柳田國男「こども風土記」


kodomofudoki「こども風土記」は朝日新聞に連載され、昭和十七年に朝日新聞社より単行本として出版された。「こどもとそのおかあさんたちとに、ともどもに読めるものをという、朝日の企てに動かされた」と単行本の小序に記している。それだけに平易で読みやすい小文で構成されている。全部で四十節に分かれた小文からなる。挿画は初山滋である。ベロベロの神に触れているのは「鉤占いの話」と「ベロベロの神」であり、「ベロベロの神」の節では「人形が今のように写実になったのは、わが国でもそう古いことではない。東北で盲の巫女が舞わせているオシラサマという木の神は、ある土地では布でおおうた単なる棒であり、また他の土地では、その木の頭に目鼻口だけ描いてある。そうしてこれをカギボトケという名などもまだ時々は記憶せられている。信心な人たちの強いまぼろしでは単なる鉤のある小枝でも、なおありがたい神の姿に見ることができたので、それを祭りする人の口の前に持ってくることが大切な条件ではなかったかと思う。東京でオシャブリ、関西でネブリコなどという木の人形も、これを轆轤でひいて今のコケシボコにするまでの、もとの形というものがあって、それが後には幼い者の手によって管理せられることになったのではあるまいか。」と書いてこけしの発生についても触れている。

柳田國男のこの小文が、どの程度までを意識して述べられているかは分からないが、すこしはっきりと言い換えてみればこんなことになるだろう。「神としての木の棒があって、あるいは神が憑依するものとしての木の棒があって、その告げるものを聞くと言う原初的なもとの形があり、時にはそれが巫女による代弁という姿をとり、巫女が口の前で舞わせながら代弁する姿が童戯となって、ベロベロなめるベロベロの神を経てオシャブリになり、やがて人形のこけしとなる」

berobero初山滋は「ベロベロの神」の挿画にオシャブリ、キナキナ坊、そしてこけしを描き、それがもとの形からの発展過程であるかのように並べている。

キナキナ坊の発生についてはこの柳田説は十分説得力がある。しかし、キナキナ坊からすべてのこけしが生まれたのだろうか、その過程は明確に議論されてはいない。本当にそうであったなら更にいくつかのミッシングリングを発掘しなければならないだろう。
私はむしろ、神が憑依するものとしての木の棒とそれを舞わせる所作から、ベロベロと言う段階を経ずして人形化した発展過程があったと見る方が自然だと思う。同じ「こども風土記」のなかの「祝い棒の力」「ゆの木の祝言」などの節で触れられる「神の力を持った棒」にまつわる多くの童戯は、そこから湯治において再生した神の力を憑依させて村々に持ち帰るこけしの姿にもう一歩のところまで来ていると思う。木の棒が持つ共通のイメージ喚起力は確かにあった。こけしはいずれにしてもその範疇にあると言わざるをえないのである。
いずれにしても柳田國男が棒にまつわる童戯のなかに、様々に発展する始原的な「もとの形」を的確に見ていることは特記すべきであり、その感性は「故郷七十年」などの中で幼時の体験として書いている見えないものを見る彼の感性と同根と言えるであろう。

そして、その感性は柳田國男の大部分の追随者が持ち得なかったもので、それが後年の民俗学の限界となるのである。

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