木人子閑話(28)

橘文二の青春

こけし以前の橘文策

昨年(平成二十二年)、「ひやね」で箕輪新一兄が橘文策の「こけし以外の顔」について話をしてくれた。
その要約は次の通り。
雑誌「苦楽」の編集部員「橘譲二」が橘文策である。
関西に、プラトン社と言う出版社があったがその親会社は「クラブ化粧品」などを発売していた「中山太陽堂」で、女性の社会参加及び純文学などを基調とした雑誌「女性」を発売していた。「苦楽」は、その大衆版として企画、編集され「山六郎」がその責任者であったが、その途中で「山名文夫」とともに「橘譲二」が入社した。
「橘譲二」は、大正十一年前後に約二年間プラトン社に在籍し、また「ゼネラルモータース」(
GM)日本支社宣伝部員も勤めた。
橘文策自身はこけし以外の経歴をあまり語らず、「こけしざんまい」の経歴にしても、京都市立絵画専門学校卒業と、後年新聞社などに勤めたのち武庫川女子大教授をしたという程度のしごくあっさりしたものだから、こうした彼の「こけし以外の顔」に触れたのは新鮮であった。
すると、今年になって岡戸正憲さんが、「こんな本もあります」と言って「モダニズム出版社の光芒-プラトン社の一九二〇年代」という本を見せてくれた。
これを見ると、プラトン社というのは大正から昭和の文化史にかなり重要な活動を行った出版社であることが分かる。
もともとは中山太一が起こした「中山太陽堂」という成功した化粧品会社があり、その意匠部宣伝部がPR誌を発刊しようと大正十一年に作った出版社であった。そのPR誌「女性」は創刊一年を経ずして、PR誌の域をはるかに超えた婦人文芸誌に変身してしまった。
プラトン社の社長になったのは中山太一の弟豊三であったが、彼はむしろ出版事業に大きな夢を持っていて、当初からプラトン社を一流出版社にしたいという意欲があったようである。副社長には豊三の義弟河中作造がなった。プラトン社の所在は谷町五丁目の河中作造の私邸に置かれた。デザインを担当したのは意匠部にいた京都高等工芸学校出の山六郎であり、やがて小山内薫がプラトン社の顧問になった。執筆陣として正宗白鳥、吉井勇、九条武子、野口雨情、長谷川時雨、田山花袋、坪内逍遥、武者小路実篤、内田魯庵、与謝野晶子、山本有三、芥川龍之介、薄田泣菫などが寄稿するようになる。
この「女性」発刊後一年を経た大正十二年春にプラトン社は三名の若い図案家を採用する。山名文夫、橘文二、前田貢である。この橘文二が橘文策の本名である。山名は大阪梅田の赤松麟作洋画研究所を、前田は山六郎と同窓で京都高等工芸学校を、橘は京都絵画専門学校(現京都市立藝術大学)を卒業していた。橘文二は明治三十一年十一月十八日徳島生まれであるから、この年二十四歳だったはずである。
プラトン社がこの三人を採用したのは、新しい娯楽雑誌としての「苦楽」を企画していたためだったらしい。
大正十二年は関東大震災の年でもあった。被災して小山内を頼った川口松太郎や直木三十五も大阪に来てプラトン社に入り、新娯楽雑誌の創刊に加わった
新娯楽雑誌「苦楽」の創刊は大正十二年十二月であるが、その題字ロゴは橘文二が製作した。
「女性」は文芸的な創作、「苦楽」は大衆小説や戯曲、演劇といったハイブロウなエンターテインメントに重心を置いた内容であったが、どちらもデザイン性の高い装丁・構成であり、特に「苦楽」はアールデコ風のカットや装飾をふんだんに取り入れたモダンな雑誌であった。
この時代は、成功して豊かになった関西の財界人たちや富裕層が、六甲山系を背にした大阪神戸間の郊外にモダンな近代建築で住居を建築した時期でもあり、その「阪神間モダニズム」と呼ばれた時代の潮流に呼応した雑誌でもあった。
「しかしせっかくの専門教育を受けた橘文二と前田貢ではあったが、彼らは編集デザインやイラストレーションの仕事にあまり力を発揮することはなかった。二人とも入社から二年あまりの大正十四年半ばでプラトン社を去っている。橘のイラストレーションの作風を見ると、華やかさに欠け、また絵の巧拙はさておき、サインの入れ方がまずいせいで全体の雰囲気やバランスを欠いている。」と「モダニズム出版社の光芒」の執筆者の一人西村美香の評価は厳しい。
ただ、山六郎や山名文夫が、ビアズレイやヨーロッパのファッション誌に挿入されたファッションプレートなどの模写から、多くのスタイルを習得していたのに対して、橘がそうした模倣から始める製作手法にどれだけ情熱を感じることができたのかは分からない。
一方で、「苦楽」に掲載された挿絵の画家としては、竹内栖鳳、伊藤深水、岩田専太郎、岡本一平、小村雪岱、竹久夢二、前川千帆、宮尾しげを、谷中安規などがいたから競争の激しい仕事でもあったろう。また、実際の誌面を見てみると、挿絵のスタイルも幅広く、全てがアールデコに統一されていたわけではない。
すくなくとも橘文二のイラストは大正十四年六月号(左図)にまでは掲載されている。「サインの入れ方がまずい」と言われた一文字”T”のサインは右上マント状の黒の下に入れられている。この後やがて彼はプラトン社を去る。退社の決定的な理由については不明であるが、山六郎と山名文夫の緊密な関係による出版デザイン活動の間に、橘も前田も入り込む余地がなくなっていったためではなかろうか。
「女性」「苦楽」の刊行は昭和三年の五月号まで続く。競合誌「キング」や改造社の円本の出現によって購買層を奪われたことにもよるが、プラトン社の出版活動が頓挫した決定的な要因は、「中山太陽堂」のメインバンクであった加島銀行が破綻したからではないかと書かれている。
その後、山名文夫は昭和四年に資生堂に入り、デザイン広告の分野でさらに名をあげる。山六郎は、平凡社・新潮社で装丁の仕事を続けた。

日本ゼネラル・モータースとこけし

「モダニズム出版社の光芒」には、「橘はその後、名前を文策と改め、日本ゼネラル・モータース社に入社、戦時中は通信社企画部長として満州に赴任した。(中略)帰国後は戦前から趣味としていたこけし研究に没頭し、武井武雄と並び称される研究家になり、その関係の書物も著わしている。また後年は武庫川女子大学で教鞭をとり、デザイン教育に尽力した」と書き加えられている。
日本でのGM車の販売は、大正時代から梁瀬自動車株式会社によりおこなわれていた。しかし、大正十四年二月に米国のフォードが横浜をアジア地区の生産・販売拠点として、新規に工場を設置したことから、米国ゼネラルモーターズ(GM)もその対抗手段として大阪に自動車の生産、販売の拠点を作ることを決定した。大正十五年に大阪市大正区鶴町に組み立てラインの建設を開始し、昭和二年に日本ゼネラル・モータース株式会社が設立される。
橘文二はこのころ日本ゼネラル・モータースに宣伝部員として採用されたと思われる。
日本ゼネラル・モータースの宣伝部員として、橘文策がどのような仕事をしていたのかは分からない。
ただ、橘文策が筒井郷玩店でこけしを買い始めたのは、昭和四、五年ころと書いているから、日本ゼネラル・モータース勤務の時代である。筒井で飯坂の佐藤栄治を手に入れて、自室の棚に並べた後、「その日から、私の憂鬱な勤人生活にも一抹の明るさを見いだすことが出来た。」と書いているから、この勤務は必ずしも居心地の良い職場ではなかったのかもしれない。
橘文策が残した多くの紀行文を読むと、疲労だったり、睡眠不良だったり、体調が悪かったり、周囲の喧騒にいらだったり、かなり多訴の傾向がみられる。当時の産地旅行は苦労の多いものだったに違いないが、それでも深沢要の「六月になると、こけし行脚の季節が来たなと思う。青葉の季節だし、木地屋も張り切っている。」といったわくわくするような紀行とはずいぶん違う。あるいは橘文策は周囲との調和に苦労した人かもしれない。
そうした紀行文の中で、ようやく車を見つけると「車はシボレーの新車で、スペヤーシートが二個付いている」(鎌先)、「待っていた乗合自動車に乗り込む。スプリングのゆるみきったシボレー・ツーリングである」(十文字)、「増田街道を突っ走ってきたシボレー・ツーリングは下ノ宿から左に折れる」(川蓮)など、GMの車になると記述にこだわりが見えるのは微笑ましい。
橘文策は、昭和四年ころに最初に筒井で佐藤栄治六寸を八十銭で購入、翌昭和五年二月に高橋勘治二本を含む数本を十余円で購入、これが筒井の女将の有名な科白「出た時には買ふときなはれ・・・」(こけしと作者)が出たときのものか、四月に蔵王高湯の岡崎長次郎等三本を購入、その後戎橋筋の書店で武井武雄の「郷土玩具・東の部」を購入読了して一気に蒐集熱が昂まり、直接工人に手紙による注文を開始、昭和六年十月には東北こけし蒐集旅行が始まる。
昭和七年四月には河本正次、川崎巨泉の勧めで木形子会を結成し、こけしの頒布を開始する。第一回は渡辺幸九郎であった。世に云う「木形子洞頒布」の開始である。

橘文策のこけし関係の年譜については、大阪こけし教室の「こけし山河・橘文策追悼号」に下記のように要約されている。
明治三十一年11月十八日 徳島に生る。本名文二。
昭和四年 道頓堀。筒井郷土玩具店でこけしを知り、蒐集を始める。
昭和六年十月 第一回東北旅行。大阪。民俗談話に入会。木地屋の研究を始める。
昭和七年四月 木形子の会を結成、頒布を始む。
昭和七年四月 会誌木形子研究を発刊。
昭和八年八月 木形子研究(十二号)終刊。
昭和十年一月 木形子異報(木形子夜話会)発刊。
昭和十年七月 木形子作者人気番付昭和十年七月 木形子談叢
昭和十一年七月  木形子異報(十二号)終刊。
昭和十二年一月  木形子人気大番付
昭和十二年五月  木形子通信
昭和十二年六月  木形子展望(木形子研究会)発刊。
昭和十三年四月  木形子展望(2号)終刊。
昭和十三年四月  木形子(木形子研究会)発刊。
昭和十四年六月  木形子(九号)終刊。
昭和十四年八月  こけしと作者
  昭和十四年八月五日満州国通信社企画部長として満州新京に赴任した。
  新京特別市西朝陽で終戦、昭和二十一年に引き揚げ。
昭和二十二年七月  こけしもようしふ(肉筆)の頒布を始め、二十三年六月十三輯で終る。
昭和二十三年一月  木地屋を訪ねて(孔版)
昭和三十四年四月  こけしの魅力
昭和三十五年一月  続こけしもようしふ(肉筆)の頒布を始め、三十六年二月十二輯で終る。
昭和三十八年八月  木地屋のふるさと
昭和五十年十一月  こけし模様集
昭和五十三年七月  こけしざんまい
昭和五十四年三月二十三日十八時三十分永眠。享年八十才。
橘文策は多くのこけしに関する著作を残している。そしてその大部分は橘自身が装丁を行っている。幾分アールデコ調の残るその装丁に、彼がプラトン社で山六郎らから受けた影響の一端が伺える。
この年譜の中に出て来る「昭和六年の民俗談話」の会というのは澤田四郎作が中心となり、宮本常一、後藤捷一、岸田定雄、水木直箭らが集まって毎月一回道修町の薬屋の二階で開いた研究・報告の会である。橘文策はこの集まりを通して木地屋の知識を深め、後年「木地屋を訪ねて」や「木地屋のふるさと」を書くこととなる。この会の宮本常一も橘文策の木地屋研究には一目置いていたようで、その著作の中に木地屋研究者橘文策の名が何箇所かに散見される。
渡満に際して大切に土蔵に保管してあった数千本のこけしは、戦後事情があって、ごく大切なもの数十本を残して手放すことになる。石井眞之助が依頼されて引き取り手を探し、西尾にいた本田貫一がそのこけしを引き受けた。
私が橘文策と会ったのは一度だけである。たぶん大阪こけし教室の百回記念例会(昭和四十八年七月)の席であったろう。米浪会長と橘氏が並んで座って居られた。残念ながらこのとき、橘氏と親しく話す機会はなかった。
最後に、「橘譲二」として紹介された彼の名前は、「モダニズム出版社の光芒」にも「苦楽」にも登場しない。「苦楽」のイラストのサイン名は”T”一文字か、”T.B."か、”T.BUNDI"であって、プラトン社時代は「橘文二」であったろう。あるいは、日本ゼネラル・モータース時代に、外人からの呼称名がジョ−ジだったのかも知れない。また、いつ「橘文策」を使い始めたかも定かではないが、昭和五年ころに始めた工人への注文葉書には既に「橘文策」を用いているから、この時期からであろうか。
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