「土湯木でこ考」も今では入手するのがなかなか難しくなった。私も三、四、五集は持っているが、他はコピーでしか持っていない。また、第五集は出版部数少なく、広く行き渡らなかったので、従来のこけし研究書の書誌には全四集で終わったとするものも多い。著者の佐藤泰平は、昭和三十年代に福島で活躍した人、昭和三十四年の福島こけし会創立に当たっては、会長玉山勇、副会長藤井孝吉、佐久間貞義、とともに企画担当として参画した。機関誌「木でこ」は三號まで発刊されたが昭和三十五年四月自然消滅した。その後、佐藤氏自ら主宰して伝統こけしの会を創立、機関誌「こけしルネッサンス」を三號まで発刊、誌上でこけしの頒布も行った。本業は和菓子の老舗「玉萬」の経営であったが、その傍ら「木でこ庵」というこけしの店を開き、愛好家にこけしの頒布なども行った。昭和三十六年店をたたんで転居、やがてこけし界から離れた。佐藤氏の功績は、会における活動や頒布もあったが、何と言っても土湯のこけしと工人に関する歴史や聞き書きを丹念に集めて記録しまとめて出版したことにある。それらは昭和三十六年五月から三十七年十一月にかけて「土湯木でこ考」第一集〜第五集として出版された。第一集の内容は第二〜第五集で再録されたものが多い。第二集の土湯および土湯木地業の歴史、木でこの発生、第三集の土湯の古話と史実、第四集の木地屋聞き書きと題する個々の工人史、第五集の足踏みロクロの伝承など丁寧にまとめられており、その後の土湯研究の底本となった。
「土湯木でこ考」で感銘を受けることの一つに、土湯に伝わった口碑や伝説まで丹念に集めている点がある。例えば、第三集の「木でこの縁起」という部分には次のような記述がある。
「秦野川勝が(聖徳)太子の命をうけ国分寺造営の為東国に下ることになった。日頃寵愛した待臣の身を案じた太子は、躬ら木像を彫って曰く『川勝よこの木像を我と思い彼の地に携えよ』と、そして木像に太子自身の血を吹きかけ己れの分身として彼に与えた。川勝は、その木像を奉じて東北に旅する内、半身不随の病を得て難渋をしたが、岩代国突湯の里に霊湯のあるを知ってこの地に辿りつき、湯につかった所瞬時にして病快癒し手足が元通り利くようになった。秦野川勝は太子の功徳を彰する為に太子堂を建立し木像を安置し、併せて温泉の霊湯を播めたという。何時の頃からか太子像になぞらへて木のにんきようを挽き、太子が己が血を吹きかけたことになぞらって木のにんぎょうに朱色で描いた。それ以来、湯治客がその木にんぎょうを購って太子堂に奉納し湯につかれば病も亦快癒するという縁起が生れた。
土湯村民はみな身体に赤い斑点をもって生れてくるという言伝えがのこっている。赤い斑点ば聖徳太子が己れの血をもって木像に吹きかけ川勝に与えた血潮が、今尚土湯に生わる赤児の身体に復活するのだ、土湯の者はいはば太子の分身でありその為長寿を保っているのだというのである。土湯の古老達、その人達も今は数える程しかいなくなったがその間に於ては信仰的な伝説として遺っている。だが、新しい年代の土地の人々は、このような伝説が残っていることさえ知らないでいるようである。」
聖徳太子(推古30年没-622)や秦川勝(聖徳太子と同時代の新羅系渡来人)と国分寺造営(天平13年詔発布-741)とは時代が合わないし、赤物としての土湯木でことの関連も不確かではあるけれども、そうした伝承を伝える精神的基盤を土湯の人達が持っていたと知るのは大事なことである。そしてこの話を知らなければ由吉が「俺の身体には赤まんまがある」と言ったことの真意を知るのは難しい。
由吉は土湯木でこの創始者亀五郎の嫡流であり、高いプライドを持っ工人だった。早くから福島に出て木地業開業し一家をかまえていたが、実家の父浅之助は明治三十六年の水害で財を失って土湯を離れざるを得なくなり、兄弟皆各地に散って苦労することとなった。湊屋は土湯こけしの本流でありながら、土湯におけるこけし製作の基盤を完全に失ったのだった。昭和に入って、こけしはブームになったが、その時土湯でもてはやされたのは斎藤太治郎であった。太治郎は名人、名工と呼ばれた。これに反発したのが由吉であり、昭和十年にこれが本当の土湯木でこだという誇りを持ってこけし製作を再開した。そして彼が言ったのは「俺の身体には赤まんまがある」という言葉、赤まんまというのは即ち赤いあざ、土湯の正統な流れを汲む聖痕としての赤いあざを由吉は持っていると言ったのだった。これは身体に刻印された極めて強いアイデンティティであり、この聖徳太子の呪力を背負いながら由吉は木でこを作ったのである。
同じ「土湯木でこ考」第三集巻末に次のような伝承を記録している。
「昔この土地の一人が畑仕事の最中、きゝぎの蔓に足をとられて転び、その上胡摩のさやで左の目を突いた。家に急ぎ帰り手当をしたが遂に盲になってしまった。間もなくその家に子供が出来た。これが生れつきの片目であった。片目の父は怒って、畑のさゝぎと胡摩を全部つぶしてしまった.村の百姓達もそれに倣って村中のさゝぎと胡摩をつぶしてしまったので、その後土湯ではさゝぎと胡摩は採れないようになった。それからというものは、土湯に生れる赤児の左の目が、右と比べて小さく、大人になっても直らなかった。今でも土湯の人の左の目が一般に小さいといはれるがどうであろうか。
現在土湯のさゝぎ作りが盛んなのは、戦争中食糧の乏しい頃、当時の区長をしていた富士屋旅館主人佐久間修三氏の提案で、衆議の上太子堂に祈祷して栽培を再開したからだという。」
ところが柳田国男も「日本の伝説」の中に「片目の魚」という一文を書いて、片目に関する伝説を採録しているが、その中に次のような土湯のよく似た話を紹介している。
「福島県の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てそうな所ですが、村には太子堂があって、若き太子様の木像を祀っております。昔この村の狩人が、鹿を追い掛けて沢の奥にはいって行くと、ふいに草むらの間から、負って行け負って行けという声がしましたので、たずねて見るとこのお像でありました。驚いてさっそく背に負うて帰って来ようとして、途中でささげの蔓にからまって倒れ、自分は怪我をせずに、太子様の目を胡麻稈で突いたということで、今見ても木像の片目から、血が流れたようなあとがあるそうです。そうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いという話がありましたが、この頃ほどうなったか私はまだきいていません。(信達一統誌。福島県信夫郡土湯村) 」
また、「一目小僧その他」でも同様の記述があり、出典はいずれも「信達一統誌」あるいは「信達二郡村誌」である。
土地の男が目を突いたのか、狩人が目を突きそうになったのを太子像が肩代わりして下さったのかはともかくとして、片目に対する聖性を土地の人が受け継ぐという伝承が土湯にはあったことが分かる。
ところで気になるのは、土湯こけしの目の描法である。土湯の湊屋佐久間浅之助は「つぶし目」を描いて「ねむり猫」と呼ばれたという聞き書きがある。浅之助は目の描彩をするときに、下瞼から描いてその後で上瞼を描き加えた。眼点は水平に両瞼の間に入れるが、場合によっては塗りつぶすようにたたいているとも見えた。この手法を「つぶし目」というが、何故このような描法をしたのだろうか。ただし、浅之助は両目ともほぼ同じような描き方をしているし、大きさに大小はない。
一方で、浅之助の弟で山根屋に養子に行った渡辺作蔵には晩年に作った洒脱で軽妙なこけしが残っている。眼点を瞼の間に突きさすように入れた。ただし、いつも向かって左目が小さい。
これが世代の若い由吉や治助になると必ずしも当てはまらない。まして教員を勤めた斎藤太治郎は几帳面に左右対称に描く。
浅之助や作蔵の、故意か偶然かは分からぬが、「つぶし目」や左右不揃いの目の描法には、何か土湯のささげで目を突いた伝説と関係のあるような気がしてならない。「つぶし目」という用語の選び方を見ても、通常の目よりもこうした目の方が呪力が強いはずだという土湯共有の心情がそこにはあったと思うのである。
柳田国男は「日本の伝説」の中で次のようにも言ってる。「何にもせよ、目が一つしかないということは、不思議なもの、またおそるべきもののしるしでありました。奥州の方では、一つまなぐ、東京では一つ目小僧などといって、顔の真ん中に眼の一つあるお化けを、想像するようになったのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のように二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざわざ二つ目を、一つ目にした力のもとを、おそれもし、また貴みもしていたのであります。」
柳田国男は、「もともと生贄に選ばれたものをその時まで生かしておくとき、そのしるしとして片目を潰す習慣があった。生贄は生きている間は敬われもし、恐れられもした。それが片目の聖性のもとになった。」と考えていたようだ。
柳田国男は、山に棲む一つ目でしかも一本足の妖怪を恐れまたあがめた話についても繰り返し述べている(例えば「一目小僧その他」、「妖怪談義、一眼一足の怪」など)。この一つ目で一本足を山の神だと考えている所もあるという。土湯のこけしが特異な目を持ち、一本棒の胴、即ち一本足であるならば、山の呪力を現すものとしての完璧なイメージ喚起力を持っていたに違いない。さらに聖徳太子の血の呪力である赤をまとっているとすれば、もうその力を誰もが疑いもしなかったであろう。こけしが山の神の呪力を持って、五穀豊穣や多産を村にもたらすものであるとすれば土湯木でこはその象徴的表標を色濃く身にまとっているのである。
イメージによる推論を駆使する人ならば、一つ目、一本足のはるか原始の姿として生殖力を体現したファロスをさらに思い浮かべるかも知れない。それは大地母神とともに人類の最も原初的な象徴の一つであった。この点で私は柳田国男の議論に多少の物足りなさを感じる。謹厳な官吏であった柳田国男は、敢えてこの種の議論を避けた感もあるが、中央に縦に裂ける一つ目を持った一本棒こそ最も古い姿であって、片目を潰すことの聖性は、これに近づくことによって始めて成立するように思えるのだ。
最後に、閑話(13)では現代の人権意識では身体表現において不適切の範疇に属する用語を扱わざるを得なかった。文献からの引用を正確に行うためにもやむを得ない場合があったし、こけしがどのような時空で受け止められていたかを考えるためにも必要であったとご理解戴きたいと思う。