木人子閑話(14)


倉治描く、花は桜か、紅花か?

倉治は桜と言った?

「こけしの追求」で深澤要は山形小林一家の作者達にあって丹念な聞き書きを行っているが、興味深いのは各々の作者が自分たちの描く胴模様が何の花かという質問に、違った答えをしている点である
倉吉は明治四年生まれで倉治の長男であるが、彼は倉治が「胴の櫻模様は一筆にて手早く描く物なり」と常に教えていたと言っており、桜のつもりで描いていたようである。
倉治五男の吉三郎は明治二十年生まれ、彼は「胴の模様は梅の花だ。あの葉ッパを見ても梅だ、確かに梅と聞いている。親爺は花描きがうまかった、あの真似は自分らには出来ない。」という。その言の通り吉三郎は梅らしく描いている
各工人の言う胴模様をまとめると次のようになる。
 倉吉(倉治長男:明治四年生まれ)  
 清蔵(倉吉長男:明治二十八年生まれ) 
 栄蔵(倉吉五男:明治四十年生まれ) 
 吉兵衛(倉治三男:明治九年生まれ)
 吉太郎(倉治四男:明治十二年生まれ)わからない
 吉三郎(倉治五男:明治二十年生まれ) 
やや詳しく小林一家の胴模様について記述した文献としては土橋慶三「小林吉太郎」(こけし手帖・三十三号)と柴田長吉郎・箕輪新一共著の「山形のこけし」がある。花模様の部分を抜き出すと次の通りである。
「ばんちゃん(清蔵祖母順)がいきているとき、私に教えてくれたのでは、ぢんちゃん(清蔵祖父倉治)の胴模様は四弁の梅だ。この型は或る絵かきに習ったものだ、と自分で描いてみせてくれたのだ。私もその通りいまでもやっている。おやじ(倉吉)は桜だ、桜だといっていたが、私は、別におやじにさからおうともしなかった。とにかくばんちゃんに、私は、はっきり習ったのだから。」(清蔵談:土橋聞書)
花は梅といわれ、上の大きな花は「花の冠」、下の茎で「$状」「ム状」等の描法は「ねじめ」といい、茎の所にある小さな線は「千草」といった。千草を描いたのは倉治で,吉三郎は倉治よりこれを受けついで,必ず自分のこけしには入れた。倉吉も千草を描くが、他の兄弟はこの千草を絶対に描かないとのことである。(柴田・箕輪)
おそらく「山形のこけし」の記事は吉三郎の聞き書きに従っていると思われるが、吉三郎も清蔵も胴の花をかなり自信を持って梅と断定している。

はたして梅か?

典型的な山形小林のこけしを見ながら、これがはたして本当に梅か考えてみよう。この二本は都築祐介さん所蔵の小林一家、右が吉太郎、左が清蔵。ともに保存のいい佳品、特に清蔵は姿、表情に張りがある。
確かに花弁の形は梅にも似る。清蔵は梅のつもり、吉太郎はなんの花かわからないで描いていたが、梅と言われれば双方ともに丸い梅の花弁に見える。 しかし梅は花樹であるから、木の枝がないのは何故だろう。緑の葉は草のように見える。木の枝ではないだろう。地面の草の上に落下した梅を描くなんて事はない。これは確かに咲いている花の筈だ。てっぺんに花の冠と称するものを描いているが、やや大型の花が頂きに咲くという発想は梅などの花樹では考えにくい。むしろ花の冠は草本の花卉に相応しい。
また不思議なのは花模様下端にある井桁状の文様である。吉三郎は「ねじめ」と言っていたようだが、ねじめは生け花で挿した花がばらけないように根本に草を詰めたり括ったりすること、あるいは木を植え替えた時に根本の弱い部分を固めるために草などを植えることを言う。下端の模様は茎を束ねて何かで括ったようにも見える。それならこの花は茎を括ってある切り花なのだろうか。切り花模様をこけしに描くというのはあまり聞いたことがない。
しかし、この「ねじめ」説に対してはまた別の考え方もある。倉治の古い弟子に奥山安治・鈴木米太郎がいた。安治は明治十五年、米太郎は明治十七年に倉治に入門しているから、二人は倉吉と同じ頃に倉治のもとで修行している。安治は明治十八年に、米太郎は二十五年に独立し、谷地、寒河江で開業している。その後他の産地、作者との交流も少なかったから、この二人は古い山形の作風を残していると考えられる。安治の息子広三、米太郎の息子安太郎のこけしを見ると胴模様に面白い共通点がある。それは胴の下端にある井桁と呼ばれたりしている文様であるが、一種の柵のようにも見える。
ここに掲げた図版は,谷地の広三と寒河江の安太郎のこけしである。広三は戦前作を戦後自分で復元したもの、胴の向かって左下端に問題の井桁あるいは柵模様がある。安太郎は天江コレクションの戦前作、酒処「ろばた」の二階に陳列してあった。手前に倒れかかっていたため偶然、胴左下端の柵状文様がよく見える。これは図譜「こけし這子」の世界に掲載されている図版117と同一物であるが、図譜は正面からの撮影でこの柵状文様が見えない。安太郎の場合は横画縦画それぞれ多く、井桁と言うより完全に柵に近い。安太郎自身も生前「あの模様は柵で、親爺の米太郎から伝承された」と吉三郎の二男清次郎に話していたという。この模様は井桁なのか柵なのか、小林一家の「ねじめ」とこの柵は関係あるのか、そして花の模様とどんな脈絡があるのか、長い間謎であった。


古作並の出現

ところがこうした謎を一挙に解決する古いこけしが出現した。このようなこけしが戦後随分時を経てから出現するというのは奇跡に近い。見つけだした高麗さんの熱意は敬服に値する。
じつは、このこけしは過去に一度紹介されたことがあった。日本最古のこけし写真を載せた文献といわれる京都教育会会報「こども博覧会記念号」石敢堂(その写真部分抜き刷りがおそらく「お茂ち屋集 全」)に載っていたのである。
木人子閑話(5)で「お茂ち屋集 全」とその写真を紹介したが、写真中真ん中に寝かされて写っているのがそのこけしである。

その古い蒐集家の跡をたどって高麗さんが見つけだしたのだった。
このこけしは、柵文様の解明以上に作並こけしの源流に関する議論にとって一級資料でもあり、考察を続ければ興味が尽きないものであるが、ここでは柵の話に焦点を合わせることにしよう。作者はだれか、系統的位置づけはどうなるのかについてはまだ定説はないが、こうした議論は高橋五郎著の「高橋胞吉−人とこけし−」(仙台郷土玩具の会・昭和六十一年)に詳しい。
まず,実物を見ていただこう。この作並不明こけしは平成十一年仙台のカメイ記念展示館図録「こけし百彩」(こけし・伝統と継承展)に掲載され、ようやく原色で鮮明にイメージを把握できるようになった。高麗幸雄さんの了承を得てこのページに掲載させていただく。
この作並不明は明治四十年三月発行の京都教育会会報「こども博覧会記念号」に掲載されたが、その写真は前年明治三十九年十一月の京都市岡崎町博覧会館に展示されたときのもの。従って製作年代は明治中期以前である。山形で言えば倉治、倉吉や安治、米太郎の時代であろう。作並で言えば今野新四郎がこけしを卸していた時代、仙台では胞吉やその父亀吉の時代に当たる。そしてこの胴模様は明治二十年代に技術革新によって考案された新意匠の洗礼を受ける以前の古い形を残している。そうした意味から、山形、作並、仙台の共通の源流の形を残しているものと言って良い。この胴模様の何と写実的なことか、後年の同じ流れの作者達が作る様式化された模様とははっきりと隔たる。
しかし、このこけしにもあの柵があるではないか、胴の下端に描いて明らかにこれは柵である。このこけしの花と柵を見れば、この意匠の意図は明白である。花は菊、そして籬(まがき)が描かれる。これは日本の古来の最も伝統的な図案意匠の「菊籬」に相違ないのである。
菊籬は漆器にも装束にも焼き物にも共通する重要な図案テーマの一つである。参考に菊籬図案集のページを作ったので参照していただきたい。この図案の出典は勿論、陶淵明の詩である。
「飲酒」 第五首 悠然望南山
結廬在人境 而無車馬喧
問君何能爾 心遠地自偏
采菊東籬下 悠然見南山
山気日夕佳 飛鳥相与還
此中有真意 欲辨已忘言

 

「菊を東籬の下に採り、悠然と南山を見る」というのは陶淵明の最も有名な一節であり、この超俗的な気分と共に菊籬の図案も好まれたのである。この嗜好は広く庶民にまで及んでいたようで、ここに掲げる益子のように地方の雑器などにまで良く使われていた。こけし発生期の作者達が、その胴模様の原型を陶器や漆器に求めたとすれば最初に取り入れるであろう意匠の一つだったのである。
広三、安太郎が柵=籬(まがき)を描いていることからみて、安治、米太郎が籬を描いたことは間違いない。安太郎の記憶は正しいのである。そしてこのことから倉治も必ず籬を描いていたのである。しかし、彼がこの意匠を菊籬と自覚して作っていたかどうかは分からない。いずれにしても、菊籬は代々伝えられるに従って、その意味を忘れられ、変形を繰り返して梅のようにも桜のようにも、あるいは紅花といわれるようにもなって行ったのである。籬も次第にわけのわからない飾りに変わって、ついには花弁群の下端の「ねじめ」と思われるまでになったのだ
時間的推移は明治中期から昭和の初めまでの数十年でしかないけれども、意味が忘れられて様式化した模様は今あらためてイコノロジー的な考証が出来るくらいに急速に変化したのであった。


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