特別クイズ:作者は誰か?

解答議論編


おわかりになりましたか? こけしマニアにはそれぞれ良く知られたこけしです。
でも、鼻と口だけだとかなり混乱するのではないでしょうか?

答えは次の通りです。

@ 佐久間七郎:中屋惣舜蔵
A 伝佐久間浅之助:米浪庄弌蔵
B 伝佐久間浅之助:橋元四郎平蔵
C 伝佐久間浅之助:痴娯の家蔵
さて、ここからが議論の始まりです。
まず、背景をご存じない方のために伝佐久間浅之助とは何かから説明いたしましょう。

佐久間浅之助

土湯のこけしは、天保年間に伊勢参りに出掛けた稲荷屋の佐久間亀五郎が、途次上方の盛り場で売られていた種々木地物や木地玩具に刺激を受けて作り始めたと言われている。亀五郎の子が弥七、この弥七もベニガラで彩色するなど工夫をこらし、「弥七でこ」と呼ばれる首の回るこけしを作り始めて、これが土湯こけしの原型になったと言われる。
浅之助はこの弥七の長男で弘化四年の生まれ、天理教を信仰したため屋号を稲荷屋から湊屋に改称した。こけしも盛んに作ったという。しかし、明治三十六年の記録的な大水害で、蓄えていた木材を流出して倒産、一族を結集して再起を図ったがついに果たせず、明治三十八年夜逃げ同様にして土湯を去った。末子虎吉は、当時十四歳、朝から雪の降る寒い日で、折しも日露戦争の凱旋歌の流れる中を、文庫箱をかつぎ浅之助に手を引かれて土湯を下ったと後年自ら語った。浅之助は、そのあと川俣に移ったが翌明治三十九年旧四月五日、失意のうちに世を去った。土湯を離れてほぼ五ヶ月後の事である。
浅之助の子供達もこけしを作ったが、いづれも土湯を離れていたため長く所在動向が知られなかった。昭和十年以降になって、熱心な蒐集家が行方を追求し、ようやく長男由吉、次男粂松、五男七郎、六男米吉、末子七男虎吉を見つけてこけしの製作を復活させることが出来た。復活初期のこけしは、明治中期からの中断の後で、筆を折った当時の面影を彷彿とさせる古式の作風であったために「土湯のルネサンス」と騒がれたりもした。
こうした土湯正統を継ぐ湊屋兄弟の秀作を目にするにつけ、蒐集家の間に浅之助のこけしが残っていないだろうかという期待が大きくふくらんでいった。

浅之助といわれるこけし

古い土湯のこけしで作者が確定できないもの、そうしたものの中で気になるこけしの一つは米浪コレクションにあって佐野健吉(品川山三)からでた土湯古品だった。昭和十五年これくしょん三十六号の「こけし三十六人集」で紹介されたが、その時は浅之助の従兄弟西山弁之助古作として出品された。また、「こけし人形図集」では同じものが浅之助次男粂松旧作として紹介された。
戦後このこけしを浅之助としたのは土橋慶三であった。虎吉の証言があったともいうが定かではない。昭和三十六年の「こけしの美」ではこの米浪蔵品を佐久間浅之助として掲載し、また「土湯木でこ考」で佐藤泰平も浅之助説をとったので以後このこけしの作者名浅之助が定着した。
その後、同描彩でやや形態の異なる別タイプのものも見つかったが、この別タイプの加藤文成蔵品、中屋惣舜蔵品は鹿間時夫によって「こけし手帖五十五号」(のち「こけし鑑賞」に転載)で佐久間浅之助として紹介された。この中で鹿間は米浪蔵品について「浅之助と喝破したのは土橋氏であるが、その頃誰いうとなく、そのような風潮になるから妙であった」と書いて、浅之助説には明確な論拠がはじめからないままいつの間にか定説になったというニュアンスを述べている。よくよく振り返ってみると、実証学的な考察はあまりなく大勢の期待と渇望からいつのまにか浅之助になったという側面がある。
のちにこの浅之助と言われるこけしは次々に発見され、米浪の二本、加藤、中屋、橋元、痴娯の家など「木の花創刊号」では「八本の浅之助」といわれたのが現在では閑話16で触れた板祐生コレクションを含め十二本以上になっている。最近でも「伊勢こけし会だより・91号」で、二本の渋沢敬三旧蔵品が写真紹介されて話題となった。
勿論これが本当に浅之助かという疑問は常にあった。もちろん土湯系の古いこけしであることは間違いなく、出来もいずれも素晴らしい。湊屋の作者の特徴をも備えており、粂松と一時呼ばれていたこともうなずける。しかし浅之助と断定する確証もないし、浅之助を否定する材料もない。
米浪蔵品のタイプと加藤文成蔵品のタイプで作者は果たして同一人かという議論もあった。
この二つのタイプの主な違いは次の通りである。
米浪タイプ:首は胴へのはめ込み、胴ロクロ線は赤と緑
加藤タイプ:胴から首への差し込み、胴ロクロ線は赤と緑もしくは紫、旋盤で木地を挽いたような痕跡あり(爪痕、センター取りなど)
ただ「木の花創刊号」で中屋が主張するように面描にかなりの共通点があるので、やはり同一作者と見て良いだろう。製作時期、製作場所の違いはあるかも知れない。土湯に旋盤ロクロがあったという記録はないので、中屋は加藤タイプを、水害後再起奮闘中に飯坂の甥渡辺角治の工房で角治の旋盤を用いて製作したものと考えている。
また木村旧蔵品には胴に「飯坂温泉コケシボーコ」と墨書があり、これは土湯で作って飯坂の角治のもとに卸して売られたものと解釈された。

伝浅之助の作者は?

さてそれでは伝浅之助の真の作者は誰か?これは興味ある問題だが今となっては断定する証拠を発見することは困難であろう。しかし、可能性を色々考える材料については新たな発見もある。
最近の大きな発見は板祐生コレクションの十一本目の浅之助である。これは完全に米浪タイプである。そして興味深いのは胴底に「常陸浪江」と鉛筆書きされている。おそらく旧蔵者は浪江のこけしとして持っていたのであろう。
浪江といって先ず思い浮かぶのは佐久間七郎であろう。七郎は浅之助五男で明治十八年生まれ。父と共に川俣に移った後、結婚して独立、間もなく浪江に移って木地工場を開いた。大正初年には飯坂の渡辺角治のところで職人をした。
したがって、旋盤も使い、飯坂でも仕事をし、浪江に工場を持っていた七郎は、いま現存する伝浅之助のいくつかの記録伝承を全て満足するのである。明治末から大正始めにかけて七郎が作ったこけしが出回って、古い蒐集家の手に渡ったと考えられないだろうか。水害で木材の大量流出の再起の時期に、小銭目当てに浅之助がこけしを作っていたと考えるよりは自然ではないか。米浪タイプと加藤タイプの作風の振幅についても明治末から大正初年という一定の幅を製作時期と考えれば納得できる。水害後あわただしく二年を経て土湯を去り、その五ヶ月後に死んでしまう浅之助が作ったというその製作可能時期はこの作風の幅に較べてあまりにも短い。また古い蒐集家から次々に発見される経緯や、その蒐集家の活動時期を考えても製作年代は大正初期まで繰り下げて考える方が受け入れやすい。
それでは面描はどうか。七郎は眼の描き方は兄弟中でも異色に大きく、伝浅之助とかなり違うので従来候補者の議論にはあまり上らなかった。しかし、細部の技法は予想外に似ているのである。
そこで最初のクイズに戻る。あの四つの口と鼻は同一の描彩であろうか?中屋蔵の七郎は昭和十三年の復活後のものである。鼻はまず右側を垂直に引き下ろし、次に左を引いて下端を右に曲げ、右線とつける。このやり方は伝浅之助と全く同じである。
ここで伝浅之助を七郎だと決めようと言うわけではない。むしろこれらのこけしが浅之助だということの不確かさは、これらを七郎だということの不確かさと同じだというくらいの問題提起だと思って欲しい。虎吉の証言を拠りどころにする浅之助説は根拠としてはあまりにも薄弱だと言わざるを得ないのである。
名称は伝浅之助でも良い。これらのこけしの作者名が誰であろうとこれらのこけしの価値が超一級であることは間違いないのだから、そうした評価とは別に実証学的な考証がそろそろ活発に起こっても良いと思う。
問題編の写真をもう一度見る

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