「お茂ち屋集 全」の十六頁に最古のこけし写真が掲載されていると宝塚の中津政雄氏が「こけし手帖 第二六六号」に紹介したのは昭和五十八年の事だった。写真の解説には「古代玩具 東京清水晴風君出品」とあって、八幡駒や木下駒、雉車などの郷土玩具に混じって、三本のこけしが写っている。中津氏の調査によると、この「お茂ち屋集 全」は明治三十九年十一月一日から二十五日まで京都市岡崎町博覧会館で開催された「こども博覧会」の記念号として明治四十年三月に発行された京都市教育会会報を元本として写真のみを抄録した出版物らしい。もちろん教育会会報にも同じ写真が載っている。おそらく博覧会会場の展示風景であろうから、写真は明治三十九年十一月撮影のものである。
このこけし写真の中央にある鳴子系こけしを深澤コレクションに現存する大沼甚四郎作と同定したのは仙台の高橋五郎氏で、平成二年六月に書肆ひやねから出版した「大沼甚四郎の追求」のなかで詳細な論証を加えて発表した。下に掲げる写真は現在鳴子の「日本こけし館」が所蔵する深澤コレクションのこの大沼甚四郎作である。
さて、「お茂ち屋集」写真の鳴子系こけしは首に括られた札に「奥州一ノ関産こけし這子」と書かれているが、深澤コレクションのほうにも胴部背面に同様に「奥州一ノ関産こけし這子」の墨書があり、さらにその胴底には「故・林若樹氏旧蔵 昭和十四年二月五日吾八主人ヨリ贈ラル」という書き込みがあった。胴底の方は深澤要の記入と思われる。高橋五郎氏の調査によれば、「集古会誌」(明治三十六年三月発行)記載の「第四十一回課題 内外遊戯品」の持ち寄り品に林若樹の「奥州一ノ関 こけし古製こけしおぼこ一個」があり、これもこのこけしであろうと推定している。とすればこのこけしは明治三十五年以前の作ということになり、徴兵検査前の若い頃の甚四郎(明治十五年生まれ)の作品ということになる。ただ、林若樹の蒐集は清水晴風と同時代であり、別の一ノ関産例えば「うなゐの友」と同様の宮本惣七などを持っていて、それを持ち寄り品に出した可能性もある。
深沢コレクションの古鳴子を甚四郎作と確信したのは、こけし辞典のためのこけし写真撮影の折であった。深沢コレクションの撮影をしながら、このこけしと後年の甚四郎復活作を並べて、同一作者に違いないと感じた。この二本のこけしは両鬢が内側になるほど短いという共通する特徴があったからだ。岩蔵にも永吉にもこの特徴は無い。私はこのこけしを甚四郎として佐藤実に復元してもらった。辞典のカラー版に載せたものがその復元作である。帰郷後、鹿間さんにこの発見を伝え、辞典の校正段階で甚四郎の項目に「鳴子の深沢コレクションにたぶん鳴子時代の甚四郎と思われる物がある。林若樹氏旧蔵品。一ノ関産の背文字がある。かぶら型の大頭で肩低平、一筆目二筆鼻、三筆鬢で、正面菊二箇を大きく描く。この型を昭和四十五年春佐藤実が復元した。」を挿入してもらった。
ところで集古会で林若樹で出品され、京都の博覧会では清水晴風で出品されたいきさつは何故か、これは不明であるが、明治中期の東京の趣味人たちの消息は興味深いのですこし触れておこう。
清水晴風、林若樹が活躍した集古会は明治二十九年一月上野韻松亭の集まりからスタートし、以来昭和十九年まで続いた趣味人同好の会である。その機関誌は当初「集古会誌」のちに「集古」として全百八十九冊発行された。名誉会員として旧徳島藩主の蜂巣賀茂韶侯爵、言海の著者大槻文彦、人類学者坪井正五郎など、賛助会員に国学者井上頼圀、三井の益田孝、歌人佐々木信綱等がいた。会員数は出入りはあるが平均して百五十名程度。少年文学の巖谷小波、東大総長の和田万吉、日本画家の安田靭彦、結城素明、平福百穂、民俗学の柳田国男、評論家の内田魯庵などもいて多士済々であった。
林若樹(1875〜1938)は発起人の一人、本名若吉、明治二十九年の上野韻松亭には二十一歳で出席した。江戸幕臣の家系で将軍侍医林洞海が祖父、第二代軍医総監林研海が父である。旧制一高に学んだが、身体が弱く、中退して東京帝国大学人類学坪井正五郎教授の研究室に出入りした。集古会は、坪井教授が人類学では堅すぎるから少しくだけた集まりをということで発会したものらしい。林若樹自身は、古書通の蒐集家、さらに狂言にも熱心で大蔵流の山本東次郎について稽古したり、「江戸の素人狂言」「狂言に見えたる玩具」などの論考もあるという。
一方、清水晴風(1851〜1913)は幼名半七、家業の車宿の跡を継いで十代目清水仁兵衛を名乗った。商売柄力自慢で若い頃は「力持ち番付」の幕内にランクされたりしたが、二十歳すぎてから急に風雅の道に志し、風雅堂晴風と号するようになった。明治十二年に同好の士を集めて「竹馬会」を結成し、明治十三年二月向島の言問ヶ岡茶席の集まりでは、出席者が皆子供の扮装をして玩具を持ち寄ったといわれる。会員は画家淡島椿岳、寒月父子、美大教授の彫刻家竹内久一、さらに学生時代の坪井正五郎などもいた。晴風は、これを機に本格的に玩具蒐集に取り組み、明治二十四年には木版の郷土玩具集「うなゐの友」を刊行した。
さて、集古会は東京帝国大学の坪井と林を中心に始まったが、「市井の好事家も加えた方が面白いだろう」という坪井の発案で晴風に声をかけたところ、その仲間がこぞって集古会に加わり、考古学を中心とした石器や土器の学問的な蒐集から、ぐっと趣味的なものへ対象が広がっていった。例会の度に「課題」を設けるというやり方もおそらく江戸風流人達の伝統の趣向を晴風が取り入れたもののようで、第二十六回(明治三十三年三月)の課題は「人形扁額」(このとき晴風は一ノ関産コケシボウコ陸中一躯を出品)、第四十一回(明治三十六年一月)が前述の「内外遊戯品」(林若樹が奥州一ノ関 こけし古製こけしおぼこ一個を出品)、第四十七回は「人形類」(晴風が磐城国双葉郡浪江町コケシヲホコを、山中笑が奥州一ノ関こけし人形を出品)といった具合に課題にあった蒐集品を会員が例会に持ち寄ったのであった。
ということで清水晴風と林若樹との接点は集古会であり、林は玩具の面白さを晴風を通じて知ることになった。明治三十六年に林名義で集古会に出品された一ノ関こけし人形が甚四郎作とすれば、このこけしは林若樹の所蔵品で、明治三十九年の京都への出品は晴風が集古会を代表して行ったものと考えるべきかも知れない。また晴風が大正二年二月「今の世の玩具博士の晴風も死ねば子供に帰る故郷」という辞世を残し、その年の七月十六日に没したあと、西沢仙湖、林若樹、山中共古、三村清三郎、竹内久一らが集まって、晴風の知友らに遺物を適当に分配したという。幾本かのこけしはおそらく林若樹のもとへ移ったであろう。その林も昭和十三年七月六十四歳で亡くなった。林のこけしが吾八へ出たのは昭和十四年(一説には昭和十七年)のことであった。
晴風が集古会第四十七回に持ち寄った磐城国双葉郡浪江町コケシヲホコも、やはり林若樹、吾八を経て西田峯吉の手に渡り、現在は「原郷のこけし群 西田記念館」に収蔵されている。
最後に、「お茂ち屋集 全」に載った三本のこけしのうち残りの二本はやはり現存しており、仙台の高橋五郎氏の「高橋胞吉−人とこけし−」(昭和六一年 仙台郷土玩具の会刊)に写真で紹介された。鳴子甚四郎の右に立っているこけしは一ノ関の宮本一家(おそらく惣七)の作で清水晴風が明治二十四年に刊行した「うなゐの友・第一編」のモデルとなったこけしであった。
以上集古会については山口昌男のNHK人間大学平成九年十二月二日放送「逸民たちのアカデミー 集古の人々」に負うところが多い。