宮本常一氏は、昭和五十五年九月十日朝日新聞の夕刊に載せた記事「日本の形 木地玩具」の中で、瀬戸内地方にもこけしが有ったと書いた。
記事全文は以下の通り。
東北地方のコケシは多くの人たちが興味を持ち、これを集め保持する人も少なくない。東北には、木地屋が温泉の近くに住みついて木地椀(わん)などを作り、これを温泉客に売った。と同時に子どもたちへのみやげにコケシを作った。その愛らしい表情と素朴な姿が、今はむしろ子どもより大人の心をひきつけているが、木地屋が子どもたちのために作ったのはコケシだけでなく、いろいろの玩具(がんぐ)であった。
ロクロを使用して作ったものだから、みなまるみをおびている。そしてその中にはコマに類するものが多かった。コマもいろいろある。手まわし、紐(ひも)まわし、それもいろいろの紐のまき方がある。
木地玩具は、東北だけでなく各地にあった。つまり木地屋のいるところでは多くこれを作ったであろう。そして私の子どものころには郷里の瀬戸内海の島にもいろいろあったし、コケシもあったのである。オボコと言っていた。
木で作った玩具は丈夫で、はじめは美しく彩色してあっても、しまいには手垢(てあか)がついて黒くなってしまい、やがて焼きすてられたもののようである。木地玩具がブリキ製になり、セルロイドになり、プラスチックになってきたが、子どもたちが玩具を中心に集団で遊ぶというようなことはなくなって来た。もう一度子どもたちがコマなどをもって仲間で遊びほうけるような日が来ないものだろうか。
(宮本常一・民俗研究家)
この文脈では、木地玩具を木地屋が作ったものと定義しているように読めるし、木地屋がいるところでは多く木地玩具が作られたと言い、その流れで瀬戸内海の島(周防の大島)には木地玩具もコケシもあったと言っている。したがって。木地屋がロクロで作ったコケシが周防の大島にあったと宮本氏は言っている。昭和四十八年に私がいただいた手紙の文脈とも矛盾はない。「それをオボコと言っていた。」と言うのも興味深い記録である。
この記事を「こけし手帖・二百三十八号」(昭和五十六年一月号)の「会員サロン」で紹介した宍倉恒孝氏の投稿に対して、編集部の柴田長吉郎氏は、この「原文ではコケシがあったというだけで、製作していたとは明記していない。従って、あるいは東北で作られたこけしが、瀬戸内海の島で売られていたかも知れない。」としている。確かに私への手紙でも「あった」として「作られていた」とは書かれていないが、「東北だけでなく各地にあった」から始まるこの文脈では、瀬戸内海の島、少なくともその近傍で作られていたというようにしか読み取れないように思う。
ただ、実物が残っておらず、こけし研究界では、やはりコケシは「東北」に限られるという見方が強い。つまり、東北固有説の方が、東北残存説よりは優位である。ロクロで挽いたこけしと同じような人形は、確かに京都などにもあった。ただ胡粉を塗って描彩を施したもので、これをコケシと同じ範疇と見るかどうかは疑問である。こけしと類似の人形は、おそらく各地にあったであろう、しかし、それとこけしが同じものかどうかはまた別の話である。
しかし、大島のオボコも一度見てみたい。大島のどこかに一本くらい残っていると面白いのだが。
因みに新聞掲載のコケシと木地玩具はみな戦後のものであるが、「宮城県白石市本町・菅野新一氏所蔵」となっている。