嘉永元年から続く銅地金商を継いだ米浪庄弌氏は、大津絵や古伊万里の蒐集でも知られるが、昭和九年頃から始めたこけしの蒐集においても質の高い逸品を多く集めて日本屈指のコレクターとして有名だった。また、戦前は深澤要と交友があり、深澤が東北で発掘した新工人のこけしを言い値で引き取って、深澤の活動を経済的に支えた一人でもあった。戦後は昭和二十九年に「大阪こけし教室」という同好の集まりを組織し、昭和三十五年より機関誌「教室だより」を発行して戦後の若い蒐集家を育てた。「美しいものを追求する、その一つがこけしであり、そのこけしに限りない愛情をそそぐ」というのが米浪の一貫した姿勢であって、筋の通った蒐集家であった。「教室だより」は昭和四十四年に五十号をもって終刊し、昭和四十五年一月より「こけし山河」と改題して再出発した。
昭和四十六年七月刊「こけし山河第十号」に載った山中喜雄稿の「肘折の古こけし」は衝撃的だった。肘折の古い木地卸商「尾形政治」商店の縁の下を掘り返したところ木箱が出てきて、そのなかからがらくたに混じって古いこけしが出てきたというのである。尾形では捨てるのももったいない、何か役に立つかも知れないとこけし工人の奥山喜代治のところへ木箱ごと運んできた。山中はそのこけしを喜代治から貰ってきたと言う。「こけし山河」にはそのこけしの写真も掲載されていたが、未だかつて見たこともない作者のもので保存極美、表情古式かつ優美で超一級品の風格が感じられた。「寸法は7寸、はめ込み式、胴の上部には浅い溝がほられていて、四輪の菊が手早く描かれている。私が手にした時は、胴の底部は半分程のところまで鋸で切り、残りの部分は折り切られていて、全く立たなかった。」と山中喜雄は書いている。作者名は不明。尾形政治は山形県飽海郡南平田村の出身で、明治三十年肘折の尾形マサエと結婚して入り婿となり、尾形商店を開業した。明治三十三年遠刈田の佐藤周助が職人となって木地製品を作り、その販売を行った。明治三十五年にはさらに遠刈田から佐藤文六が尾形の職人に入り、翌三十六年周助は独立して河原湯で木地業を開業した。大正四年、尾形は最上木工所を開設、佐藤丑蔵、鈴木幸之助、斎藤伊之助、佐藤文平らが職人として働いた。尾形商店の縁の下から出たとすれば、周助・文六あるいは最上木工所で働いた丑蔵等の職人達が作者の候補に挙がるが、そのいずれの作風とも一致しない。
「こけし山河第十号」が出た当時、私はまだ大学院の学生だった。尾形から古こけしが出たという情報を得てその夏休みに肘折に出かけた。古こけし発見の詳細を調べておこうと思ったのである。奥山喜代治を訪ねて話を聞いていると喜代治の長男庫治(昭和九年生)が「まだ二階に転がっているかも知れない」といって私を二階に案内してくれた。すると庫治の子供が遊んでいて、そのおもちゃ箱に頭と胴とがばらばらになったこけしが入っていた。いそいで頭を胴に差し込んでみるとぴったり入って、古風な紛れも無い周助の切れの良い表情のこけしが現れた。さらにそのおもちゃ箱にはやや保存状態は悪いが小寸の未見のこけしも入っていた。庫治は「持っていっていいから・・」という。子供の物をとりあげるようでちょっと気がとがめたが、そうは言ってもこのような貴重なものをこのままおもちゃ箱において汚されてはたまらないので押し戴いてこの二本を頂戴し、チョコレートを買って子供へのお礼にした。これもがらくたと一緒に尾形の木箱にあった物という。六寸二分の周助は、保存状態も山中氏のものと殆ど同じで良好、また胴底も斜めに鋸で切りっぱなしで、立たせるとやや斜めになる。大正期以降のやや筆力が堅くなった周助に較べると、面描の筆は若く張りがあって力強い。
佐藤周助が出たという事はこのこけしの製作年代の特定がぐっと絞られることになる。周助は尾形の店で明治三十三年から三十五年までしか働いていない。その後独立した。一説では、文六と周助はライバル関係にあって、そのため周助は尾形を追われたという(必ずしも二人の関係は悪くなかったようだが、茶櫃などの大物挽きの技術に秀でた文六のほうを尾形は重く用いたようだ)。このとき周助は尾形からの店下がり、すなわちつけの借りも多くなって、尾形との関係が悪化していたという。ともかく、尾形を離れてからは周助の製品は横山仁右衛門商店が主として扱ったので、明治三十五年以後尾形の店に周助のものが出たことは無いと思われる。とすればこの周助は明治三十三年から三十五年の期間に作られた可能性が高い。
東京へ戻ってから、蒐集家仲間にこれを見せたが、中屋惣舜氏は「へ〜っ!柳の下に二匹目のドジョウがいたんですね」とびっくり仰天した。しかし、実はこれが二匹どころではなかったのである。
肘折の尾形から古いこけしが出て、蒐集家の手に渡ったという噂がこけし界を駆けめぐった頃、「実は私も喜代治から古いこけしを手に入れた」と言って、犬山市の宮田昭男氏がそのこけしを持参した。おなじく尾形から出た物で、山中、私の古こけしと同様の保存、同様の色調の七寸五分、運七風の唇を描いた未見の作風であった。しかも、宮田の入手したのはこれ一本ではなく、やや保存の悪い周助七寸、さらに多数の木地玩具も同時に手に入れていた。木地玩具は主として木地車であるが、他にだるまや三福神等合計十二点にもおよび、貴重な資料となった。この尾形発見の木地玩具に関しては箕輪新一の稿「肘折の古木地玩具」として「木の花第十二号」に掲載されている。
尾形から出た保存極美の三本、すなわち山中七寸、私の六寸五分、宮田七寸五分のうちで、作者がはっきりしているのは私の佐藤周助作のみである。山中、宮田の二本は全く未見の物で作者の推定に諸説がある。「木の花第六号」(昭和五十年八月刊)に「古肘折追求」と題して尾形発見のこれらのこけしを議論したことがあるが、その時は山中七寸を、井上藤五郎(二代目柿崎伝蔵)作、宮田七寸五分を奥山運七作とし、その製作年代は明治三十三年頃とした。
井上藤五郎は山形県の現在の村山市で生まれ、肘折に来て柿崎酉蔵(初代伝蔵)の養子となった。酉蔵は宮城県鳴子で木地挽きを修行し、明治十年頃肘折で木地を開業した。酉蔵は鳴子風のこけしを作ったとされるが、現存する物はない。藤五郎は酉蔵について木地を学んだあと、明治二十年遠刈田新地で佐藤周治郎について足踏み轆轤の技法を学んだ。従って、藤五郎には鳴子と遠刈田双方の影響があり、ここに独特の肘折こけしが生まれたのである。しかし、藤五郎こけしも確実なものは残っていない。奥山運七は酉蔵の弟子、即ち藤五郎の弟弟子であるが足踏みは藤五郎に学んでいる。運七のこけしはこのホームページ巻頭に載せているので参照いただきたい。
さて明治三十年に尾形商店を開業した尾形政治は、藤五郎や運七のこけしを仕入れて商っていたが、明治三十三年に佐藤周助を呼んで専属職人とし、さらに生産能力の高い佐藤文六を明治三十五年に招いて周助に替えているから、藤五郎や運七のこけしが尾形の店で商われたのは明治三十三年前後までと考えられる。尾形から出た古こけしの年代はこうした推定に基づいている。
小さな画像をクリックしてこの三本の面描を比較していただきたい。藤五郎は未発見であり確証はないが、この三本の左端が周助であり、真ん中が運七風であり、そして消去法で右端を藤五郎風とするのはおそらく受け入れられる結論であろう。とすれば、それぞれ周助作、運七作、藤五郎作と見なすのが常識的である。ただ「木の花」稿でも少し触れたが、この三本を全て周助作、そして山中七寸は藤五郎の作風に従ったもの、宮田七寸五分は運七の作風に従ったものという見方をまだ私は捨てきれずにいる。木地の感触、染料の色調、胴模様の筆致、この三本はほとんど近接していて差がない。
この考えが何となく私にしっくりするのは「周助が明治三十三年肘折に来て尾形の店で働きだしたとき、尾形は肘折風のこけしを求めたであろうし、周助はまず自分の遠刈田風を修正するために尾形の店で売られていた藤五郎や運七のこけしをまねたであろう。その時の残りが、がらくたとともに縁の下に置かれたのではなかったか、それ故、山中氏の七寸は胴底も完全に仕上げておらず、途中から折ってあったり、私の六寸五分も乱雑に胴底は斜めになっているのではないか、つまりこれは商品ではなくて周助が肘折型を創出するまでの苦心の跡なのだ。」、そんな気がするからである。ただこれは大勢の意見ではないし、私自身もまだ揺れている。
この三本は戦後の大発見として鑑賞価値、資料価値ともに高いというだけではなく、今なお夢がふくらむこけし達なのである。