木人子閑話(11)


「こけし這子の話」と湯之澤の一文こげす

天江富弥「こけし這子の話」

houko-09 天江富弥著「こけし這子の話」は昭和三年一月十日発行で、こけし専門の最初の文献である。各産地と工人を紹介するのみならず、前半は木地業篇として惟高親王、筒井公文所、東北の木地業等について記述し、後半こけし篇ではこけしの語源、発生、系統的考察、産地と体系立った構成となっていて、最初の文献にして極めて完成度の高い水準に到達している。三原良吉など周囲に学識の多い人達がいたこともあろうが、天江富弥自身が非常な熱意とともに高い視点を持っていたことが分かる。巻末の寄稿詩文には武井武雄もはじめてこけしと出会った思い出などを寄せているが、昭和五年の武井武雄著「日本郷土玩具・東の部」とともにこけし専門の蒐集家による本格的な活動の幕開けとなった。「こけし這子の話」はたとう入りでこの解説書の他、熊耳耕年原画のこけし版画、そして十三枚の産地毎の写真図版からなる。この写真が極めて貴重で、大正期と昭和のこけしを議論する場合の規範となった。長らく入手困難な稀覯本であったが、昭和五十二年五月高橋五郎さんの協力で、復刻された。
「こけし這子の話」図版のなかには作者不明のこけしもいくつかあり、また作者名誤認のものもあったが後年の研究でその殆どが確定修正されている。そのなかで、いまだに作者不明のままとなっているものの一つが「湯之澤の一文こげす」、すなわち掲載図版の左二本である。その解説には「大正十三年同地より求めたもの、一文こげすと稱して居りました。湯街の湯気の爲か、胴模様は色あせて反つて面白味を増して居ります。その顔かたちがトテモ素適で、印度の佛像を連想させます。現在製作人は転業したとのことです。」 とある。

この湯之澤一文こげすについては戦後出版された橘文策著「こけしの魅力」(山村民俗研究所・昭和三十四年)に面白いエピソードが載っている。やや長くなるが全文引用して紹介しよう。

橘文策「こけしの魅力」  −湯之沢 こけし談−

  湯之沢といえば、秋田県雄勝郡院内町湯元であることは、御承知の通りであるが、昔ここで売られていたこけしが、どんなものであったか、知っていられる方は、案外少ないのではなかろうか。

 それほどの珍こけしを持っているのが、わが天江富弥さんである。天江さんがこけし蒐集の大先輩たる所以の一つもまた、こんなところにある。miryoku

 この天下の珍こけしが、一夕見失なわれた、というのがこの話の筋である。

昭和十三年の夏、深沢要さんの「こけしの微笑」が出版されて、その祝賀会が、東京で開かれることになったので、大阪側も参加して欲しいという案内状をもらった。

その年の大阪の暑さは格別で、毎日うだるような気持ちで、体をもて余していた私は、早速出席にきめたが、一人では淋しいので、その頃、蒐集と研究にピッチをあげていた米浪さんを誘ったところ、これまた賛成ということになった。

 東京の会場では、有坂与太郎氏、田中野狐禅氏など玩界の大先輩をはじめ、こけし界の有名人が多数出席されて、盛会であった。会が終ってから、天江さんの経営していた、上野の勘兵衛酒屋に行って、三五屋さん(故松下正影氏)川口さんその他と、またチピリチビリやっているとき、天江さんが、ふざけた格好をして、懐から二本の小こけしをとり出した。私は思はず手を出して受取ると、果してこれは珍品であった。四寸程で頭の大きさと、胴の太さのあまり違わぬ造つけ、オカッパ頭に、眉眼の間の開いた、鼻もズングリとひくい不器量こけし、胴の模様はにじんだり、はげたりして何になっているのか解らぬ…。これこそ湯之沢こけしだ。私の久しく見たいと念じていたものだった。天江さんが大正十三年、同地で入手したこげすとは、このこけしだったのだ。それから一座は大騒ぎとなって一同拝まんばかりに、泣かんばかりに、手から手へ、次々に渡って、しばらくは嘆声が止まなかった。yunosawa

それから一文こげすのために、天江さんのために、大いにやろうということになり、乾杯をくり返した。さすがに天賞の主も、すっかり酔がまわり、「よしツ、これから出かけようぢや」ということに相成って、一同そろって立ち上った。

 それから、どこをどう通って、どこまで行ったか解らないが、米浪さんと私は、やっと上野駅まで来て、寝静まった宿屋をたたき起して一泊した。

 暑さと昂奮で、寝苦しい一夜だったが、翌朝は案外いゝ気持ちで、再び天江さんを訪ねてみると、少々こたえているのか、青白い顔に、不安の色まで浮べて、うす暗いイロリの端に坐っていた。私達がはいるなり「ゆうべはえらいことをしましてねえ」といわれて、私はハッとした。酒の上で失礼したといふような、ありふれた挨拶だけでないような気がしたからである。

「ゆうべのきぼこがみつからないんだよ・・・」としょげていた。ゆうべのことは思ひ出そうとしても、何もかもポーツとしているし、今朝からあちこち探してみたが見付からないといわれてみると、天江さんのショゲル気持ちはわかる。

 長さ四寸、直径五分程のこけしだったし、お互に大切に扱っていたとはいうものの、相当酔払って、あやしい手つきであっちへ移り、こっちへ渡り、子供の様にはしやいでいた最中に立ち上ってしまったので、その時誰の手にあったものか、どこに置いたのか、皆目分らないのであった。然し、詮じつめれば、どこかに置き忘れているか、途中で落したか、それとも誰かがうっかり持って帰ったか、この三つだろうと思うが、昨夜の連中で、連絡がついたのは、今こゝにいる三人だけで、一向におぽえがないというのだから、ほかの三人のうち、誰かが「あのこけしは何処そこにおいたよ」とか「あゝ僕が保管しているよ」とかいふことになれば、それでいゝんだ、とは思ってみるが、やっばり、割切れないものがあった。米浪さんと私は、それから二、三訪問して東京を去ったが、大阪に帰ってからも、そのこけしの行方が気がかりであった。

数日の後、天江さんから便りがあった、「あのきぼこは浴衣の袖に見付かったから安心してくれ」との意味だったので、私は思わず、クックツと笑い出したが、なかなか笑ひが止まらなかった。それで一週間の肩のシコリがとれた。

この話は、コケシマニアだけにしか通じない一大事件であるが、今にして思えば、滑稽な話である。

「こけし這子の話」の図録を見ていて、思い出した二十年前の話である。    −昭和三十三年十月−  

本当に一文こげすはあったのか

こんな貴重なこけしを浴衣の袖に入れておくなんて、と今から思うとあきれるような話だが、ともかく橘文策稿は無事に見つかってめでたしめでたしで終わっている。

ところで、わたしが熱心にこけしを集めた頃には天江コレクションはなかなか見ることが出来なかったし、天江氏も人に自慢してみせるなどと言うことを嫌ったから、その全貌を知る人は非常に少なかった。そこで、一部の人は、「天江さんはねぇ、橘さんに心配させないようにああいったんだが、君ね、実はあの一文こげすは、あの夜以来行方不明で、もう存在しないんだよ」としたり顔で言ったりもした。

robata昭和四十四年頃、ちょうど「こけし辞典」の執筆をしていたとき、どうも現在の天江コレクションがよく分からないと言うのはまずい、一度見に行こうと言うことになって、鹿間時夫、箕輪新一と私の三人で、わざわざ仙台まで出かけていった。当時、天江さんは仙台で「炉ばた」という店を開いていて、囲炉裏の向こうに座ってお燗を付けたり、肴を焼いたりして、へらの親玉のようなものにそれを乗せて客に給仕していた。はたはたの卵、しかも産み付けた後のかたくなったようものなどが珍味としてでた。鹿間さんは「これは東北で子供が昔、ガムみたいによく喰っていたんだ」と悦んでいた。銘酒天賞をゆっくり味わった後、天江さんにことわって二階の座敷に上がらせてもらった。ここにこけしが陳列されていたのである。「こけし這子の話」で見覚えのあるものがぎっしりと並んでいて、三人で時間が経つのも忘れて眺めていた。そのなかに、湯之澤一文こげすがちゃんと立っていて、あったあったと感激した記憶がある。資料用にガラス越しに写真を撮らせていただいたが、天江さんは「いつか図録を出版したいと思っているから」というので、一切写真は公表しなかった。しかし、あの頃はこの写真を虫眼鏡でにらむことで実に多くのことを学んだのである。yunosawa/amae

後年(昭和四十八年)、神奈川県立博物館で「こけし古名品展」を開催したとき、天江コレクションからも逸品をかなり出品していただいた。このとき古名品展図録「こけし古作図譜」を作ったが、天江氏出品分のみは天江氏の意向を尊重して掲載していない。昭和五十九年天江氏は故人となったが、その翌六十年、仙台の高橋五郎さんの尽力によって、「図譜・こけし這子の話の世界」が刊行され、天江氏の念願どおりの見事な図録が世に出た。湯之澤三寸七分も二本、この図録に掲載されている。

しかし、天江コレクションというと私はあの「炉ばた」の二階の印象が強い。その時の写真(箕輪撮影)も、立派な天江図録が出版された後であるから、もう紹介しても良いであろう。隠れるように立っていた湯之澤、湯街の湯気にけむったといわれた胴模様も実に美しい。

湯之澤の一文こげすは大正十三年天江氏によって六本程求められてきた。うち二本は天江コレクションに、一本はラッココレクションに、さらに一本は川口コレクションに現存している。三原良吉氏に渡った一本は戦災で焼失したという。

作者は依然として不明。産地湯之澤が及位に近いこととその形態作風から、佐藤文六の弟子の一人かとも言われている。



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