木人子閑話(24)


蒐集家という人々

集古会誌

 

平成十三年に晶文社から刊行された山口昌男著の「内田魯庵山脈」が昨年末(平成二十二年十一、十二月)に岩波現代文庫〈上下二分冊〉として再刊されたので、読み返してみると、またいろいろなことに気づかされる。

 特に集古会とそれを巡る人物像はすこぶる面白い。集古会の人達の、ものを集める動機というものを、「内田魯庵山脈」を読みながら考え、また調べてみるといくつかの興味ある視点が現われてくるような気がする。
集古会については閑話(5)で、かなり詳しく触れているのでやや繰り返しになるが、その活動の概略は次のとおりである。

集古会は、東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎主導により、明治二十九年一月上野韻松亭の集まりからスタートし、以来昭和十九年まで続いた趣味人同好の会である。実際の会の運営は、坪井の遠縁に当たり研究室に出入りしていた林若吉(若樹)が行った。発会当時の中心メンバーには坪井、林のほかに、根岸武香、山中共古(笑)、大野延太郎、清水晴風、岡田村雄(紫雄)、八木奘三郎、佐藤傳蔵、田中正太郎などがいた。
課題を決めて、会員がいろいろな珍品稀品を持ち寄って出品した。対象は、考古遺物、古道具、古銭、玩具、古典籍、芝居物など多岐にわたった。

会誌は、明治二十九年十一月に「集古会誌」第一輯が出て、この名前で第三輯まで続き、第四輯から第十輯までが「集古会記事」、明治三十六年三月から再び「集古会誌」に戻った。
写真は早稲田大学図書館蔵の「集古会誌」で、表紙を「複写・マイクロ資料室」で複写してもらった。
表紙写真右が明治三十六年三月の「集古会誌」に名前が戻った号で、これに第四十一回出品目録(明治三十六年一月十日開催)の「内外遊戯品之部」」があり、林若吉出品として「奥州一ノ関 こけし古製こけしおぼこ一個」の記載がある。写真左は明治三十七年甲辰巻之三で、これに第四十七回出品目録(明治三十七年三月十二日福田屋開会)の「課題 人形類」があり、清水晴風の磐城国双葉郡浪江町コケシヲボコと、山中笑の奥州一ノ関こけし人形の出品の記載がある。
会誌はのちに「集古」と名前を変えたが、昭和十九年七月十日発行の通巻百八十九号まで続いた。

江戸時代の「人形会」

集古会誌の内容は、毎回何人かが蒐集にまつわる話や報告を書き、後段に「記事」として集古会の集まりへの出品目録がつく。出品は毎回課題があって、その課題に沿ったものが持ち寄られる。第四十一回と第四十七回にこけしが出たのは、それぞれ課題が「内外遊戯品」、「人形類」であったからだ。
明治四十二年六月の「集古会誌」己酉巻五には林若樹が「難波の人形会」という非常に興味深い一文を寄せている。人形会のことを記録した「物産会扣帳・全一八冊」を京都の小山天香園の庫中に見つけて、そこに記録されている「人形会」の全容について紹介している。古書と人形という自分の興味の両方に重なることが執筆の動機だろう。因みに小山(源治)天香園は京都の素封家で、京都博物会会員、薔薇栽培専門家、蔵書家、その蔵書は現在、京都大学および天理図書館に収められている。
この人形会は天保から嘉永にかけて九回ほど難波で開かれている。催主は岩永文驕i鐘奇齏)。会の仲間には、古林正見、内藤唯一、山本亡羊などがいた。
山本亡羊は岩永文驍フ師に当たる人。山本亡羊は医学者であり本草学者、家塾を読書室と言い、毎年のように読書室物産会を開催。また読書室には千点を超える和漢洋の典籍があったという。この物産会は亡羊没後も子の榕室、弦堂に継がれ、文化五(一八〇八)年から文久三(一八六三)年にかけて計四十八回開かれたという。
岩永文驍ヘ大坂道修町丼池で開業していた医師、本草学を山本亡羊について学んだ。茶人・通人としても知られる。岩永文驍ヘおそらく亡羊の物産会に影響を受けて、難波で物産会を開いたのであろう。人形会はその余業という。
第一回の天保八年八月およびその次の九年四月は岩永邸で開催、その後同十年四月〈會主・貞円庵)、十一年四月(内藤唯一方)、十二年五月(円通院にて、會主・古林正見)、十三年四月(岩永宅)、十四年九月(會主・岩永方)、弘化三年五月(於玄昌堂)、同四年六月(於玄昌堂)、嘉永六年五月〈岩永宅〉、元治元年五月〈岩永宅〉と九回開かれている。玄昌堂は岩永文驍フ堂号。会自体は同盟社中の人々がいろいろな人形を持ち寄って並べ、その後飲食して歓談するものだったらしい。
出品は古代雛や這子、奈良人形、土佐人形、嵯峨人形、木彫人形など多数、中には古木偶とjか木偶古人形(内藤唯一出品)などの記録があるが、どのようなものか分からない。海外からの舶来人形もある。こけしと推察できるようなものは見当たらなかった。
人形会は古林正見が會主で開かれたこともある。古林正見はおそらく懐徳堂と関係のある人であろう。
懐徳堂は享保年間に船場の豪商たち(三星屋武右衛門・富永芳春[道明寺屋吉左右衞門]・舟橋屋四郎右衛門・備前屋吉兵衛・鴻池又四郎)が出資し、三宅石庵を学主に迎えて設立した学問所。まもなく将軍徳川吉宗から公認されて官許学問所となった。
古林正見の名は次の文脈の中に出てくる。「中井桐園が中井碩果の養子となって中井宗家を継ぐことが決められたときには、竹島簣山および広屋得左衛門・岩崎十太夫の三名が、早野思斎・清水弥三郎・古林正見・瀧中書の四名と証文を取り交わし、履軒亡き後の水哉館の蔵書目録『天楽楼書籍遺蔵目録』の校正を行った」。また中井履軒の「履軒追念器記」にも、古林正見の名が見える。
中井履軒は兄竹山とともに懐徳堂派の全盛期を支えた儒学者。履軒は、兄竹山が懐徳堂学主として活躍を始めたので、懐徳堂から独立して私塾水哉館を営み、精力的かつ緻密に古典研究を行なった。桐園はその履軒の孫であったが竹山の子碩果の養子となったため、水哉館は必然的に懐徳堂に合併される形となった。その辺のいきさつに古林正見は関わったのであろう。竹島簣山、早野思斎は中井履軒の弟子である。
「人形会」の出品リストは天保十三年と嘉永六年のものが掲載されている。会主・岩永文驍ヘ後水尾上皇御好人形として気楽坊、妙法院宮より拝領の享保年間製芥子人形数百品を出品した。
出品者として名前の出る主なものは;
中井修治:懐徳堂中井桐園の本名。中井柚園の子で、中井碩果の養子、中井履軒の孫に当たる。中井碩果の死去に伴い、十八歳で懐徳堂最後の預り人となった。舶来玉細工人形を出品。
鴻池新十郎:鴻池の有力な分家の一つ。大日本麦酒の馬越恭平はこの新十郎家で丁稚奉公をした。焼未詳人形出品。
山中喜右衛門:鴻池の分家、紅毛人形を出品。
山中善五郎:鴻池の五代善右衛門から出た分家、舶来人形葡萄石出品。
雨森良意:京都の医者。元は御所の御殿医。開発した無二膏が評判となり後、その製造が本業となった。古代雛を出品。
和田喜三郎:大阪の版元。文楽の筋書きなどの木版本を刊行した。峯入木目込人形を出品。
杉浦兵左衛門:大坂町奉行与力寺社役。舶来木偶を出品。
播磨屋吉兵衛:大坂の金貸。古作西行法師出品。
播磨屋新兵衛:大坂の版元。象ヲ引婦人姿 土偶出品。
油屋善兵衛:大坂上人町の両替商。飫肥藩の楮栽培、和紙の開発に資金援助を行った。古渡石東方朔を出品。
加嶋屋作兵衛:長田氏。大阪の入替両替、大名貸しの豪商。大川町に店があった。代々作兵衛だがこれは八代政雍(鴻池屋五郎兵衛家から養子入)か。当時は鴻池と並ぶ大坂最上位の富豪とされ、幕府御用金請負でも筆頭であった。からくり人形を出品。
長田作次郎:七代長田作兵衛から分かれた加嶋屋の分家、尼ケ崎町壱丁目。入替両替。人丸像を出品。
長谷川要助:加嶋屋要助のこと。志野焼人形・俳人五人連座姿出品。他に加嶋屋関係としては加嶋屋定七が石州浜田焼布袋を出品。
加賀屋忠兵衛:瓦町の長崎唐物本商人を務めた家。天然鉄人形、伏見焼撫牛を出品。加賀屋松兵衛もおそらく唐物五軒問屋加賀屋の一統であろう、蝦蟇仙人、蝦蟇天然木を出品。
辰巳屋和田久左衛門:南組吉野屋町の富商、入替両替。木彫大居布袋出品。
辰巳屋和田省兵衛:上中嶋町の富商。紅毛製木彫、童子乘象図、乾隆年和合二僊出品。
飾屋六兵衛:大阪薩摩堀中筋町の富商。敦賀から疋田間の舟川開鑿に投資した。人形晴雨計長崎細工出品。
岩井七郎右衛門:素謡京観世五軒家の一つ。霊元上皇御好二組之一出品・。
吉田百輔:大阪両御組与力御役附吟味役。大紙雛壱對出品。
吉田喜四郎:摂津国菟原郡住吉村呉田(現在の兵庫県神戸市の東部)の豪商(酒造業)。「聆涛閣集古帖」の編者として知られる。安永・天明頃から明治初年に至る約百年間三代の当主たちが、多くの古文書・古物を収集した。「聆涛閣帖」には奈良時代から平安鎌倉時代に至る古文書・古写経四十五点が納められていた。嵯峨人形 木地古物出品。
米屋伊兵衛:西宮今津の酒造家。今津港の整備に尽力した。能狂言人形、仁清焼数十一出品。
窪田雪鷹:本名邦、京都釜座夷川北に住んだ南画家。富岡鉄斎の師。東福門院御愛玩木彫(骨董集掲載品)出品。
佐井有吉:京都の医者。佐井有則、号は錦江。有吉は俗称。東福門院御愛玩土偶乙御前、年歴三四百年余ノモノ、同芥子人形出品、次郎右衛門雛一対出品
奥田仁左衛門:京都室町の呉服商・百足屋。のちに大阪伏見町で唐物商百足屋を発展させ、明治になって大阪神戸両所本商人総代の一人になった芝川又右衛門家は、この京都の呉服商奥田仁左衛門家から別れたものである。寿老人 古物木彫置物出品
小西平兵衛:船場の商家、唐物商(舶来物輸入)。その邸宅は今なお大阪古建築として現存。蕃舶土人形出品。
築城用助:大坂の金貸、大坂にあった讃岐の砂糖売捌元会所取締。大和万歳人形出品。
荒井半蔵:淀藩の御執事。阿波の人で、名は公廉、字は廉平、号を鳴門と称し、初め藩儒の那波魯堂に学び、大阪で奥田松斎に学んだ後家塾を開くが、さらに江戸に出て林述斎の門に入り、程朱の学を奉じて淀藩に仕えた儒者。「四書挿字句解」「豹菴随筆」「芳野新詠」「江湖詩鈔」「芸苑名言」などの著作がある。大猷院様御手遊春日局拝領人形出品。
山川正宣:摂津池田の酒造家西大和屋当主。国学者。京郡上賀茂の神官賀茂季鷹に師事した。大和薬師寺仏足石の碑文に関する論攷「仏足石和歌集解」や上代天皇陵に関する「山陵考略」などを著した。土地神木像を出品。
蒹葭堂:江戸中期の本草家木村蒹葭堂、蒐集について「奇ヲ愛スルニ非ズ、専ラ考索ノ用トス」と言った。人形会出品は天保で蒹葭堂の没後であるから、蒹葭堂蔵品という意味だろう。紅毛細工の狼が蒹葭堂の名で出品されている。
因みにこの人形会に参加した富豪・豪商がどの程度のものかを知るために、文化三年の「買米割当て表」が参考になる。「買米」とは、幕府が豪商に命じて米を買い入れさせることで、下落する米価を豪商の資金で買い支え、同時に幕府の財政を確保しようとする御用金政策のひとつであった。
トップは鴻池と加嶋屋広岡久右衛門でともに三万三千石であるが、五位に加嶋屋長田作兵衛二万五千石、六位に辰巳屋和田久左衛門、鴻池山中善五郎ともに二万石と人形会出品者の三名が上位に入っている。大塩平八郎の乱後の復興資金、幕府御用金などの請負に名を連ねている者も出品者の中に多くいる。
江戸末期に人形収集を行ったこうした人達をリードしたのは、本草学者で蔵書家の山本亡羊やその弟子の岩永文驕Aさらに大阪における「知のネットワーク」の中心にあった懐徳堂につながる人たちであり、当時一流の知的水準を持つ人たちだった。そして、その周りに鴻池、加嶋屋、辰巳屋をはじめとする富豪たちがいてその活動を支えていた。
本草学、特に日本でのその発達は薬草の研究に留まらずほとんど博物学であり、貝原益軒の「大和本草」、稲生若水の「庶物類纂」、田村藍水の「人参譜」「琉球物産誌」があり、藍水の門下の平賀源内は鉱物資源探査を行ったり、物産博覧会を度々開催した。宝暦十三年には「物類品隲」の刊行もある。明和年間には大阪の本草家で蔵書家の木村蒹葭堂も物産会を開いている。日本本草学はその性質上、日本各地の知人や情報提供者と連携する独自のネットワークを持っていたらしい。物産会は、そのネットワークを通して提供される諸国物産によって成立していた。
京都山本亡羊や、大阪岩永文驍フ物産会はこうした本草学の活動の本道に連なるものであり、単なる分限者の道楽ではなかったのである。
そしてその対象は、動物、植物、鉱物、金石(本来は、古代の銘文や画像を刻む金属器・石製品を言うが、この時代では発掘品一般をさす言葉になっていた)、服飾、芸能、習俗など広範に及んでいた。人形玩具もその一環だったのである。本草学の新しいスタイルである人類学の坪井正五郎が、竹馬会の玩具仲間に接近したことは決して不思議ではない。
おそらく江戸時代のこうした物産会の活動が地下水脈となって、明治の集古会にまで繋がるのであろう。

集古会の人々

山口昌男は「内田魯庵山脈」の中で、集古会の活動を「野のアカデミー」として明治政府公認の「官のアカデミー」と相対するものとして位置付けている。
集古会の中心メンバーは明治という新時代にどうも居心地の良くない人、旧幕臣の出身や、江戸情緒にむしろ魅かれる人々で構成されているという。
こうした彼らにとって、薩長という田舎者たちが大きな顔をしている明治政府、その支配のもとで力を発揮している「官のアカデミー」というものに強い抵抗感があったであろう。それに相対する活動として「野のアカデミー」として山口昌男は集古会の活動、そして魯庵の人脈をとらえている。
とすれば彼らを物蒐めに駆り立てた大きな動機は、「自分たちの大切にしている江戸につながるもの、藩閥政府によって切り捨てられて行くものを精一杯集めておこう」ということだったはずだ。彼らは粋であった、能や狂言、邦楽、俳諧、日本画、書、篆刻に長じているものも多い。江戸から続く大旦那の趣味人たちの姿を借りながら、失われていくものの蒐集をし、失われていく江戸情緒に耽溺しようとしたのであろう。岡田村雄は、堀の芸者で一中節の師匠をしていた年増にいれあげたが、「彼を夢中にさせたのは明治前の芸者だったという一点であって、その年増に江戸の残香を追い求めていたのだ」と魯庵は見ていたという。こうした集古会の基調であった江戸情緒に対する強い憧憬は、後に「日和下駄」を書いた永井荷風にまで繋がっている。荷風も集古会の会員だった。
一方で、こうした旦那衆の遊び、いわゆる道楽は古い日本の停滞した文化の遺物で、早くここから脱却して近代の学問の水準へ追い付くべきだという立場もある。山口昌男は、同じ集古会のメンバーだった柳田国男をその代表として、彼が時折見せる集古会メンバーへの冷たい視線を指摘している。
柳田国男は、東京帝国大学で農政学を学び農商務省のエリート官僚なって貴族院書記官長まで勤めた人だから、「山人」への興味から集古会へ入ったとしても旦那衆の遊びの雰囲気には馴染めなかったし、反発も感じていたであろう。むしろ民俗学という未だ認知されていない学問を如何にして官学のアカデミズムの中に根を下ろさせるかに腐心していたから、旦那衆の遊びからは距離を置かざるを得なかったであろう。いいかえれば民俗学の研究を、旧態然たる本草学的な枠組みから切り離して、近代学問の枠組みの中で新しく構築したいと考えたのであろう。
柳田国男は昭和二十九年「民俗学手帳」に次のように書いている。「むかしフォクロアを土俗学などといおうとした時代には、仲間に必ず何人かの道楽ものがあって、よく旅行し、また会にもよく出てきて、一番熱心に採集の話をしていた。集古会という団体などは、永い間そういう連中が牛耳を執り、私たちのように自分は持ち物が少しもない癖に、ただ見物して興味を感じ、起源を考えたり分布を調べようとする者を『おえら方』などと呼んで軽蔑した。」
集古会の人達が、柳田を揶揄したとすれば、それは調査や研究をしていたからではなく、江戸時代から続く本草学的ネットワークの「座」の雰囲気に入れなかったからであり、その「座」が基調としていた江戸趣味に対する共感、江戸情緒に対する哀惜を決定的に欠いていたからである筈だ。

集古会の多様な人達

このように、集古会を「明治という藩閥政府の新時代にどうも居心地の良くない人、旧幕臣の出身や、江戸情緒にむしろ魅かれる人々を中心とした活動」と見るのは非常に魅力的な視点ではある。しかし、実は必ずしもそう簡単には割り切れないところもある。
集古会の名簿を丹念に見ていただきたい。決して在野の人ばかりでなく、藩閥が重きを占めていた政府の要人たち、華族に遇せられた人達も多く入っている。
むしろ興味深いのは、会員各々が集古会で初めて参集したというわけではないというところだ。何人かで活動していた仲間たちのグループが既にいくつもあって、それが何らかの繋がりをもとに集古会に集まってきている。
坪井正五郎の人類学教室がそもそもの母体だから、まず人類学教室関係や考古学の繋がりで林若吉(若樹)、根岸半七(武香)、須藤求馬、蒔田鎗次郎、大野延太郎(雲外)・八木奘三郎、中澤澄男、下村三四吉、和田千吉、柴田常恵、さらには三宅米吉、江藤正澄などが集まったであろう。
さらに坪井が「すこしくだけた会にしよう」と言うので竹馬会で知り合った清水晴風、大槻如電、竹内久一、万場米吉、巌谷季雄(小波)などの土俗玩具の仲間を加えた。
蒐集という面では林若樹が多くの分野に手を出していたから、その繋がりも会の拡大に貢献したであろう。林若樹は玩具、錦絵、古書、金石、考古遺物を集めた。また狂言、狂歌、書画もよくし、その関連の蒐集もあった。岡田村雄は狂言で林の兄弟子、しかも父の代からの蔵泉家で古銭の目利き。古銭収集仲間では福田循誘、亀田一恕、山中笑、三上母子太郎、林静男、水野桂雄、原田寅之助、西川國臣らが会員になった。
古書の仲間では、古書店の横尾勇之助、鹿田静七、青山清吉。古書収集では国学、本草学などの学者が多くいた。青山清吉は「好古叢誌」の出版元となったが、その編集は前田健次郎である。
国学者で賛助会員でもある井上頼圀は古書の研究者でもあり「好古類纂」の編纂に参画したが、集古会会員の小杉榲邨、松浦詮、五十嵐雅言、黒川真道はその編纂執筆の仲間である。井上はまた「古事類苑」の編纂にも参与したが、その編輯執筆には集古会会員の黒川眞頼、松本愛重、横井時冬、小杉榲邨、和田英松が参画している。
「好古類纂」に執筆した松浦詮は肥前国平戸藩最後〈十二代〉の藩主。茶人で石州流鎮信派の家元。明治期最高の茶の湯数寄者を集めた和敬会設立の提唱者、和敬会の十六名は持ち回りで釜をかけたため「十六羅漢」と呼ばれた。同じ集古会会員の東久世通禧、平瀬亀之助(露香)、三田葆光、石見鑑造、青地幾次郎、金沢三右衛門ら七名までがこの「十六羅漢」のメンバーに入っている。これにのち欠員補充で益田孝(鈍翁)が加わった。彼らは名物級の茶道具の蒐集家でもある。
このように見ていくと、集古会は江戸時代から続くいくつもの「座」的なネットワークが、古物・古習俗の蒐集という一点の共通性によって結びあわされたものだという気がする。これを組織化したのは、坪井正五郎とその下で働いた林若樹であったろう。そしてその仲間には藩閥政府の側の人であっても、会の価値を共有できる人達は皆参加したのだと思う。なにしろ自分の夢を実現するにはこのネットワーク自体が重要だということを、旧幕臣側も、藩閥政府側もよく知っていた筈だからだ。
そして集古会というネットワークの結節点はそこから発生する新しいネットワークも生み出しつつ、昭和十九年まで続くのである。

蒐集することと「座」の意味

このように江戸期の物産会から明治大正昭和の集古会を俯瞰してみると、道楽という側面よりは、本草学(今で言うなら博物学)への興味や情熱の方が一環として流れているような気がする。
博物学には必ず資料の収集が必要となり、しかも対象とするものを限りなく多く集めて、その全体像(一種の小宇宙)を把握する情熱へと結びつく。分析解析的な志向よりは総合統合への志向が強い。そのためには資料提供者や、同好者で重品の交換に応じる人との熱いネットワークが必要であり、一種の「座」を形成させる必要があった。その「座」の求心力は、「物の蒐集」であり、それを潤滑させるものが「道楽」という側面だったのであろう。
一方で、もの集めというのは人間の欲というものと密接不可分の営為である。所有したい欲もあるし、見せびらかしたい欲もある。「座」はまた時に欲から来る仲間の狂態をある程度笑い飛ばして許容したり、柔らかく牽制して破綻を抑えるものでもあったはずだ。そこには「座」の暗黙のルールがある。その暗黙のルールは江戸期の都市文化の中で生まれた多くの「座」的な集まりが、時間をかけて醸成した一つの上質な知恵であったろう。「道楽」や[遊び」という姿勢はその知恵の一つである。それに気付かぬ人たちが野暮な人であった。
柳田国男が集古会仲間から揶揄されたのは、「座」の価値とそのルールに気づかなかった「野暮」な所にあったのだろう。
集古会誌の現物を閲覧させて下さり、資料の複写とホームページでの使用許可を与えて下さった早稲田大学図書館に感謝いたします。

補足;
ここで示したように、柳田国男と集古会の関係はかなり屈折したものだった。それでも柳田は集古会の人脈からかなりの恩恵を受けたように思われる。柳田が集古会に入ったのは明治三十八年頃であろうが、その後の明治四十三年に出版した「石神問答」は、明治四十二年年九月十五日から始まった山中(笑)共古との往復書簡がその骨格を占めている。山中共古は勿論集古会の強力メンバーの一人である。この往復書簡の内柳田国男が発信したものは山中共古宛十通、白鳥庫吉宛四通、佐々木喜善、伊能嘉矩宛それぞれ二通、和田千吉、喜田貞吉、緒方翁宛各一通であり、このうち山中共古、和田千吉、喜田貞吉が集古会会員である。
「後狩詞記」、「遠野物語」と並ぶ柳田国男の初期三部作の一つ「石神問答」はこうして生まれている。
この「石神問答」は、集古会の生みの親である坪井正五郎の勧めによって、紀州の南方熊楠に送られた。それが南方熊楠との交友の始まりだった。柳田と南方の膨大な往復書簡はいくつかの本となって出版されている。南方熊楠も集古会に入って大正期「集古」の執筆陣の一人となった。


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