その徴候は既に文化文政頃から現われていた
と解釈できる。


 こけし発生の条件の一つとして赤物木地技術の導入という事が指摘されている。一般に東北の木地屋は白木雑器が中心であり、木地屋が一次的にこけし作者となる過程のなかには、赤物木地技術の導入という要素が不可欠となる。赤物とよばれる小物技術は江戸・箱根で発達したが、プライドの高い排他的、固定的な木地屋がこうした技術を移入しようとする発想は、経済的に旧来の白木雑器のみでは生活できなくなってきた木地屋の没落期に初めて生まれると考えられる。例えば遠刈田において三日に一日働けば楽に暮らせた時代に新技術導入という発想は生まれにくく、不況によって生活が怯やかされて始めて赤物導入が行なわれたと思われる。土湯では木地業に依存度の高い稲荷屋が木地屋の没落に敏感に反応し、亀五郎による赤物技術導入に結びついたのであろう。木地山でも不況時には川連漆器の塗下木地生産体制からはずされ、やむなく鳴子方面より移入された小物生産を行うようになったと言われている。このように近世の木地屋が近代の木地屋に変質してゆく過程は、多くの特権とともに優越の感情をすてて定住民の中に没落してゆく過程であり、ここで抑圧された木地屋の精神は新しいものを生み出すエネルギーを必然的に醸成していたと考えらるのである。


 ここでこうした新しい木地製品を要求した消費者、即ち湯治客のイメージを追う事にしょう。湯治は文化文政頃に盛んになった習俗で、豊富な湯にひたって病気をなおし、また働く活力を貯えようとするものである。七日ないし十日を一単位とし、一ケ月以上の滞在も珍らしくなかった。特に東北地方は北国であり冷たい水田仕事は湯治をなくてはならないものにしていた。激しい日常的な労働からはなれて再生を信仰にも似た気持で希求する「場」としての湯治場が、こけし発生の「場」でもあった。こうした「場」において発生したこけしは、単に玩具や土産品というだけの性格ではなく、精神的な役割をも担っていたのではないかと思われる。それは非日常的な、ある種の超越的な「場」における再生の象徴としての[役」である。湯治客は湯治宿の部屋のなかで再生の確かな実感とともにこけしを眺めていたであろうし、そのこけしを自分の娘へ与へる事により生き生きとした未来の時空を確信できたに違いない。そして木地師は再生の象徴としてのこけしを製作することにより、湯治における再生という呪術的行事を精神的に支配する「役」をもつことになる。ここに没落によって抑圧された木地師の精神はようやく均衡を取り戻すのである。こうした木地屋と湯治客の関係形式は、祭礼における遊行の宗数的芸民と定住生活民との関係形式とアナロジーをなしている。祭礼という非日常的(定住民にとって)な「場」において二つの相反する精神が接触することによって、民間芸能の美的必然性が生じたように、湯治場という非日常的(湯治客にとって)な「場」における没落した木地師と再生を願う湯治客との接触によってこけしの美的必然性が生まれたと考えられる。ここで要求されるのは、暗から明へと向う力、即ち「生への力」であり、こけしの美を支えるのもこの「生への力」である。またこうした力を持っていることが、子供の愛情の対象として長く伴侶をつとめ得る要因でもあった。


 以上の考察から、こけし発生の「場」が形成されたのは、木地師が没落を始め、湯治習俗の確立する文化文政以後という事になる。こけしの起原については諸説あるが、少なくとも山の木地師が自分の周辺の子供達にたまたま作り与えたというのではなく、こうした「場」が形成され、発生への精神的緊要度が十分に高まってから生まれたと考えたい。即ち、こけしが生まれた時既に木地屋と湯治客の精神的かかわりあいがあったのである。

こけし山河・第13号(Jan. 23, 1972)