木人子閑話(19)


木人子室とは何か

このホームページを作ってから木人子室とは何か、どう読むのか、どういう意味かといった質問をよく受けるようになった。”ぼくじんししつ”と読む。それではこけしとどういう関係があるのかとさらに疑問をもたれる方も多い。


こうした自分の居室や、書斎いわゆる勉強部屋に名前をつける、これを「堂号」「室号」あるいは「室名」というらしい。中国がそもそも発祥で、多くの学者たちが自分の居室に名前をつけた。一流の書斎人を目指す人たちは、その志をこの数語にこめて、風格のある堂号をつけようとした。中国文学者で週刊文春に「お言葉ですが・・・」というエッセイをながく書き続けていた高島俊男氏も「勉強部屋の名前(平成十三年二月八日)」と冠したよくまとまった一文で、この堂号を楽しく論じていた。因みの彼の堂号は羸鶴山房(るゐかくさんぼう)という。


こけしの蒐集家には自分のコレクションを保管、陳列あるいは鑑賞する居室に、この「堂号」をつける場合がある。
私もかつてこけし蒐集家の堂号について調べて、その結果をまとめて名古屋の「木でこ・七十一号」(昭和四十八年九月九日)に載せたことがある。名古屋の「木でこ」はいろいろな原稿を気軽に載せてくれた。試論や私説おおいに結構という編集方針だった。「木の花」が発刊される前、東京からもずいぶん投稿があった。私も「こけし辞典」で調査した結果を、辞典項目とするよりあらかじめまとめた一文にしておきたいときに、この「木でこ」を大いに利用させていただいた。堂号の話のようにごく一部の人の興味しか引かないような原稿でも歓迎して載せてくれた。


蒐集家の堂号は、実際は仲間内ではよく使われる。橘頒布というより木形子洞頒布といったほうが通りがいい。西田旧蔵品というと、西田静波か西田峯吉かわからない、亀楽堂旧蔵品といえば西田静波に決まっている。
「木でこ」の堂号閑話は、もうずいぶん古い文章で少々手直しを要したが、原文をできるだけそのままに紹介する。これから自分の「堂号」をつけてみたいという方には参考になると思う。


 堂 号 閑 話         木 人 子 室                      

  こけしのコレクションを拝見する時、こけし部屋の入口に「何々庵」等の堂号を記した扁額を見る場合がある。また、戦前のこけし雑誌等には、ペンネームとして堂号を用いておられる方がある。こうした堂号も、そのコレクションなり蒐集家なりにぴったりとしたものであれば極めて風雅なものであるし、又楽しいものである。「こけし辞典」にも「雅号」なる項目があり、著名なこけし蒐集家の堂号を列挙してある。しかしながら、自分のコレクションに堂号をつけようとすると、適切な堂号を考えるのはなかなか難かしいという事がわかる。第一に困難なことは「こけし」あるいはそれに相当する語句を堂号にもりこみたいと考えた場合、ひらがなで「こけし」を入れると堂号として俗になり易いという点である.これは堂号を決めたのち、印に刻したいという場合には、特にひらがなの「こけし」は形になりにくいのである。従って蒐集界ではいろいろなあて字が考えられて来た。(例えば、木形子・木削子・御形子・木芥子・小芥子・御芥子・小笥子・木華子・木戯子・古戯子・古華子・古芸子・香華寿・古計志)しかし、「こけし」においてこのあて字で三字を要すると、堂号として冗長になりやすく、なかなかすっきりした堂号を決めるのが難しくなる。

 一般に堂号は如何にして命名されるかを考えてみよう。
堂号の歴史について、私は多くの知識をもたないが、「唐の李泌という人がその室を端居室と号して、これを印に刻して用いた。」という記録があるから、唐時代には既に堂号をつけてその印を作るという風があったと考えていいだろう。堂号命名については例えば清朝蔵書家の第一人者として知られる黄丕烈(こうひれつ)は北宋版と南宋版の「陶淵明詩集」を二種もっていたので「陶陶室」といった。また後に、宋版本を百種蒐集したので「百宋一廛」(ひゃくそういってん)と号した。
さしずめ、周助と善吉の両名物を持っているから「周善室」と称したり、こけし三千本を蔵して「三千木偶斎」と号したりするようなものである。
一番の大物は、清の乾隆帝の書斎「三希堂」であろう、この三希という命名は乾隆帝が所蔵していた四世紀東晋時代の書、「王羲之の快雪時晴帖」、その息子「王獻之の中秋帖」、もう一つ「王cの伯遠帖」、この三つの希な宝を蔵したからである。
日本においては内藤湖南が、司馬遷の「史記」の宋版本を手に入れて「宝馬庵」と号し、晩年には漢の許慎の著である「説文解字」の唐写本を得て「宝許庵」と改めた。湖南にならえば、運七をもって「宝運庵」などというところである。
 この堂号に類した文字の用い方であるが、「平家建てに"何々楼"はおかしいし、小さな家に"何々閣"もおかしい。要はその家、その室によって適切なものを選ばなければならない。」と言われる。ただ一方で、明代の書家で文人の文徴明は、印面に停雲館を刻して、それを架空の部屋があるものとして堂号にしたと言うから、この手でいけば実際の自分の家や部屋の姿などあまり気にせず好きな文字を選べばよいのかもしれない。堂号に通常用いられるのは、大体次のようなものである。
   こけし関係ではいままであまり使われていないが、この他には、
などが一般に多く用いられる。

二字では
 草堂、精舎、山房、山館、山荘、間房、茨室、香閣、古屋、書屋、書房、書院、画室、画廊、印室、小榭などが用いられる.
 二字の例として、石井眞之助氏の「こけし草堂」、綾秀郎氏の「こけし精舎」などがきれいである.中屋惣舜氏の「こけし娯屋」は古屋の音に娯を仮借したものである。音の仮借としては庵(あん)の代りに闇(あん)や(あん)が用いられる場合もある。
 こけしコレクションの堂号は、「こけし」やそれに相当する語句(きぼこ、きでこ、でく、人形、雛等)の下にこれらの宇をつけて出来ているものが多い。もちろんこけしと無関係な語を用いても良い。自分の好きな産地名や工人名を入れるのもよい。結局は、格の低い俗なものにならなければ良いのである。
 また、黄丕烈や内藤湖南の例をみてもわかるように、適時堂号を変える事は全く差し支えない。気軽に命名してよいのである。ただし、既に使われているものはなるべく避けるべきであろう。
 堂号が決まったら、蔵票を作ってこけしの底や胴裏に貼り、蔵印を刻してそれを捺したりするのも、コレクションの楽しみの一つである。

     (以上  「木でこ・七十一号」 昭和四十八年記)


蒐集家からこけしを割愛していただいたときに、前の所蔵者の蔵票がついている場合がある。「これははがさずに大切にそのままにするのがよい、自分の蔵票を貼る場合は少し重ねて上に貼っていくものだ」と教えられた。写真に示したように「こけし娯屋」に重ねて「木人子室」を貼るといったやり方だ。蒐集は伝来を大切にする、したがってどのような所蔵者を経て現所蔵者に伝えられたかも、その価値のひとつなのだと聞かされた。
中国で名品と呼ばれる「書」には所狭しと印が捺されている、歴代の所蔵者の印や、場合によっては見て鑑賞したというだけの印もある。うるさいと思われるこの印が作品の価値を高めているらしい。たとえば「三希堂」の印があれば清朝内府から出たものとすぐに知れる。
鑑蔵印や過目印の習に従うわけではないが、前の所蔵者の温情とともに「木人子室」に入ったこけしであるから私はこうした蔵票を大切にしている。ISHI.GIF - 17,248BYTES

さて、石井眞之助さんからは私は実に多くのことを教わった。石井さんからの手紙には時々自ら採拓した拓本が同封されていて賛と雅印が押されていた。私もあるとき簡単な絵に印を捺してお送りしたところ、「絵は面白いが、このような平俗な印判を用いてはならない」と苦言付きの返信が届いた。そのあと石井さんのお宅を訪ねたとき、愛用の印や所蔵の印を拝見させていただいた。篆刻というものがあること、印材を楽しむ世界があることをそのとき初めて知った。石井さんの用印のなかには「篆刻指南」の著者石井双石の刻したものなど面白いものがいくつもあった。右に石井さんの用印の数例を紹介する。「石泉」は石井さんは好んで用いた雅号、「石の井戸」から「石の泉」と称したのであろう。石井さんから「自分で使う印は印判屋に頼むのではなく、自分で彫ったほうがいい、印材など安いもんだし、五寸釘でも彫れる。欠けたりしても気にせずにバリバリと彫ればよい。」と聞かされて、さっそく書店で「篆刻指南」と「朝陽字鑑精粋」を買ってきて、自分の印を作った。そのころはまだ篆刻の指導書などは殆どなく、四苦八苦だったが「書道全集」の「篆刻編」などが貴重で、漢代の王侯印などを参考にした。近代の作者では缶盧呉昌碩や二金堂趙之謙などに心魅かれ、その摸刻を試みたりした。
その中で呉昌碩の「石人子室」という印がとても気に入って、その摸刻をするうちに「石」を「木」に替えて彫ってみようと思いいたった。それが「木人子室」誕生の契機である。白紅社版松丸東魚編の呉昌碩印譜第四集の巻頭および次葉に呉翁自用の「石人子室」印があり、これが手本となった。以後、自分の居室に「木人子室」を使っている。

なお後に、画人かつ篆刻家齊白石も「木人」という自用印をまれに使ったことを知った。「木居士」とも称した。齊白石が少時に木匠となったことによるらしい。また、「木人」には、寡黙で愚直な人という意味もこめられているかも知れない。ただし、白石の「木人」は堂号ではなく、白石自身の雅号、白石自用の斎堂館閣印としては白石吟屋、白石艸堂、借山館、樂石室、寄萍堂、梨花小院などが別にある。中国の文人達はこのように非常に多くの堂号を持ち、それを用いていたのである。
文革の後、古印石がおびただしく中国から入り、安く沢山売り出されたことがあった。私もいくつか自分で彫る用材にするために買ってきたが、その中に「老木」と彫ったものがあって、齊白石風であった。「木人」が老いたので「老木」の印を用いたに違いないと思った。白石の印譜でこれを探していたが、なかなか見つからず長く気になっていた。随分たってから、雑誌「篆刻・六十七」(東京堂出版:平成十一年十月)齊白石自用印特集の中に、ようやく同じ「老木」を発見した。私のところの「老木」は彼の国の誰かが練習のために齊白石の模刻を行ったものであろう。極めてよく写しているが細部の彫りに若干の差をみる。

それでは「木人」とは何か、木の人形のことである。例えば平安時代に大江匡房が著わした「傀儡子記」には「舞木人闘桃梗」すなわち木人を舞はせ、桃梗を闘はすと出て来る(因みに桃梗は漢語で繰り人形のこと)。「木人子」はこの「木人」に小さい、あるいは細かい物に付く接尾語「子」が付いた形。すなわち「小さな木人形」といった意味である。「木人子」という言葉は唐代伝奇・河東記の有名な「板橋の三娘子」に出てくる。板橋店の食べもの屋の娘が夜中に小箱の中から六、七寸の木の人形と木の牛を取り出す、木の人形は木の牛を使って土間に小さな畑を耕し、蕎麦を蒔いて一夜で収穫する、三娘子はその蕎麦で焼餅を作る。焼餅を食べた人はみな驢馬に変えられてしまう。話はその後一転二転する。「板橋の三娘子」は中国志怪小説の中でももっとも完成度高く、またすこぶる面白い。ここで一つの人形を取り出すところでは「一木偶人」、それを箱に戻すところでは「卻收木人子于廂中」すなわち木人子を廂中に戻し収めると表現してある。

我が居室にも、人をとりこにしてしまう木の人形たちがたくさんいるので「木人子室」という。


板祐生は郷玩蒐集家や趣味人のためにこうした楽しい蔵書票を作った。
「於けし園」のように堂号を用いたものも多かった。

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