木人子閑話(9)


「郷土玩具展望」と松之進のこけし

有坂与太郎と郷土玩具展望

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有坂与太郎は大正期から亡くなる昭和三十年まで郷土玩具愛好の旗手として活躍した。大正末期には郷土玩具普及会を結成し、機関誌「おしゃぶり」(全四巻)「ガラガラ」(二冊)などを刊行。また自らも出版社「建設社」を設立して、「日本雛祭考(昭和六年)」「日本玩具史二巻(昭和六〜七年)」などを次々に出版した。「鯛車(昭和十三〜十九)」は有坂与太郎の主宰した日本郷土玩具協会が発行したが、閑話(4)で紹介した高橋勘治追求の西田峯吉論考はこの「鯛車五十八号」に掲載された。戦時下においては愛国心を強く全面に出して、郷土玩具との関係にもその傾向が現れることがあった。「郷土玩具展望」は国鉄(現JR)各線ごとの各産地を紹介したもので、昭和十五〜十六年に東京山雅房より上巻、中巻が刊行されたあとついに下巻は世に出なかった。この中巻は総武線、東北線、常磐線、奥羽線沿線の産地を紹介したもので、口絵写真が十ページ二十枚、そのうち四枚にこけしが紹介されている。

(「郷土玩具展望」は高麗幸雄氏蔵本を写真に撮らせていただいた)


郷土玩具展望の松之進

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matsunosin郷土玩具展望中巻のこの図版では、右より男沢春江(仙台)、佐藤松之進(遠刈田)、高橋武蔵(鳴子)、佐藤勘内名義(鎌先)、佐藤直助(遠刈田)、新山栄五郎(弥治郎)、平賀謙蔵(作並)、菊地孝太郎(青根)、佐藤吉雄(秋保)、本田鶴松(小原)の十本のこけしが紹介されている。なお図版解説では直助を秀一としているが写真で確認する限り昭和八年頃の直助である。同様に秋保は菅原庄七となっているが佐藤吉雄であろう。また、勘内名義は甥の伝伍の作。同じ手のものが名古屋の鈴木鼓堂コレクション中に何本かあった。このなかで、松之進、謙蔵、武蔵小寸はいずれも大正期の作で特に貴重なものである。

この図版で紹介された松之進、どういう経緯で流転したかは分からないが、戦後は久松保夫木偶坊のコレクションにあった。「こけし辞典」「古作図譜」「こけしの世界」に原色で紹介されたから愛好家にはよく知られたこけしとなった。因みに、高麗幸雄氏の指摘によれば左端鶴松は「木の花・弐拾壱号」二十頁掲載の中屋惣舜蔵そのものである。

佐藤松之進は閑話(1)で紹介した佐藤直助と並んで戦前の遠刈田の代表的工人であった。柔の直助、剛の松之進と並び称されたが、その作品について語られたり、書かれたりしたことは意外な程に少ない。代表的な作者と作品を採り上げて個々にその作者論、作品論を開陳した鹿間時夫の「こけし鑑賞」にさえ、松之進のページはない。松之進という工人自体が個性が乏しいのかというとそうではない。昭和十五年に桑の木から落ちて大怪我をして以後、あまり蒐集家には会わなくなったが、それでも主な蒐集家は彼とあって、中でも橘文策は「木形子談叢」に、深澤要は「こけしの微笑」に訪問の印象を書いている。松之進の四男友晴はその著書「蔵王東麓の木地業とこけし」に−工人松之進のあしあと−という一節を書いているから工人としてはむしろよく知られた方に入る。性格的にも魅力のある工人だった。また橘文策の手許には昭和八年三月に松之進が描いた「木地人形記」という描彩集があって、こけし十八種の描彩が、それを盛んに手がけた年代とともに紹介されている。描彩の年代的変遷を知る上でも貴重なものである。松之進の母おいちは遠刈田随一の人形描きであって、その描彩も残っている。松之進もその血を受けて描彩は巧みであり、古い様式を伝えるこけし描彩画も多く残した。matsunosin kokeshie

このように蒐集界への貢献も大きく、残る作品の数もかなりありながらその作品について多く語られないというのは何故か。作品として二流であるというのなら分かるが、だれも松之進を二流とは思っていない。それでは何故か。結局は松之進のこけしは難しいのである。誰に対してでも色々なレベルで訴えるところのあるこけしは、それぞれの印象が言葉になって、その言葉で撫で回されるから、なんとなく分かったような気にさせる。松之進はむしろそういうものを拒絶するようなところがある。matsunosin rakko

もうひとつの理由として、戦前松之進は必ずしも入手困難なこけしではなかった。松之進を手に入れるために苦労したという話はあまり聞かない。昭和十二年以後、自分が轆轤に上がらなくなってからでさえ、息子の木地に盛んに描彩をしていた。それ故、太治郎などと違って蒐集の苦労にまつわる神話的な逸話には乏しい。

それでは現存する松之進は全てが名品かというとそうではない。実は名品と呼ぶに値するものは意外に少ない。その中では、この久松蔵は最高峰と言って良い。古雅なまなざしは、細身の胴に紫の深く沈んだロクロ線、渋い赤の重ね菊の衣装を得て、あくまでも静謐にして神秘的ですらある。天江コレクションや、らっここれくしょんの大正末期の作がこれにつづき、昭和初期の大頭の作、そして橘文策入手の昭和七年作くらいまでが見るべき作であろう。 後年の息子の木地に描彩したものは、頭の形も丸くなって、全体に堅く、甘くなっていった。

とすれば多くの蒐集家は実は松之進の神髄というべき作品を見る機会が少なかったのかも知れない。殆どの蒐集家が松之進として思い浮かべるのは昭和十年代の息子木地のものだったからである。直助と松之進を比較する一般の評価は、概ね直助を上と見る。直助は質の高いこけしを多く残したし、いい時期の八寸の細胴を橘文策が頒布した。それ故、名工直助の評価がひろく定着した。しかし今、この久松蔵の松之進を目の前にして、これを超える直助を探すことは非常に難しいのである。



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