蔵王東麓のこけし描彩の系譜


遠刈田では明治十七年田代寅之助によって一人挽き、すなわち足踏み轆轤が伝えられ、三十日間の契約で、新地の周治郎・久吉・茂吉・七蔵・吉五郎・寅治・重松の七人が弟子入りした。また引き続いて明治十八年、青根の丹野倉治が田代を招いて木工所を開設したので、さらに技術を磨くためにその工場に茂吉・久吉・重松が参加、青根からは作並出身の槻田与左衛門、菊池勝三郎、弥治郎からは佐藤幸太が入所した。一人挽きの技術は、明治二十年代の初めにかけて伝え聞いて遠刈田・青根学びに来た東北こけし産地の多くの工人たちに伝承されていった。
この一人挽き技術の伝承がこけしの形態描彩に大きな変革を与えた。特に青根の丹野の工場では各工人が競い合って新しい様式を工夫したので描彩も多様化し、そうした工人達が自分達の産地に戻って新しい様式を定着させたことによって初めて十系統が確立されたのであった。
それ以前は、土湯のグループ、作並を含む蔵王東麓のグループ、鳴子のグループという三つのエリアでそれぞれ特徴を区別できるこけしが作られていたに過ぎない。

それでは、一人挽きが伝承される以前、蔵王東麓のグループ、遠刈田や弥治郎ではどのようなこけしが作られていたのかはまるでわからなかった。漠然と作り付けで肩のこけた物と直胴で頭をはめ込むものの二種類があっただろうと考えられ、弥治郎や遠刈田はほぼ同様、弥治郎でもロクロ線は使わず、佐藤伝内の手描き模様のようなものが想像された。

関連する資料としては、遠刈田の松之進一家に伝わった「おいちの描彩」(佐藤友治の妻女いち、戸籍名いつ、松之進の母が残したこけし描彩図)があり、二人挽き時代の面描として第一図から第四図までが残されている。

こうした中で、高橋五郎氏が「仙台周辺のこけし」(昭和五十八年九月)で報告した遠刈田古作こけしの発見の意義は大きい。左上に紹介するこけしがその遠刈田古作こけしである。二人挽き時代の実物のこけしでかつ描彩も残っている貴重なこけしだからである。
五郎氏も指摘するように頭部の描彩は「おいちの描彩」第一図と一致する。また墨で輪郭を描き紅を加える結び口は「おいちの描彩」第二図と一致する。第一図、第二図はともに遠刈田新地の古い手法で、明治十年頃までに盛んに描かれたものという(友晴著)。
そして、「こけし手帖574号」で高橋五郎さんは、新発見の柿崎藤五郎さらに同系列の飯坂の栄治との関連から、この遠刈田古作を周治郎あるいはその一家(左上の写真では周右衛門、周治郎、寅治の可能性を含め周右衛門一家としておいた)の二人挽き時代のこけしと判定した。

さて、ここに示した「おいちの描彩図」の二人引き時代の第一図から第四図までの鼻の描き方はみな丸鼻(蒐集家は垂れ鼻と呼ぶ)である。口はみな墨で口の形を描いている。第二図および第三図では墨で口の形を描いた後でさらに紅を加えている。口をまず墨で描くのは古い手法であろう。佐藤直助の極初期のものに二筆の墨書きの口に紅を加えたこけしがある。

ところで、このおいちの丸鼻(垂れ鼻)と遠刈田古作こけしの撥鼻とどちらが古い様式であろうか?
確証はないが、撥鼻の方が古いのではないかと思う。丸鼻(垂れ鼻)は撥鼻を簡略化したものだという話を聞いたことがある。上のこけし描彩図の第四図は小寸の芥子坊主に描かれた様式であるが、小寸物に撥鼻は描きにくいので最初に簡略形の丸鼻(垂れ鼻)が描かれ、松之進の家ではそれが寸法の大きい人形にまで応用されていたのかもしれない。
二人挽きの時代、十系統への分化が行なわれる以前、蔵王東麓では撥鼻の古風なこけしが作られていたのであろう。
ここに示す図は、撥鼻から今日の多様な鼻の描法へと展開する過程に関する仮説である。
@ 江戸末期から明治初年までは蔵王東麓(遠刈田、弥治郎、作並地方)で作りつけ小寸物以外はこの撥鼻を描いていた。この時代の唯一の遺品は遠刈田古作こけし(高橋五郎氏蔵)である。
この描法は一人挽き時代になっても弥治郎では継続して作り続けられた。幸太やその息子今三郎、慶治、佐藤栄治やその息子伝内などへ伝えられた。嘉三郎も大振りの撥鼻を描いた。
A こけしを特に沢山製作した家、例えば遠刈田の吉郎平家や松之進家では三筆で描く撥鼻は手間がかかるので、その簡略型として二筆で描くことの出来る丸鼻(垂れ鼻)を描くようになった。一人挽きが伝承されたころ友吉、友治、いつ、茂吉などは丸鼻を描いていたであろう。友治・いつ夫婦の長男松之進や茂吉のこけしをはじめ遠刈田のこけしにはこの丸鼻を残しているものがかなりある。一人挽きが伝えられた後、遠刈田・青根に一人挽きを学びに来た工人のなかに、この丸鼻の手法を持ち帰ったものもあり、特に蔵王高湯では丸鼻(垂れ鼻)が主流になった。したがって、この丸鼻(垂れ鼻)は明治初年から今日まで採用され続けている描法である。
B 三筆で描く撥鼻を簡略する時、下部の彎曲部を省いて二筆で済ませる方法がある。古い形式で割れ鼻に近いが、@の撥鼻が元型なので鼻の上端はくっついていない。遠刈田では鼻線の下端の彎曲があまり大きくなく、直線二本で描くような描き方も多い。伝小原直治といわれるこけしや、初期の直助はこの描法である。一方では蔵王高湯の栄治郎を経て荒井金七や木村吉太郎にもこの描法は伝わった。岡崎長次郎は初期の丸鼻に対し、後年はこの二筆鼻を描いた。
作並地方でも早くからこの上端の離れた二筆鼻を採用した。花筐コレクションの古作並高橋胞吉、山形の小林倉吉などはこの二筆鼻を描く。おそらく二人挽き時代から描かれていたであろう。
Cは撥鼻の上端がくっついているもので@の発展型であろう。上端を接する方が筆の位置が定まるので描きやすい。したがって平行線で描いていたものがやがて上端が接するように変わっていくのである。飯坂の佐藤栄治や井上藤五郎はこの手法であった。勘内にもこの手法のこけしがある。
Dは今日の遠刈田や山形小林一家で主流となっている完成された割れ鼻である。青根の丹野倉治の工場で多くの工人達が一人挽きの足踏み轆轤を学び、新技術による新しい意匠を考案していく過程で作並からきた槻田与左衛門が、この割れ鼻を完成させたという。作並の二筆鼻から来たという人もいるし、丸鼻の変形という人もいる。上端の着く二筆の割れ鼻は、位置も決めやすく最も効率的な描法であった。山形の倉吉は、Bであったのに対し息子の清蔵はこのDの鼻を描いた。
明治十八年から二十三年頃にかけて青根・遠刈田に来て一人挽きを学び、自分の郷里へ戻ってこけしを作った工人には垂れ鼻を持ち帰ったもの、割れ鼻を持ち帰ったもの、撥鼻を持ち帰ったものがある。どういう環境で学んだか、誰に付いたかによって違いがあったのかもしれないが詳細はわからない。
Eは秋保の佐藤三蔵と作並の平賀一家が描く。三蔵の場合は青根で学んだ太田庄吉の丸鼻(垂れ鼻)から変形したものであろう。平賀一族の場合は秋保との影響関係が有るのか、あるいは割れ鼻からの変異なのか不明である。割れ鼻よりは下端を接するように合わせるだけ神経が要るので製作効率は悪いだろう。一般に変化は、付加価値が高まる方向へと進む。効率はもっともシンプルな付加価値である。割れ鼻からの変異とするなら、効率以上の何らかの付加価値がなければならない。太田庄吉の師今野新四郎、あるいはその師庄司惣五郎のこけしとして確定されたものは知られていないが、あるいは彼らはこうした鼻を描いていたかもしれない。岩松の旅館主亥之助は修行から帰った平賀謙蔵に作並風のこけしの描彩を強く依頼したというから、謙蔵以前に作並こけしとして製品を卸していた今野新四郎がこの鼻のものも作った可能性はある。そうであればこの描法の起源は二人挽き時代にまで遡る。ただ、今日確認できるのは秋保と作並だけに限られていて、その祖型を議論するには資料に乏しい。
以上が鼻の描彩変遷の概略である。


この仮説に対して古い作並の二筆鼻は撥鼻と関係なく独立に完成されたものという考えを取る人もいるであろう。現時点では撥鼻を祖型と見るべきか否かを議論する決定的な資料は無い。蔵王東麓のこけし、遠刈田・弥治郎および作並のこけし発生をどう見るかでも考え方は変わってくる。将来の課題である。

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