勧工場

勧工場

   勧工場とは何か

明治政府は富国強兵を目指し殖産興業政策を推し進め、その大きな柱として博覧会事業(万国博覧会・内国勧業博覧会・共進会)を行った。
第一回内国勧業博覧会は明治十年八月二十一日から十一月三十日まで東京の上野公園で開催され、延べ四十五万人の入場者を集めたが、この内国勧業博覧会で既にこけしが陳列されている。作者は刈田郡八宮(現・弥治郎)の佐藤常治であり、躑躅材木偶・尺五寸五分という記録が残っている。寸法は、尺すなわち丈が五寸五分と言う意味か、あるいは一尺五寸五分であったか不明。この佐藤常治は、佐藤東吉、新山丑蔵などと並んで弥治郎創世期の工人であるが、この博覧会の後明治十六年十一月四日に亡くなった。飯坂の佐藤栄治(旧姓毛利)は常治に木地を習い、常治亡き後その長男常吉からも教えを受けたと言われている。
勧工場として最初のものは、東京府が明治十一年一月に設立した府営の共同店舗である。明治十年の第一回内国勧業博覧会の売れ残り品を、東京府が麹町辰ノ口評定所跡で展示販売したのがこの勧工場物品陳列所である。ここにも玩具売り場が設けられていたという記録がある。
明治十二年には大阪にも府立勧工場(江戸堀南通り)が出来たが、これは翌十三年大阪博物場に吸収された。
東京麹町の勧工場は明治十三年に民営化され、その後多くの民間勧工場(関西では勧商場とも云った)が東京だけでなく日本各地に設立された。
明治十三年の三重県山田、明治十四年の京橋銀座の商盛社、浅草千束の勧業場、仙台東一番町、明治十五年には東京ではさらに増えて計十三、さらに横浜伊勢佐木町、函館恵比須町、広島中島集散所、明治十七年大阪心斎橋の浦山勧商場、明治十八年札幌狸小路、明治十九年青森浜町などの勧工場が民営で古いものである。銀座京橋勧工場には洋品店・小間物店・袋物店・玩具店が出品していた。
一般に勧工場は、小売商店の集合施設であり、今でいうショッピングモールのようなものであった。ここでは青果、なま物以外の出店は許されたようである。形態は、後に出現する百貨店に近い三階建て以上のものから、通り抜けの商店街程度のものまでさまざまであった。
それ以前の商店における販売形態は、店頭に商品を置かず、交渉で売買を成立させる「座売り」が一般的だったので、土足のまま入ることが出来、場内に同時に並べられた様々な種類の商品を正札を見て買うことのできる勧工場の販売方式は画期的であり人気が高かった。
多くの人が、勧工場での楽しい思い出を書き綴っている。人ごみの紛れて、売店を見て歩くことは無上の楽しみであったようだ。子供連れで多くの家族が勧工場を訪れ、人にぶつからずには歩けないような盛況であったと書かれている。
明治三十二年新橋に開業した博品館勧工場は、煉瓦造り三階建で、モスク風の鐘塔付きの時計塔が設置されたモダンな作りだったため、東京名所となり多くの錦絵や絵葉書で紹介された。現在はこの跡地に「博品館TOY PARK」が開業して博品館の名を残している。昔の勧工場の名を冠しているのが玩具店と云うのも何かの因縁であろうか。因みに勧工場には時計塔が好んで設置され、浅草の梅園館勧工場(明治二十五年)、共栄館勧工場(明治二十七年)もモダンな時計塔を備えていた。
芝で生まれた人形作家・堀柳女の「生い立ちの記」という小文に博品館の思い出に触れた部分がある。面白い話なので紹介しよう。柳女が父親に連れられて行ったところが銀座の煉瓦芸者のいる店で、父親がしばらくいなくなった間、たくさんのきれいな女の人に遊んでもらう。やがて戻ってきた父親には一人の見知らぬ女の人がついてきて、一緒に博品館の勧工場に行き、その女の人にメリンスの信玄袋に入ったお手玉を買ってもらう。やがて女の人と別れて父親と俥に乗って帰るのだが、父親は自分を抱いて「この信玄袋はお父さんが買ったんだよ。あのおばさんが買ったんじゃないんだから、家に行ったらそうお言ひ・・」という。案の定、母親から何処へ行ったか詮索されるので、子供心に察して「銀座を行ったり来たりした」と言ってはぐらかしたから、それ以来父親は信用していろいろな楽しいところに連れて行ってくれた。というような話だった。堀柳女は明治三十年生まれだから、この話は明治三十六、七年のことであろうか。
勧工場の最盛期は明治三十五年ころで、東京だけで全部で二十七の勧工場があったと言われている。数が増えるにつれて品質の悪いものを売る店も出て、勧工場物すなわち安物という見方もされるようになった。一方で、東京では百貨店が出現して隆盛になっていったので、大正に入ると勧工場は急激に姿を消していった。百貨店の進出が遅れた地方都市では、昭和に入ってからも勧工場は重要な商業施設として存続した。
東北地方の勧工場は、さらに福島(明治三十一年)、山形七日町(明治三十三年)、秋田長町(大正十一年)にも設置された。岩手については正確な記録はないが、石川啄木の書いたものの中に「勧工場は、小さいながらも盛岡にもある。」(天鵞絨)とあるから東北六県すべてに勧工場は設置されたようである。

山形の勧工場

山形の七日町に勧工場が出来たのは明治三十三年である。現在の旅籠町交差点と七日町交差点の中間あたりから南の済世館側に抜けるように勧工場があった。この地で開業していた「野村呉服店」が誘致したものだという。入口にあった「野村呉服店」の通りの向かい側一帯は城下一の宿場町「旅籠町」であった。明治に入ると、近くに県庁(明治十年に竣工、明治四十四年焼失。同地に大正五年再建。現「文翔館」)が建てられ、湯殿山神社(明治九年県庁の守護として建立)も遷座されたので、参詣客も行きかう商業地として賑わうようになった。
何故この山形の勧工場に注目するかと云うと、山形のこけし工人小林倉治一家がこの勧工場に関わっていたからだ。
従来の文献によると「小林一家のこけしは古くは北国屋という玩具商に卸していたが、明治二十年ころから旅籠町の勧工場に店を持って、こけしは主にここで売られた」とされている。この出所はおそらく吉三郎からの聞き書きであろう。私も勧工場の話は吉三郎から聞いたことがある。
ただ勧工場の歴史を調べると、旅籠町(七日町)の勧工場は明治三十三年の開設であり、明治二十年頃にはまだ勧工場はなかったと思われる。山形の勧工場としては他に北山形四日町に平野勧工場もあったが、これも旅籠町の勧工場よりやや後と思われる。
倉治一家は明治前半にたびたび転居している。明治以前は八日町あるいは寺町、明治二年に倉治が結婚して新居が旅籠町。明治八年に八日町、明治十年に十日町、明治十五年に六日町、明治二十年ころに旅籠町といった具合である。ということは正確には、「明治二十年ころに旅籠町に落ち着いて、後に勧工場が出来る場所に店を開いた」というのが正しいのかもしれない。旅籠町の家には明治二十四年に阿部常松も草鞋を脱いで、小林一家に一人挽きを伝えた。倉治は明治三十三年五十六歳のとき工場一切を長男倉吉にまかせて隠居した。自分の店の場所が勧工場になるというのは大きな出来事であり、それが隠居の一つの契機であったかも知れない。しかし隠居後も、「子供たちが挽いたこけしの木地に盛んに描彩をして、勧工場の店で売った」とあるが、これは事実であろう。倉治描彩のこけしは確かに旅籠町(七日町)の勧工場で売られていた筈である。
この勧工場は、もう一つの事件で記録に残る。明治三十八年八月から約五ヶ月間、日露戦争の捕虜としてロシアの将校二十名、兵士二十二名が山形に収容された。当初は拘束されていたが、逃亡の恐れのないものは一定の条件下である程度の自由が認められるようになり、市内の自由散歩、商家の立ち入りが許されるようになった。ただし彼らの行動には通弁・巡査の尾行がつけられ、その記録が「山形俘虜収容所日誌」として残っている。この俘虜兵たちは好んで勧工場に出かけ、買い物を楽しんだらしい。現在の「野村呉服店」の入口から南に入ると呉服・小間物・雑貨・おもちゃを扱う店が多く軒を並べていて、奥行のはずれには富岡小間物・化粧品店があり、そこを左に折れ、さらに右に折れて、済世館北側の銭湯の西隣の出口に至るという具合だったらしい。下士官や列兵は絵葉書や小間物、将校は陶器、茶器、指輪、懐中時計などを買ったとある。倉治・倉吉の店の前を彼らはよく通り、こけしや玩具、薄荷入れなどの木地製品にも目をとめたであろう。
倉吉の旅籠町の店は明治四十四年まで続くが、近隣のそば屋から出火した山形北の大火で焼失した。倉治が欄干や擬宝珠を挽いた山形県庁もこの時に焼けている。焼失した山形県庁や県会議事堂は大正五年に新築されるが、それに合わせて大々的な奥羽連合共進会が開催された。共進会というのは、代表的な物産や技術を一堂に集めて、一般の観覧に供するとともに,生産者,販売者に優劣を競わせて品質改良・産業振興を図るという目的の催しで一種の博覧会である。この奥羽連合共進会は来場者八十六万人を超える大盛況だったので、山形では博覧会熱がさらに高まり、昭和二年に来場者百三十五万人を集める全国産業博覧会を開くことになる。
この全国産業博覧会では、第三会場の雁島公園に「こども博覧会」のような「子供の国」が出来、竜宮城、動物倒し、猿のお家などがあって好評だったという。総出品数四万四千点のうち、玩具・雛・人形類が八千四百九十二点あったという記録があるが、小林一家がここに出品していたかどうかは定かでない。
大火の後、倉吉一家は六日町の新築西通りに移って木地業を続けた。この頃はもう薄荷入れが主体で、製品は大部分を吉野屋に卸していた。薄荷は明治十六年に山形が初めて輸出を始めたと言われているが、メントールを多く含む和薄荷は西欧からの需要が多く、合成メントールが開発されるまで、輸出を対象とする重要な換金作物であった。ただ薄荷入れ主体に挽いた倉吉・清蔵父子も、同じ場所に再興された勧工場で毎年開催された初市には必ずこけしを出していたらしい。
再興された勧工場に店を出したのは倉吉の弟兼吉である。兼吉は倉治の二男で、木地挽きもこけしも上手であったという。明治三十一年に婿養子になって笹沼姓になったが、勧工場が再興されると玩具店を開き、晩年まで営業を続けたといわれている。兼吉の作ったこけしや木地玩具も初期にはたくさん売られたというが、晩年には殆ど作らなかったので、今兼吉作として確認されている作品は残念ながら残っていない。兼吉に子供はなく、縁戚養子をたてて店を続けたという。勧工場は昭和十一年に閉鎖されたが、その店がその後も続いたのかどうかわからない。兼吉は昭和十三年六十五歳亡くなった。
山形の庄子勝徳さんの報告では、倉吉の孫の小林誠太郎(大正十五年生まれ)は「勧工場は戦前の自分が物心つくころまで残っていた」と語っていたそうである。
明治十一年に最初に出来た東京府麹町辰ノ口勧工場に既に玩具売り場が登場していた。というよりは勧工場で売られる商品はもともと、日用雑貨と玩具が主だったのであろう。
勧工場 目をひく物のかずかずを ならべて見する故によろこぶ
いとけなき日の我 友は今も猶 したしき如く我に物言ふ
これは明治四十一年六月に二十六歳の啄木が幼い日に遊んだ勧工場を読んだ歌と、その後に続く歌である。商品を陳列して売る勧工場に対する新鮮な興奮が感じられる。玩具売り場があるがゆえに子供たちは勧工場に立ち寄り、ともに勧工場で遊んだ友とは何時までも親しい間柄が続いたのであった。

参考文献:

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