木人子閑話(22)


木形子綺譚

羨こけし

「羨こけし」は、戦前昭和十三年八月に出版された「こけしの微笑」(昭森社)と、昭和二十七年九月に出版された「こけしの追求」(昭森社)を合本として、昭和三十七年に未来社より再版出版された。原本はともに出版部数が少なかったので、この「羨こけし」で深沢要を読み始めた蒐集家も多いであろう。私もその一人である。
深沢氏は当時の蒐集家としては産地訪問回数、工人からの直接の聞き書きが桁外れに多かったので、書かれている内容も、面白いと言うだけでなく、資料価値が高かった。刺激の多い本の一つであった。
「こけしの微笑」に「蒐集」と題する一文があって、コケシの蒐集にまつわるエピソードや深沢氏の随想がまとめられているが、その中に、次のような一つ気になる記述がある。

「朝日新聞にこけしの記事がのっていたのを御読みになりましたか」と何度か人に尋ねられたことがあった。読んでいないのを残念に思っている時、小沢一蛙氏の御厚意で読むことが出来た。それは東京朝日(昭和十二年七月八日)で、佐藤利雄氏の「木形子綺譚」である。内容を事実の報告とすれば、私には新しい宿題であった。幾百本幾千本のこけし愛蔵者、劇作家のNとは誰だろう。N氏を感激させ、狂喜させたこけし作者、A温泉のSとは誰だろう。Sは「こけし界不世出の天才」であって、山上の一軒家に娘と二人で暮らしていた。娘は男に棄てられ、愛児を亡くしてから、父の造ったこけしを片時も離さず「坊や坊や」と可愛がるので、部落の人達は「きぼっこ気違え、きぼっこ気違え」と呼んでいたのであった。父は盆、椀、杓を造ってほそぼそと家計をたてる傍ら、こけしを造って孤独と悲劇の晩年を自ら慰めていたが、娘は再び身重となり、家計も逼迫して、遂に父は娘と渓谷で無残な死を遂げた、と云う話なのである−ところで、まだ私共の知らないこけし作者、愛好者は何人くらいあるのだろうか。

「羨こけし」で「こけしの微笑」の解説を書いたのは西田峯吉であったが、そこでは深沢さんのこけし蒐集に対する強い姿勢を強調するのみで、この新聞記事について何もふれてはいない。また編者註としては郷土玩具蒐集家の小沢一蛙を紹介するのみで、記事を書いた佐藤利雄についての説明は無い。


木形子綺譚 −深夜の湯小屋に現れた女−

ところでこの佐藤利雄の原文は、深沢氏の要約よりもかなり猟奇的な記述でしかも長文である。以下に全文紹介する。

kitan一寸した用事があって、劇作家のN氏を訪ねた。そして私は氏の書斎に飾られた木形子−大小さまざま、色とりどり、幾百本幾千本となく夥しく蒐集された木形子(轆轤挽の木人形)の群に一驚した。そればかりではない、氏の木形子研究は、現在木形子の作られるところは、本年一月現在で六十七ヶ所、作者は百三十一名、その全部が東北に限られてゐること、系統は、代表的なものとして、福島の土湯系、宮城の遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、岩手の花巻系、青森の温湯系、秋田の木地山系の七大系統に分けられるといふこと、
しかも、そのどの一本を取ってみても、佯ることの出来ない作者の個性が滲み出てゐること等、聞かされれば聞かされる程驚嘆の他はなかったが、自分も行李の底に木形子を一本持ってゐるこを思い出し、それをいひ出さずにはゐられなかった。
それから二、三日後、行李の底から木形子を捜し出した私は、それを持ってまたN氏を訪ねた。ところが!それが図らずもN氏を感激させ、狂喜させてしまったのだから面白い。
「ほう、こりゃ傑作です。素晴らしい傑作です。いったい、誰の作でせう?見事な胴の菊は遠刈田系と・・・さうさう、バカに頭もでかいし、A温泉のSの作ぢゃないですか?」
私が内心よく判ったものだと感心しながら點頭(うなづ)くと
「矢張りさうですか、よく手に入りましたねえ。僕も故人のいいものなど随分苦心して捜してゐるんですが、中々手に入らないんです。鯖湖(福島県)の渡辺角治なども大変いいものを作ったので態々訪ねたんですが、もう何一つありませんでしたよ。しかも、有名な寡作者で何十年も前に物故したSの作など、どうして手に入れられたんです?」
と云って、N氏は怪訝な顔付きをされた。それもその筈、この木形子に就いては、私にとっても忘れられない挿話(エピソード)があるのだった・・・。
話は十余年まえの昔に遡る。私は其頃、A温泉に長い間滞在してゐた事がある。A温泉といふのは東北本線N駅から鉄道馬車で六里、さらに徒歩十数丁の山間に在った。宿屋は三軒、私は驛(馬車の)近くにすんでいたが、ある夜明け方の事・・・・
ひどい悪夢にうなされてゐた私は、ふと目が覚めた瞬間、ひやッとした。襖の割れ目からキラキラ光る二つの眼がきッと私を睨みつけてゐるではないか!私はがばっと跳び起きた。と同時に、強盗だと思った闖入者を見て二度吃驚した。女なのだ、しかも少女なのだ。「火、火!」と喚きながら、女は階段を駆降りた。
そして素早く囲炉裏の杉葉に燐寸を擦った。炎を見るや女は手を拍って狂喜する。呆気に取られていると兵児帯で負んぶした子供(それがよく見ると座布団に包んだ木形子だったのだ!)を下ろして、それに頬擦りしながら「坊や、当たった当たった(火に当たれの意)」と火に翳(かざ)してやるのだった。
女はしばらく当たっていたが、急にぶつぶつ怒り出したかと思ふとぷいと戸外に飛び出してしまった。思わず外に出てみると、女は釣橋の上を温泉場のほうへ駆けてゆくところだった。橋の上は霜が雪のやうに白かった。
−隣の蹄鉄屋(かなぐつや)のお内儀さんから、凡ての事情を聞く事が出来た。女は山の上の一軒家で、父親とたった二人の暮らしだった。父親は轆轤を唯一の資本に盆、椀、杓など温泉場の土産物を作ってはほそぼそと家計を樹てている年老いた木地師だった。
女は発電所工事の某と子まで生んだが、型の通りに男に棄てられ、おまけに愛児の死に遇ひ、それやこれやで気が変になってしまったのだといふ。それから、父親の作った木形子を片時も離さず「坊や坊や」と可愛がるので、部落の人達は「きぼっこ(木形子)気違え、きぼっこ気違え」と呼んでいる、との事だった。
その後、私は湯小屋で女に遇った。湯小屋といふのは私のところから数丁、栗林の蔭に在って、しかも一方は千仭の渓川に臨んでゐた。粗末なバラック建だったが、湯は非常にきれいで岩窟に滾々と溢れてゐた。私はこの原始的な湯小屋を愛した。そして深夜、一人で何時間も何時間も湯に浸ったり、長々と大の字に寝そべったりしてゐるのだった。或る夜。何時ものように湯小屋に行くと中で人の気配がする。「今晩は」と挨拶したが返事がない。懐中電灯でよく見ると、女−それがいつかの闖入者だったのだ。それから私は深夜の湯小屋で幾度彼女に出遇ったかわからない。月夜など、バラックを洩れて月光が芒のやうに強く流れて来る。塑像のやうな彼女の裸體。
と、と、と、と・・・・・湯は神秘的な音を立てて湧き溢れる。女は月を見て笑いながら、よく雪を喰べた。それは懍艶と云はうか、怪奇と云はうか、まさに鏡花の小説の一場面だった。だが、それにも増して忘れられないのは、女が木形子の「坊や」を抱いて泣いたり笑ったり喚いたり、かと思うと塑像のように黙りこくって身動きもしない萎れた姿だった・・・・・
ところが、・・・・三月も終わりに近い或る日、彼等親子は渓底から無残な死體となって発見されたのだった。娘は何時かまた身重になってをり、家計もいよいよ逼迫し、それやこれやで父親が死を計ったのだといふ。父親−それが今、N氏の激賞してやまない木形子の作者S老人だったのだ!
−あれから、十余年になる。しかも今、当時何の気なしに求めてゐた一本の木形子が、N氏をかくも狂喜させ、感激させようとは!
「実際、これは素晴らしい傑作です。どうです、首から胴に流れた線といひ、それに何よりもこの色彩−御覧なさい。まるで植物からぢかに色素を搾り取ってゐた頃の美しさぢゃありませんか。実に素晴らしい。Sの作など今時分鯱立ちしたって手に入りませんからねぇ。」興奮にN氏の頬は熱して来た。
・・・・・・あの、変人といわれ、黙狂のやうに黙りこくっていたS老人が、そんな傑れた工人であり、「木形子界不世出の天才」(N氏の言葉)であったとは!思うに老人は盆、椀、杓を作ってほそぼそと家計を樹てる傍ら、木形子の製作にその全精魂を打ち込んでゐたのではなかったろうか?そしてあの孤独と悲劇の晩年を自ら慰めていたのではなかったろうか?十余年後になって、私はS老人の心境にしみじみ頭の下がる思ひがした。  (をはり)

これは佐藤利雄の創作であろう。ただ私はこの佐藤利雄がどういう人物かは知らない。
仮に実話として、この記事の書かれた昭和十二年から十余年前の出来事とすれば、大正末期にS老人は自殺したことになる。
さらに遠刈田系産地でA温泉に該当し、さらに馬車鉄道があったのは、秋保と青根である。秋保では、1914年(大正三年)に長町 - 秋保温泉間で馬車軌道が開業しており、青根では、1900年(明治三十三年)に設立された「柴田鉄道株式会社」が、日本鉄道線大河原駅を起点とし、現在の大河原町金ヶ瀬地区、蔵王町宮地区、永野地区、遠刈田地区を経て川崎町青根地区まで馬車鉄道を敷設している。東北本線N駅からというなら長町からの秋保であるが、実際の路線距離は四里、一方青根の方は路線距離六里半で距離はこちらが近い。ただしともに驛から下りて徒歩十数丁の山道を歩くということはないであろう。
いづれの産地にも、また他の産地を見ても、大正末期に娘と自殺した該当工人はいない。実話ではなく創作である。鯖湖角治名義
にもかかわらず深沢要が実話かもしれないと思ったのは何故か。二つの理由があるだろう。一つは深沢がさらにこけしのフロンティアを心の底で渇望していたからだ。深沢は時代的にやや遅れて来た蒐集家であった、すでに天江、武井、橘の時代ではなかった。それでも新作者の発見には異常なほどの情熱を傾けた。まだ未知の世界が欲しかったのだ。
そしてもう一つはこの記事が話としてよくできているからだ。ここに書かれている劇作家N氏のこけし解説も発言内容も、当時としてはきわめて妥当であるし、鯖湖の角治を求めた挿話なども、驚くほどに真実味がある。さらに言うなら、こけしは次の三つの魅力が揃ったときもっとも人を魅きつけるといわれる。まず、「こけし」そのもの、次に作られた「産地」、そして作った「工人」である。佐藤氏の文では、「こけし」そのものの素晴らしさをN氏に語らせ、湯小屋のある温泉地と気の触れた女の話で「産地」の神秘性を印象付け、孤独と悲劇の晩年をこけしつくりで自らを慰める寡黙な「工人」の生き様を際立たせる。三つ魅力を上手く完備させているのだ。これには、一般の読者よりも、こけしも産地も工人もよく知っている深沢要のほうが魅きつけられたかもしれない。
私は、この話の要約を「羨こけし」で読んだとき、何故か柳田國男の「山の人生−山に埋もれた人生のある事」に出てくる次の挿話を思い出した。
山に子供二人と暮らす男が、炭焼きで暮らしていたが、なんとしても炭は売れず、一合の米も手に入らなかった。最後の日も空手で帰って、飢えきっている小さなものの顔を見るのが辛さに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。眼が覚めて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であったと言う。二人の子供がその日溜りにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら、一生懸命に仕事に使う大きな斧を研いでいた。「おとう、これで私たちを殺してくれ」といったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして前後の考えも無く二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
夕日で一杯になった戸口の情景には、逆光の中で世界中の音が消えてシンカーンとなったような空白感があり、意識の停止した世界で動きはじめる男の姿にはスローモーションを見ているような印象がある。
深沢氏の要約では、この柳田國男の文にあるような死にいたるたたみ掛けるような必然性の幾許かが、言い換えれば思考停止の中で死に至る切迫感の幾許かが感じられたが、佐藤利雄の原文では「湯小屋の女」の長い挿話などが入って印象は大分違ったものであった。

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