集古会の人々


ここに紹介する集古会の名簿は実に面白い。注意深く見てゆくと、集古会という中にサブグループ、あるいはサブネットワークがいくつもあって、それが複雑に絡み合っているのが分かる。
設立者の坪井正五郎の人類学教室のグループとそれにつながる博物学者、坪井と林若樹が関わった竹馬会の玩具の仲間、坪井とその妻女通しての蘭学者、国学者、漢学者のグループ、その国学者で「好古類纂」「古事類苑」の編纂・執筆に加わったグループ、明治期最高の茶人グループ和敬会「十六羅漢」の面々など多彩だ。
そして、このサブグループは共通して何かを蒐集している。古書蒐集のグループは勿論だが国学・「古事類苑」・「好古類纂」のグループも古典籍の蒐集であり、茶道・十六羅漢は茶道具の蒐集、日本画家は時代絵のための服飾や有職古実に関わるものの蒐集といった具合である。
こうした個性的かつ強烈なサブネットワークのメンバーを、古物、古習俗を集めるという一点の求心力で統合させた坪井正五郎の「組織化」の手腕は見事というほかはない。

名誉会員

明治三十六年二月の集古会会員名簿には、名誉会員として次の十八名を掲げている。
侯爵・蜂須賀茂韶、公爵・二條基弘、文學博士・大槻文彦・子爵・大田原一清、文學博士・横井時冬、理學博士・坪井正五郎、文學博士・黒川眞頼、伯爵・松浦詮、文學博士・松本愛重、子爵・松平乘承、文學博士・小杉榲邨、子爵・榎本武揚、子爵・秋元興朝、文學博士・箕作元八、文學博士・三宅米吉、文學博士・重野安繹、伯爵・東久世通禧、男爵・千家尊福
侯爵・蜂須賀茂韶は最後〈十四代〉の阿波徳島藩主、英国オックスフォード大に留学、駐仏大使、東京府知事、貴族院議員、文部大臣などを務めた。蜂須賀は、もちろん尊王攘夷側の人であり、戊辰戦争では奥州に兵を送っている。
公爵・二條基弘は九条尚忠の八男で、二条斉敬の養子。宮中顧問官、正二位勲二等公爵。貴族院議員。書を能くした。明治時代に愛車フォードを乗り回したことで有名。
文學博士・大槻文彦は儒学者大槻磐渓の三男で、日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者。漢学者の大槻如電は兄。
子爵・大田原一清は下野大田原藩の最後〈十四代〉の藩主。戊辰戦争では新政府に恭順し、版籍奉還により大田原藩知事に任じられた。貴族院議員。
文學博士・横井時冬は尾張藩士横井時相の子。東京専門学校卒業。旧幕府や諸侯家に遺された文献や商家などを回って日本の商工業及び産業政策の歴史に関する調査・研究事業を行った。「日本商業史」・「日本工業史」を著わす。早稲田大学の商科の設立に尽力した。
理學博士・坪井正五郎は蘭学者・坪井信道の孫、父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良。帝国大学理科大学教授。日本の人類学の草分け的存在。妻は蘭学者・箕作秋坪の長女で、同じ集古会名誉会員の箕作元八の異母妹にあたる。
文學博士・黒川眞頼は国学者、本姓は金子。上野国桐生新町の生まれ。黒川春村に師事、春村の遺言により黒川家を継ぐ。内務省・農商務省の博物局に籍を置き、仏国博覧会や内国勧業博覧会などの仕事に従事した。正倉院御物整理を担当したり、帝室博物館学芸員など歴任している。東大教授。「古事類苑」の編纂(へんさん)にも従事。著書に「考古画譜」「日本古典大意」などがある。
伯爵・松浦詮は、肥前国平戸藩最後〈十二代〉の藩主。松浦家第三十七代当主、茶人としても知られる。祖父の妹が公家に嫁いでおり、尊王攘夷論を奉じたが,公武合体にも意を用いた。戊辰戦争には討幕勢力に加わった。貴族院議員。「好古類纂」には「儀礼部類 先朝歌御会始」などを書いている。茶人石州流鎮信派の家元。和敬会設立の提唱者、和敬会の十六名は持ち回りで釜をかけたため「「十六羅漢」と呼ばれた。同じ集古会会員の東久世通禧、平瀬亀之助(露香)、三田葆光、石見鑑造、青地幾次郎、金沢三右衛門らは皆この「十六羅漢」のメンバーである。これにのち欠員補充で益田鈍翁、団琢磨などが加わった。会の規約は次の三つ。「一、和敬静寂の本旨を守るべき事。 一、器は新古を撰ばず、結構を好むべからざる事。 一、食は淡薄を主とし、厚みを備ふべからざる事。」
文學博士・松本愛重は、国学者、黒川眞頼が検閲委員を務めた皇典講究所による「古事類苑」編纂事業に、横井時冬とともに編集委員として参加。明治二十八年に神宮司庁に「古事類苑」の所管が移されると副編集となった。「搴セ」の二条良基作者説を唱えたことでも知られる。
子爵・松平乘承は三河(愛知県)西尾藩主松平乗全の五男。伯父で藩主であった乗秩の養子となり家督をついだ。西南戦争に際し,佐野常民らとともに博愛社(日本赤十字社の前身)の設立に尽力。宮内省、太政官の御用掛を歴任。子爵、貴族院議員。日本赤十字社副社長。
文學博士・小杉榲邨は徳島出身の国学者。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に師事した。勤王論を唱えて幽閉された事がある。修史館掌記として文部省所管時代の「古事類苑」の編集に従った。明治十五年東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事した。「好古類纂」の執筆陣の一人。日本歴史地理学会編「阿波国徴古雑抄」の実質的な著者でもある。
子爵・榎本武揚はもちろん函館戦争で五稜郭で戦った人。のちの海軍中将で駐露特命全権公使、内閣制度確立後、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した。また、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動をしたことでも知られる。妻たつは林洞海の娘で林研海の妹。林研海の子である林若樹は榎本武揚の義理の甥にあたることになる。
子爵・秋元興朝は、明治時代から大正時代の華族、外交官、貴族院議員。宇都宮藩家老の息子。館林藩主秋元礼朝の養子となる。外務省書記生として在パリ公使館勤務となるが、ほどなく職を辞し欧州各地を遊学した。外務官僚を歴任したが、のちに伊藤博文の立憲政友会に参加。
文學博士・箕作元八は、箕作秋坪の四男で、母つねは箕作阮甫の三女。東京大学動物学科を卒業しドイツに留学したが、のちに西洋史学に転向した。いったん帰国し、第一高等中学校の教授を務めたが、さらにフランスに留学し史学の研究を深めた。帰国後、東京帝国大学の教授となり「西洋史講話」などを著作した。異母妹の直子は人類学者の坪井正五郎の妻女。
文學博士・三宅米吉は和歌山藩士三宅栄充の長男、慶応義塾に学んだ歴史学者。日本考古学会を創設主宰。帝室博物館総長・東京高等師範学校長・東京文理科大初代学長などを歴任した。志賀島で発見された金印の文字「漢委奴国王」は「漢の倭の奴の国王」と読むという論文を『史学雑誌』、以後この読み方が定説となった。
文學博士・重野安繹は鹿児島出身の漢学者、歴史学者。帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授、「史学会」初代会長などを勤めた。貴族院議員。
伯爵・東久世通禧は、もともと京都の尊王攘夷派の公家、公武合体派が実権を握った後長州に逃れ、王政復古により復権した。明治四年には岩倉具視の使節団に理事官として随行して、欧米を廻っている。外国事務総督、神奈川府知事、開拓使長官、侍従長、元老院副議長、貴族院副議長、枢密院副議長を歴任。茶人でも知られ、和敬会「「十六羅漢」の一人。明治三十九年の五月に上野で開催された「こども博覧会」の会長。
男爵・千家尊福は、第七十九代出雲国造千家尊澄の子。教派神道出雲大社教を創始した。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣などに就いた。
名誉会員であるから当然ではあるが、貴族院議員や政府の要職について明治政府に貢献していた人、学者として重きをなした人であり、勤皇方で倒幕に加わった人も含まれている。

賛助会員

このときの賛助会員は二十六名であった。
井上頼圀:江戸神田松下町の医者井上頼正の子、国学者。勤皇の志士との深い交流があった。国史諸本の校訂、神社史考証を行なうほか、貴重本の書写を弟子とともに行ない、その保存を図った。文学博士。皇典講究所設立に加わった一人。国学院・学習院教授。「好古類纂」「古事類苑」の編纂に参与。蔵書は無窮会専門図書館神習文庫として遺存している。集古会会員の小杉榲邨、松浦詮、五十嵐雅言、黒川真道は「好古類纂」の編纂執筆の仲間である。
市川萬庵:江戸の書家市川米庵の長男。江戸城に居て禄高二百三十石、洋式銃術を修めた。書家としても知られる。明治維新後、大蔵省に入省し、明治政府の命を受け英国で技術を学び、西洋式の貨幣の製造を始めた。
中井敬所:三世浜村蔵六を外叔父にもつ篆刻家。中国や日本の古印の研究にも力を注ぎ、優れた著作を遺した。明治天皇の国璽を刻した。
大槻如電:仙台藩の儒学者大槻磐渓の次男、文彦は弟。和漢洋の学や文芸に通じ、日本の伝統音楽にも精通して、「俗曲の由来」や日本の雅楽研究の嚆矢となる「舞楽図説」などを著わした。竹馬会会員。
平瀬亀之助:大名貸しでしられた千草屋に生まれ、千草屋を銀行組織化し(第三十二銀行)、保険会社や阪神電鉄を組織し、大阪貯蓄銀行取締役、日本火災保険社長、大阪博物場長を歴任。大阪博物場とは、東横堀川沿いにあった大阪府立の総合博物館的な施設。明治七年に市庁舎の跡地に開設され、美術館や能楽堂、動物園などがあった。この大阪博物場では明治三十九年三月に「日本玩具博覧会」が開催されている。平瀬亀之助は武者小路千家の茶人露香としても知られる。伝家の蔵品として柴田井戸・雪舟達磨絵・青磁人形水指などを持っていた。和歌・書芸・歌舞伎などの三十一にものぼる趣味に没頭していたといわれ、「蝙蝠大尽」と綽名された。のちに平瀬露香の道具の売立て会が行われた時、一万円を越える道具が三点も現れたという。一万円は今の五千万円くらいであろうか。
本居豊穎:本居宣長の曾孫。紀州藩本居家の四世当主。国学者として東京帝国大学・國學院・東京女子高等師範学校などの講師を勤めた。帝国学士院会員。
佐々木信綱
:歌人、国文学者。正六位勲六等文学博士。
益田孝:佐渡出身、ヘボン塾(現・明治学院高校)に学び、アメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学んだ。三井財閥を支えた実業家。古美術の蒐集家、茶人。号は「鈍翁」。欠員補充で和敬会「十六羅漢」に加わった。
朝吹英二:豊前の人、尊王攘夷であったが後に転向して福沢諭吉やその甥中上川彦次郎に引き立てられる。三井財閥に入り王子製紙の会長はじめ三井系各社の重職を歴任した。益田孝と三井財閥の実権を競ったが敗れた。丁度その時期の二人が共に賛助会員で並んでいるのが面白い。
松本幹一:大阪の国文学者、漢学者。大阪朝日新聞に入社し印刷課取締になった。宮内省が全国の宝物を調査するのに合わせ、社命を受けて委員に随行し、奈良・高野山の宝蔵の開帳に立ち会った。美術雑誌「國華」の刊行に尽力。古器物・美術品の鑑定に優れていた。
喜谷市郎右衛門:婦人薬の老舗実母散本舗の九代店主。東京中橋で家業を継ぎ、売薬商組合初代頭取となる。東京馬車鉄道、富士製紙の設立に参与、帝国ホテル、東京建物、第三銀行の重役もつとめた。
吉田丹左衛門:質屋。古美術・古筆の蒐集家。茶人。高野切・継色紙・枡色紙・堺色紙・本阿弥切・小島切・針切・栂尾切・端白切・尼子切などを集めた。没後大正十三年に吉田楓軒蔵品入札が催された。
竹内久一〈久遠〉:浅草田町の提灯屋田蝶の十代目善次郎の息子、彫刻家、帝室技芸員、東京美術学校教授。竹馬会会員。
中沢彦吉:、実業家・衆議院議員
大住清白(喜右衛門):風月堂本舗
三枝與三郎:銀座「サエグサ」の創業者
雨宮敬次郎:甲州商人で投資家、鉄道王。「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。根津嘉一郎の先輩。
前田健次郎:東京絵入新聞・好古叢誌編輯(発行は青山清吉)。雑誌「東洋美術」編集人。東京彫工会設立の協力者として高村光雲の「幕末維新懐古談」にその名を見る。古社寺保存会の委員でもあり、大阪博物場の美術工芸収蔵の鑑定人も勤めた。
千坂高雅:米沢藩家老・貴族院議員
三田葆光:漢学者・歌人・権少内史。石州流鎮信派の茶人。和敬会「十六羅漢」の一人。
村岡良弼:法制官僚,地誌学者。六国史の校訂と逸文を収集した。和歌・雅楽に堪能。
谷森眞男:貴族院議員・少書記官、第三代香川県知事。古文書の蒐集、平安遺文未収文書所蔵者にその名を見る。
多田親愛:歌人・書家。はじめ芝神明宮の祢宜、のち神祇官になり、明治七年博物局(現在の東京国立博物館)史伝課属に勤務。
福田循誘:古銭の専門家で深川本誓寺住職。
天城勲彦:田方郡の人、小笠原島の開拓、那須野の開拓等を行った人。「嶽陽名士傳」にその名を見る。
田中幸三郎:名古屋の経営者。森村組取締役。東洋陶器、森村商事などの役員も兼ねた。

通常会員

通常会員百三十一名、総会員は百七十五名であった。通常会員の主なものは;
根岸伴七(武香):政治家、郷土史家。剣道を千葉周作、和漢学を寺門静軒、安藤野雁に学んだ。考古学や歴史学にも造詣が深く坪井正五郎らと親交があり、吉見百穴の発掘に参加し保存に努めると共に、これを世間に紹介した。
巌谷季雄(小波)
:児童文学者、馬の蒐集。父の一六(いちろく)は明治政府の高級官僚でのち貴族院議員。小波はのちに日比翁助に協力し三越児童博覧会開催に尽力した。
武内桂舟:紀州藩士の家に生る。日本画を学び後に挿絵画家。明治二十年頃、尾崎紅葉、山田美妙、巌谷小波らの文学結社「硯友社」に参加し挿絵を描いた。日本の「絵本作家」の元祖的存在。
林若吉(若樹):旧幕医林洞海の孫、祖母は松本良順の姉、父は軍医総監だった林研海。竹馬会会員。根岸武香の後の実質的な集古会の代表。
清水晴風:神田旅籠町の生まれ、代々諸大名の御用を勤めた運送業清水仁兵衛。玩具の蒐集家、竹馬会会員。「うなゐの友」刊行。
萬場米吉:竹馬会会員。浅草仲見世「武蔵屋」主人。「郷土秘玩」の中で竹馬会の思い出などを語っている。玩具蒐集の草分けで清水晴風をその道に引きこんだ人物。
川喜多嘉兵衛:好美百態の裁縫の部の担当者
岡田村雄(紫男):神田表神保町に生まる、父の代から蔵泉(銭)業、古銭の収集(古泉家)。東京美術学校図案科中退。能狂言でも玄人の域に達していた。狂言、能楽に関するものの蒐集。高浜虚子「杏の落ちる音」のモデル。
濱田平兵衛:観世流能楽師初世梅若実(五十二世梅若六郎の隠居名)の門人。
青地幾次郎:藏前札差十二人衆の一人。茶人。和敬会「十六羅漢」の一人。
岩見鑑三:石見鑑造と同一人であれば狂歌師、茶人、和敬会「十六羅漢」の一人
金沢三右衛門:発酵社設立し桜田麦酒発売、後の東京麦酒(株)。和敬会「十六羅漢」の一人古書目録
平子尚(鐸嶺):美術史家、法隆寺非再建論者。内務省古社寺保存委員にも就任して日本美術の調査・研究。
横尾勇之助:古書肆文行堂主人
青山清吉:享保年間創業の小石川伝通院前の古書肆・出版元。代々の雁金屋清吉。雁金屋は山東京伝の骨董集の版元でもあった。東都書林青山堂主人。平々山人。明治二十三年に青山清吉が出した「青山堂現収書目」と、それに刺激され同じ集古会会員の大阪の松雲堂鹿田静七が出した「書籍月報」は近代の古書目録の嚆矢となるものと言われている。好古叢誌は賛助会員前田健次郎が編輯し、青山清吉が発行した。
堀野與七:日本橋東中通りの書肆文禄堂の主人、本来の家業は「榑正町の紅屋」と言われた老舗であった。文筆を嗜み、京の藁兵衛の筆名で「一分線香」という笑話研究の雑誌を主宰していたが、ついに紅屋を廃して文禄堂の名で出版に専念した。巌谷小波の「少年世界」の寄稿者でもあった。
磯部武者五郎(蒼崕):漢学者、斎藤茂吉の「三筋町界隈」に日本外史を習った先生として出て来る。
須藤求馬:歴史学者、弥生式土器の名称をめぐって論争した一人。論争は蒔田鎗次郎・大野雲外・八木奘三郎・須藤求馬の四氏でなされた。各氏が提唱した名称は、蒔田の「弥生式土器」、大野の「埴瓮土器」、八木の「馬来式土器」、須藤の「有紋素焼土器」であった。これら四人は全て「集古会」会員。
大野延太郎(雲外):東大人類学教室、考古学者
蒔田鎗次郎:考古学者、「弥生式土器」の命名者。
中澤澄男:東大人類学教室、考古学者
下村三四吉:考古学者。明治二十八年三宅米吉とともに我が国最初の考古学会を創設。東京女子高等師範教授。
佐藤傳蔵:地質学者。高等師範教授。珪藻土の研究、温泉調査などで知られる。山崎直方と「大日本地誌」を編集した。地質学会、地学会の会長をつとめた。明治二十六年に発行された地質学雑誌第一巻第一号の発行趣意書および地質学会の目的は佐藤が執筆した。考古発掘品の地層による地質学的年代判別なども行った。
和田千吉:考古学者。日本遺蹟遺物図譜などの著作がある。
柴田常恵:東大人類学教室、考古学者
関保之助:江戸出身。東京美術学校で学ぶ。有職故実の資料,古武器の収集・研究家。東京帝室博物館学芸委員。筆名は波爾和(はにわ)。号は花郷,加和羅廼舎(かわらのや),箙廼舎(えびらのや)。
白井光太郎:東京帝国大学教授、専門は本草学、植物学。その関連分野の広範にわたる和漢洋古書類の蒐集家。著作「日本博物学年表」。蔵書「白井文庫」は、伊藤圭介の「伊藤文庫」とともに国立国会図書館本草関係コレクションの中核となっている。 南方熊楠が「神社合祀に関する意見」を送った相手。
山中笑(共古): 江戸の四谷西念寺の生まれ、代々徳川家の御家人、江戸城内の和宮広敷添番として登用されたことがある、明治十五年静岡で牧師になる。骨董・古銭の蒐集家、考古学や民族学的な研究。この時はまだ牛込区袋町にいた。
亀田一恕:古銭研究家、『新撰寛永泉譜 後編』の著者の一人。俳人、老鶯巣蓼太(三世雪中庵)の系統。雪中庵雀志の弟子。六世老鶯巣。
遅塚麗水:郵便報知新聞社、都新聞社の記者、小説家。幸田露伴とは幼馴染。下谷根岸に所を構えた文人達、名文家饗庭篁村、俳諧と劇通・幸堂得知、翻訳家・森田思軒、日本画家・高橋應眞、日本画家・川崎千虎、小説家・須藤南翠、高橋太華、岡倉天心、中井錦城、宮崎三昧、幸田露伴、陸羯南とともに「根岸党」あるいは「根岸派」と呼ばれた。
結城素明:日本画家、後に平福百穂、鏑木清方、吉川霊華、松岡映丘らと金鈴社を結成。
平福百穂:日本画家
小堀鞆音:日本画家
津端道彦:歴史人物画を得意とした日本画家
英一蜻:日本画家、英一蝶の六世の孫、懐深斎
斎藤南陵:日本画家、浮世絵画家、四世鳥居清忠のこと。芝居看板・番付の揮毫を業とした。
広田華州:画家。蛙嫌いで有名。
久保佐四郎:人形作家、有坂与太郎「日本雛祭考」に雛製作者として名前が載る。
柏木祐三郎:江戸幕府出入りの棟梁であった柏木家十代目
片野邑平:古書籍・古画の蒐集家
三上母子太郎:古銭収集、「安政以後江戸諸銭座の見聞」を「大日本貨幣研究会雑誌」第三号(明治三十三年)に執筆。
林静男:古銭収集の第一人者。古銭番付を作れば横綱と言われた。
原田寅之助:大阪の古銭蒐集家。
水野桂雄:大阪の油商、方円堂と称す。古銭の愛好家。
黒川眞道:国学者黒川眞頼の三男、「江戸風俗図絵」編者。「好古類纂」の執筆陣の一人。
和田英松:歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。従三位勲二等。「古事類苑」嘱託編修員
丸山正彦:国学者。。皇典講究所講師などをへて、陸軍中央幼年学校の教官
江藤正澄:旧秋月藩士の国学者号は観古堂・随神屋・瓦礫主人。宮永保親に国学和歌を、坂田九郎右衛門に有職故実を学んだ。大宰府神社大宮司等を務めた神道家。小笠原流の指南。古書・骨董屋を開業。考古学の普及にも努めた。蔵書一万五千冊と言われる。蒐集品の大部分は伊勢の神宮徴古館に寄贈された。明治四十四年七十七歳で病没。自筆稿本は遺族により九州大学付属図書館に寄贈された。
木崎六之助:珍物茶屋の釈迦六。仮名垣魯文の門下、弥陀垣阿文といった。因みに清水晴風も同門で清垣平文。「明治世相百話」に出てくる。
五姓田芳柳:歌川国芳の弟子、後洋画を学び、横浜に移って外国人の肖像画を描いて評判を得た。
永井素岳:書家。歌舞伎や三味線音楽を愛好した通人。新橋,柳橋など花柳界の顧問や音楽学校邦楽調査委員も務めた。
三村清三郎:硬軟古版籍、旅行中とて住所は記載されていない。明治9年東京の生まれ。京橋八丁堀で竹屋業を営む。ゆえに竹清と号した。後に「新耽奇会」を作り、珍しいものを持ち寄って集い、その図録「新耽奇漫録」をまとめた。
石井泰次郎:日本料理四条流家元、料理資料・文献を蒐集した。「石泰文庫」
米津松造:風月堂総本店の番頭で、明治六年暖簾分けされて独立、米津風月堂を開業、現在の両国風月堂。本舗の大住清白とともに集古会会員。
奥村繁次郎:下谷御徒町名代の芋屋、通称芋繁。古書通。のち古本屋開業。食物の研究家。著書「食類辞典」「諸国漬物法」「於台処料理 経済美味」。
五十嵐雅言:有職古実の研究、「好古類纂」の執筆陣の一人。
村田直景:田安家の臣で有職家。温古叢書の編者。
角田眞平(竹冷):立憲改進党の結成にくわわり、東京府会議員,東京市参事会員をへて衆議院議員。俳句結社秋声会を主宰。古俳書の蒐集家。
藤澤碩一郎:根岸の煮山椒このみ庵主
生田福太郎:大阪天王寺の俳人、松浦武四郎「木片勧進」の部材供給者の一人
早川儀之助:千葉市井原の人、野呂道庵の弟子、明善塾塾頭。のち県会議員。
西川国臣;広島県三原の漢学者、教育家。諱は譲、春峰又は守拙堂と号した。考古学にも造詣深く郷土史家、古銭古瓦出土品などの蒐集家。
柏原学而:本名・孝章。幕末明治期の蘭方医、啓蒙家、洋学者。将軍徳川慶喜の侍医。緒方洪庵の適塾に学び,一時塾頭も務めた。
玉井久次郎:奈良有数の古美術商大閑堂。著書「奈良古物と益田翁」
高木敏雄:熊本県生まれ。第五高等学校、東京高等師範学校教授を歴任。専門は独逸語。正六位。わが国の神話・昔話・伝説研究の先覚者。柳田国男とともに雑誌「郷土研究」を刊行。「日本伝説集」は平成二十二年ちくま学芸文庫で再刊された
永田好三郎(有翠):大阪の趣味人。川崎巨泉の玩具仲間。妻は蘆田止水の姉。止水は土俗玩具収集家。
鹿田静七:大阪の古書肆・鹿田松雲堂、店主は代々静七。関西初と言われる松雲堂の販売目録「書籍月報」は東京の青山清吉の「青山堂現収書目」に刺激され同じ明治二十三年に発行された。
植田紋次郎:埼玉羽生の書画骨董商。
滝沢又市:早稲田専門学校から東京帝国大学文科を卒業。府立一中教諭、横浜二中の初代校長。「今古名家画譜」「中等西洋歴史」などの著作がある。
大橋義三:古墓の研究、著書「高名聞人東京古跡志 一名・古墓廼露」
八木奘三郎は設立時は主要会員だったはずだが、この年の名簿には載っていない、ただし明治三十九年の名簿で復帰している。明治三十九年名簿では、西沢仙湖(本名米次郎で掲載)、和田万吉、安田靫彦、水落露石や柳田国男も加わる。会員の出入りはかなりあったであろう。内田魯庵、南方熊楠、川喜多半泥子などは大正九年復興「集古会」から執筆に加わっている。

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