縁起物からおもちゃへ

こけしはいつから「おもちゃ」になったか

玩具とは何か

玩具はすなわち遊び道具であり、おもちゃのことと理解されるが、今我々が、一括りに「玩具」と見做すものを、いつからそのように認識するようになったかという問題は決して単純ではない。
同じ玩具の中でも、毬や独楽、けん玉、ヨーヨー、ディアボロといった身体技能を競う遊具、双六やトランプと言った卓上ゲーム類、ミニチュアの小道具や動物などの模倣遊具、雛や人形類、笛や太鼓等の音響遊具など範囲は広い。その歴史を見ても、人類の文明の発生と期を一にして、例えばインダス文明で小さな荷車や鳥の形をした笛、張った糸を滑り下りる猿のおもちゃなども見つかっていると言うし、古代ギリシャやローマでは、ほとんど近世までに生まれる多様な玩具の祖形に近いものが既に現れているようである。人類発生に近い時期から、あるいは玩具は存在したのかもしれない。ただ、古くからその使われ方を見ると、一義的に子供のために作られたというよりも、呪術や祭事で使われたものが、その役割を終えたとき、子供の手に渡って玩具として用いられたようである。
このことは実は日本の多くの玩具でも当てはまる。
清水晴風は本来信仰に関わるもの、縁起物であった玩具が、やがて「子供」のおもちゃとして独り立ちしてゆくという図式を念頭に置きながら玩具を次のように分類した。
  1. 信仰的に作りたるもの
  2. 記念的なもの
  3. 子供にあたえうるもの
つまりは玩具はその大部分がその成り立ちでは、信仰に関わるもの、すなわち縁起物だと考えていたわけだ。
有坂與太郎は「民俗玩具とその習俗」で縁起物(宗教的意図)をさらに次のように五つに分類し、その例と使われ方を詳述している。
  1. 婚姻胎生に関わるもの(嫁入人形・藁馬・ホタタキ棒・だいのこ・子貰人形・種貸さん・木猿・八幡起上り・おきなこぼし・おはらごもり・子育人形・ボンボコ槍・子育木馬・百萬大師・布袋・睦犬・犬守・唐団扇・太子像・瓦猿・木ノ葉猿・青島雛)
  2. 育児に関するもの(流し雛・土鳩・土鶏・お松明・達磨・土狐・愛嬌雛・笹野才蔵・馬、猿、梟笛・弾き猿・虫切鈴・デッコノボウ・一文狗・虫除面・子安地蔵・高麗狗・瓦鳩・夜叉神面・身代り蛙・臥牛・藁馬・犬張子・末広・放生鯉・弓矢・羽子板・真弓馬、宝船・ノゴウサン・鶉車・祝凧)
  3. 疾病駆除に関わるもの(麦藁蛇・烏団扇・黄鮒・天王桶・風車・てんてこ鈴・蘇民将来・神農虎・地車・お香水・淡島雛・竹馬)
  4. 五穀豊穣に関わるもの(紙燕・田面船・七夕馬・お作立・虫除人形・サネモリサマ・シュンナメジョ)
  5. 厄除開運に関わるもの(卯杖・卯槌・繭玉・七福神・大黒・槍・親子狸・千木箱・熊手等)
これらの例を見ていくと五つに分類してあると言っても、その期待効果(あるいは呪術的効能)は互いにオーバーラップしていて分類自体に意味があるのかと思われるものも多い。婚姻胎生と五穀豊穣はアナロジーとして等価であるし、育児子育てと疾病駆除や厄除は子供を対象にすれば同等と言える。そうした呪術的効能が何であったにしても、災厄なく無事に繁栄することを祈る気持ちが、こうした縁起物玩具を求める主たる動機であったことは否めない。こうした玩具は一定の呪術的効能を期待する期間が過ぎれば、子供の手に渡って遊び道具になったであろうし、ものによっては子供に遊ばせることによってその効能が発揮されると期待される場合もあった。
有坂與太郎の例の中で、婚姻胎生に関わるものに分類されている子貰人形や子育人形は、例として北野天満宮地内東向観音堂の伏見饅頭喰、東京上野清水堂の裸人形、大阪下寺善福寺の饅頭喰等が挙げられているが、いづれも子が授かれば二個にして返納するという習俗を伴っている。
これと似た習俗は福島にも残っており、土湯温泉の近くの荒井の大竹子育地蔵堂や、二本松小浜の子守地蔵尊などで、子供が生まれた家では、地蔵堂から一体の木造地蔵を受けて帰り、無事に子供が成育したら二体にして返納するという習俗が今でも残っている。この地蔵さまは子供と一緒に遊ばせるもので、風呂に入れても、泥だらけにしても、いくら粗末に扱っても決してバチは当たらない有り難いお地蔵さまだと信じられている。この例では、子育人形と同様の習俗を伴っているが、婚姻胎生に関わるものではなく、育児に関わるものである。また子供のそばに常に置いて遊ばせるという形を見ると、「天児」や「這子」のように幼児に降りかかる災厄を、身代わりに引き受けるものとしての期待もあったと思われる。
大竹や小浜の地蔵堂では、親が木を削って返納した素朴な木像が多いが、近年になって土湯の工人に頼んで作ったロクロ挽きのものや、こけしを代わりに返納する例もあった。
子供だけではなく、馬の飼育が盛んな地である三春地方では、近くの馬頭観世音に奉納された大型の木馬があり、馬が出産するときはそれを一つ借りだし厩舎に置いて、無事出産すると二匹にして返納する風習もあったという。
白橋宏一郎は「郷土玩具と育児」(こけすんぼこ第五号)の中で、「嘉永六年京都の清水屋治右衛門刊行の<御手遊雛人形の故実>なる本には、俗信や年中行事に関して作られた人形名が列挙されている」と報告している、山田徳兵衛の「日本人形史」にはその人形名百三十余りが引用されているが、一例をあげると、誕生人形、魂祭人形、設財人形、年越人形、蟲除人形、恵方人形、鎮魂人形、瘡落人形、祓人形、妊帯安産人形、厄除人形、風待人形、子求人形、悪縁除人形、乳出人形、病全快人形、歯痛人形、人寄人形、疱瘡の呪人形、再縁人形、田蟲人形等限りがない。江戸末期には多くの縁起物玩具が作られていたことが分かる。
山田徳兵衛は、江戸末期より土人形、張貫などの人形類が農村でも流行したことに触れて「日本人形史」の中で「これは農村の人々が人形類を銭を出して買うようになったことを意味する。しかし、農村の人々が、子供のただの玩び物に銭を費やすことはあまりなかった。お守り、まじないの物として求めたのである。」と書いている
こうした信仰や縁起に深くかかわっていた日本古来の玩具が、いわゆる近代の遊戯用「おもちゃ」と何時から同じ範疇として認識されるようになったのだろうか。

左より二番目が「稲荷人形=伏見人形」で一対の狐の前に置かれているのが「でんぼ」という三つ組の器。
その右手前は、「稲荷鈴」あるいは「埴鈴」と呼ばれ、土製の鈴を紐でつないだもの。この土鈴を身につけて
帰ると、その年の息災多幸を得るといわれた。小正月に木の枝に吊るして、豊作を祈ったという伝承もある。
「でんぼ」「埴鈴」などが伏見土人形のもっとも原初的な形である。

玩具が売られたところ

呪術的効能が期待される縁起物の売られた場所は当然ながら、寺社仏閣やその門前が多い。先の有坂與太郎が例に挙げたものの大部分はそうであり、寺社仏閣に願い事を祈願した後、その玩具を求めていた。寺社仏閣でない場合も、節句や紋日と言った特別な時間、あるいは遊郭や芝居小屋の近くと言った特別な場所、すなわち非日常性の高い場所で求められていたのである。
郷土玩具として最も古いという伝承があるのは、光明皇后の信仰伝説を伴う奈良法華寺の犬守り(天平年間)、春日明神遷座の縁起に基づくという熊本の木の葉猿(養老年間)、坂上田村麻呂東征にからむ比叡山仏教説話と結びつく福島の三春駒(延暦年間)等で、実際にこの時代に作り始められたわけではないが、こうした玩具も寺社仏閣に関わりが深い。犬守りは今でも法華寺の尼僧の手で作られていて、安産、子育てのお守りとして法華寺で売られている。玉名の木の葉猿は、大きな陽物を抱いた形で特徴のある土人形だが、無病息災、子授けの効能があるとして、今では玉名温泉などで売られている。本来どこで売られたのかは不明。三春駒は三春張子と同様に高柴で作られたが、別名子育馬と言われるように子育てのお守りであった。また子授けの効能もあり、日々大豆三粒をもって養えば子宝を得るという伝承もあった。三春駒や三春張子は、縁日祭日に三春城下の鳥居内で出店販売を許可されていたという。
都会においては元禄時代から玩具店のようなものが生まれたと言われている。西鶴の「男色大鑑」や「日本永代蔵」などに出てくる。「男色大鑑」では道頓堀の眞斎橋に人形屋の新六の店があり、手細工に獅子笛あるいは張貫きの虎などを売っていたというから心斎橋付近に元禄のころにそのような店があったようだ。当時の心斎橋は、芝居小屋が並ぶ道頓堀川、また西側には新町遊郭があり、南の戎橋を渡ればもう今宮戎の参道であった。非日常性の強い繁華街であったろう。
遊郭と玩具は極めて関係が深い。京の島原では正月十六日に人形店が仮設されて、人形のほか数々の持て遊びものが並べられた。男が廓に行くと人形屋を座敷に案内する。廓の女房、むすめ、下女、遣り手等も集まってきて、これが欲しい、あれが欲しいというので好きなものをと言うと、我も我もと思いがけぬ散財になる。お金のある人はこの紋日に行ってもいいが、金のさほどなき人は行くことなけれと書かれている(「島原大和暦」)。
この小正月明けの十六日は特別な日(廓の紋日)であり、人形や持て遊びものはそういう日に売られたのである。心斎橋の新六の場合もそうであろうが、日常の生活空間ではなく、祭日の神社仏閣、遊郭や芝居見物の帰り、特別な日(紋日)といった非日常的な空間や時間で売られていた。
本来は、三月の上巳に人形を厄とともに流す習俗であった雛も、江戸後期になると次第に高度な様式になり、また庶民にもその風が広まって、二月の末になると葛籠に両掛けた雛人形売りが来るようになり、やがて京、大阪、江戸では雛市が立つようになる。雛市が立つのも節句を前にした一定の特別な期間であった。
手遊び物の行商も行われるようになり、面売り、唐人笛売り、目かずら売り、御来迎売り、蝶々売りなどが「彩色江戸物売図会」(三谷一馬)に紹介されている。
明治に入っても、東京でさえ玩具専門店は浅草仲見世、神楽坂、人形町、上野山下、銀座尾張町など限られたところにしかなく、「振れ売り」と言う天秤棒での行商も残っていたが、大部分は祭礼や縁日の露店で玩具は売られていた。子供にとっても玩具を買うというのは特別な出来事であり、非日常的な気分が濃厚であった。
こけしの場合は、湯治客にとって湯治場自体が非日常的な場であり、湯治場の土産物店で売られたが、産地が湯治場から離れている場合は工人の女房たちが大きな風呂敷包みにしたこけしや木地玩具を背負って温泉場に運んで売り歩いた。「こんぬずは(今日は)、ちずもの(木地物)どうでござりすべぇ(いかだでございましょう)」と湯治客の部屋部屋を廻った弥治郎の鎌先商いが有名である。
仙台の高橋]吉は小正月の大崎八幡の境内に雪の上に蓆を敷いてこけしを売ったという。

非日常から日常へ

こうした日本の古典的な玩具観が変わったのはどのような契機であったか。閑話ですでに紹介した「こども博覧会」や百貨店の「児童博覧会」からである。
日清、日露の戦勝国となった日本では、軍事力や工業生産による富国強兵に加えて、より文化的な国力、たとえば将来の日本を支える「こども」の教育に力を注ぐべきだという気運が急速に高まっていった。坪井正五郎や高島平三郎などがその推進者であった。同文館「こども博覧会」には、文学士松本孝次郎が「我邦に於いては教育上用いるところの玩具のごとき類は、頗る欠点の多いものであって、日本の玩具は最も壊れやすく、また最も不完全にできているようなものであります。しかもかかる玩具は、児童の家庭時代における教育から申しますと欠くべからざる必要品でありますから、もう少し日本の玩具を改良したいものであると思われる。」と書き、さらに玩具はその国の文明開化の発達の程度を示すものであるから、ドイツやフランスは教育上の改良に努力を惜しんでいないと付け加えている。
優れた玩具は子供の知能発育を促すとも考えられ、玩具の改良や優良玩具考案のコンクールも盛んに行われた。教育玩具という言葉もこのころからよく使われるようになった。
一方では、古来の玩具の中でいかがわしい部分や穏当でないもの、たとえば土俗信仰に伴う性的な表現等は徐々に排除されて、人畜無害化される傾向があった。
前述の「饅頭喰」にしても、本来は伏見稲荷の土人形が原型でありそれが各地に広まったものであるが、伏見土人形の起源は「五穀豊穣をもたらすという稲荷山の土をもち帰り、自分の田畑に埋める」という古い習俗にあった。それがやがて土器(でんぼ、かわらけ、つぼつぼ)、そして土偶、土人形に進化していった。
左図は宝暦四年刊行の平瀬徹斎撰「日本山海名物図會」に「京深草陶芸」として掲載されたもの(写し)。伏見深草で人形を製作し販売しているところであるが、並べられた人形の後ろに積まれているのが、でんぼ、かわらけであり、こちらの方が古い姿。でんぼはかわらけよりやや底の深い容器であり、通常は三つ重ね、それに種籾を入れて稲荷に祈祷し、持ち帰って撒くのが元の姿であろう。同じ土からやがて人形が作られるようになったのである。
五穀豊穣をもたらす稲荷神は、そのアナロジーとして多産をももたらすとされ、子授け・夫婦和合の神としても信仰されるようになった。それゆえ伏見人形には「松茸持ち立ちお多福」「松茸持ち居お福」「馬乗り」「子供乗りお福」「おまら大明神」「小船に男根」「尾を陽物にした狐」など性的なもの(「わらい」と呼ばれた)が数多く売られていた。(「尾を陽物にした狐」は川崎巨泉玩具帖にあり、検索のページから「画題キーワード」に「伏見稲荷土狐」を入れて検索すれば見ることが出来る。)
こうした縁起物玩具の持っていたいかがわしい部分については、文政九年の幕令、明治五年の太政官布告などで度々取り締まられたが、陽物が松茸で暗示されたり、像底に隠されたりいろいろに形を変えて明治後半までは生き残っていた。
そうした文脈で「饅頭喰」もあるのだが、「饅頭喰」だけは、「お父さんとお母さんのどちらが大切か」と問われた子どもが、饅頭を二つに割り、「この饅頭はどちらが美味しいでしょうか」と答えたという孝子説話の表の顔のみで今日まで生き残ったのである。このため何故子授けなのかは分からなくなった。明治五年の太政官令によって遊郭の棚に飾られた「おまら大明神(陽物が裃を着た人形)」は飾ることが難しくなったので、難波・北の新地・新町・松島・南の新地の各遊郭では盛んに「饅頭喰」を求めて、これを代わりに棚に飾り、客の入りを願ったという記録があるから、この頃までは元の意味が共有されていたのだろう。
落語がラジオやテレビで家庭に入る段階で人畜無害化されたのも同様で、もともと明末の笑話集「笑府」日用部の単純な「饅頭」の話から、布団を敷いてやってその部屋に饅頭を送りこむ「まんじゅうこわい」の話にアレンジした可笑しさももう分かりにくくなっている。
縁起物の手遊びの品々も、いかがわしい部分は抹消されて、「おもちゃ」という無味無臭の用語を得て健全玩具としてのみ生き残ったのである。
樋口一葉は「たけくらべ」(明治二十八年)の中で「手遊屋(おもちやゝ)の彌助」と「手遊」に「おもちゃ」というルビを付した、また石川啄木は「悲しき玩具」(大正元年没後の出版)の中で「遊びに出(で)て 子供かへらず 取り出して 走らせて見る 玩具(おもちゃ)の機関車」「何思ひけむ―― 玩具(おもちゃ)をすてておとなしく、わが側(そば)に来て子の坐りたる」と玩具に「おもちゃ」というルビをつけた。「もてあそびもの」から来た「おもちゃ」という言葉が玩具の総称として市民権を得たのはこの頃からである。
百貨店の「児童博覧会」は、こうした時代の流れの中で、子供とその母親という新しい市場開拓に大きな効果があった。ただ出品を要請し陳列された「おもちゃ」のなかには、教育玩具とともに多くの縁起物玩具、いわゆる郷土玩具やこけしなどもあった。それらは概念的に包括され、皆子供のためのものであり、「子供が遊ぶための健全な玩具=おもちゃ」と認識されるようになった。これが「縁起物」が「おもちゃ」に変わっていく大きな原動力になった。言い換えれば「縁起物」が持っていると信じられた呪術的効果は、近代化を進める日本の中で古い迷信として抹消され、色彩の豊かな作品の美的価値や子供への造形的な刺激効果が表で議論されるようになった。
性的暗示のある縁起物玩具(笑い物と称されていたもの)は、この時点でほとんど姿を消すこととなった。
「こども博覧会」「児童博覧会」を推進した坪井正五郎は、玩具を子供のものという前提で分類し、一、持ちて遊ぶもの、二、飾りて遊ぶもの、三、鳴らして遊ぶものというように子供の遊び方のみで九に分類している。清水晴風が「信仰に作りたるもの」として、大部分の玩具がこれに含まれるとした「縁起物」はもうこの時点で姿を消している。
郷土玩具の中には、買われて神棚などに飾られるものも多い。子供が遊ぶにはどう見ても不向きなものもある。それでも玩具だから、それで子供が遊んだに違いないと今では誰しも思うようになったのである。
百貨店では子供と母親と言う新市場の拡充に熱心であり、「節句人形市」などの雛人形の売り出しも、市井の雛市に先んじて開催するようになった。雛市は通常二月の二十日ころから開かれるが、多くの百貨店が「節句人形市」を十日ころから競って開催したので、昔ながらの雛市は次第に廃れて行かざるを得なかった。
これは百貨店と言うものが「催物」という非日常空間を繰り返し創出しながら、市井の非日常性を取り込んでいった結果と見ることもできる。

こけしはおもちゃか

こう考えて来ると、こけしは本当におもちゃかと考えざるを得ない。勿論、縁起物であっても子供にそれで遊ばせることによって呪術的効能を期待するものもある。
土湯の斎藤太治郎が大正十二年に書いた栞には、「御子様方ノ御好運ト御健勝ヲ祝シタ真ニ御目出度イ玩具デアルト昔カラ言ヒ伝ヘテ居ルノデアリマス。此ノ玩具ヲ与ヘテ喜ブ笑顔ヲ楽シミトスル御子様ノ無キ方ハ当温泉ニ御入浴ヲナシ御太子様ト御湯神様ヲ一心ニ信仰ノ上右ノ木人形ヲ御祭リシテ朝夕御信仰ナサレバ玉ノ様ナ可愛イ御子様ヲ御設ケニナリマス」と書いてあった。昔は土湯の浴槽に無彩のこけしが多く奉納してあったという話もある。
また鳴子の高橋盛は「昔は湯治にくれば必ずこけしを買って帰ったものだ。こけしを持ち帰って近在の子供のいる家へ配らなけれは、湯治に来た効能がないと言っていた。丁度、神社へ行って、御札を買って帰るようなものだ。」と語っていた。また、鳴子大穴公園にある厄除子如来で、昔はこけしを御札とともに売っていたともいう(秋山忠談)
三原良吉は「コケシの話」(昭和二十五年仙台市役所)の中でホーコについて説明した後、「コケシもやはりそれらのホーコの仲間であって、これがホーコであるという証拠には、至って近世に出来たにもかかわらず現在呪物的に用いられているものもある。秋保のコケシの頭の中央に描いてある乙の字は、土地の薬師のお授けと言い伝えられ、幼児の虫封じの呪いとされている。秋保では子供が生まれた際、コケシを二本求めて一本を幼児に抱いて寝かせ他の一本を川に流す習俗がある。上巳の節句の雛人形も昔は一回きりに形代として川に流したのが起源であるが、蔵王高湯の地方ではコケシを雛祭に用いている。米沢付近から吾妻山、磐梯山の麓にかけては子授けの呪いに湯神の祠にコケシを奉納している所がある。」と書いている。
秋保の例を補足すると、当初は藩主が子供のために二本のこけしを作らせたという伝承がある。それぞれに甲乙の文字を頭頂に入れさせ、甲を名取川に流し、乙を厄除として子供に与えて遊ばせた。残るこけしに乙があるのはそのためだと言う。
本来は、単に頭頂の赤点の後ろの二つの緑点に過ぎなかったかもしれない。続けて描く緑点が乙字に見え、それと縁起が結びついたのであろう。後年は意識的な乙字になっていた。こうした付会は、江戸末期の流行神の伝承にも多くみられる。
仙台鉄道局の「東北の玩具」や西田峯吉の「こけし風土記」(未来社版)では、さらに子授けや形代としての奉納の風習が、岳温泉湯神社、熱塩温泉示現寺境内子授観音、小野川温泉薬師堂などにあったと記している。
丹念に尋ねていれば、こうした伝承はほとんどの産地に残っていたであろう。ただこけしは子供が遊ぶための「おもちゃ」であるという認識が「児童博覧会」以降、明治末から大正にかけて定着したことによって、そのような詮索は根拠のない迷信の調査であり無意味とされたように思う。
こけしは湯治習俗の中で生まれた。湯治客は、湯治で回復した体力と、それと等価である五穀豊穣の力を山から自分の村へ運ぶ象徴としてこけしを求めた。それ故、豊饒=多産から子授けの呪術的効能も期待できた。そのこけしはまた子供が抱いて遊べば這子であり、災いや病気が来れば身代わりになってくれる形代でもあった。
こけしの発生は文化文政以後であり、必ずしも古くはないが、日本古来の縁起物玩具がたどった長い文脈を確実に継承していると言える。

おもちゃであるこけしの鑑賞

縁起物という部分を失ったこけしは、「子供が遊ぶおもちゃ」に過ぎなくなった。
それゆえ、こけしの発生に関する議論においても、たまたま山の木地屋が自分の子どもに作り与えたものが広まったというような素朴な俗説も生まれてきた。
こけしを鑑賞する場合においても、興味はこけしそのものとそれを作る工人に集中してくる。つまり、作家対作品と言う関係の中でのみ語られるようになった。こけしは作った工人の細君、あるいは娘の顔に似ているなどと言って喜ぶような人たちも出てくる。
木の花同人の俵有作はこんな風に言っていた。「湯治客がどういう気持ちでこけしをもとめて子供に渡すか、それを知っていてそのために作ったこけしと、大人の蒐集家のために作ったこけしはまるで違う、別物ですよ。」 縁起物としての性格を失わされ、健全な幼育玩具となり、さらに大人の観賞用になったこけしは、もはや別物という気持ちだったのだろう。
平成五年六月十二日西田峯吉さんと一緒に仙台の「こけしを語る集い」で話をさせていただいたことがある。西田氏はその年の七月十二日に九十二歳で亡くなったので丁度その一か月前の講演であった。
その時には西田氏は「こけしの風土というものがずいぶん昔とは変わってしまった。新幹線で三時間足らずで産地に来られるようになった。深沢さんが、みちのくは 遥かなれどもと詠ったが、もう遥かではなくなった。風土というものもだんだん見えにくくなってしまった。」という切り出しで、風土について、またそれがいかに大切なものかを語り、最後に「こけしはいつまでも風土としっかり結びついたものであって欲しい」と述べた。風土と言うのは、こけしを生みだした風土であり、縁起物であるこけしを大切にした風土であろう。
私は、その後で「こけしの虚像と実像」という題で話した。「伝統こけしはこうあるべきだという議論が良くなされるが、その中で出て来る『あるべき姿』と言うのが実はこけしの虚像によるものだ。縁起物と言う部分が消えて、おもちゃとしてのこけしとその作者に関心が集中して以降、父子相伝とか祖型を忠実に伝承しなければいけないといった虚像による『あるべき姿』が出来あがったが、歴史的には根拠がない、縁起物としての制約、風土からの制約を失ったから、伝統こけしと言う新しい制約を作っただけだ。これからこけしにはアルケオロジー(考古学)が必要ではないか、今作っているこけしから、こけしが大人の蒐集用になって以降に新しく付け加えられた要素を一つ一つ剥ぎ取って行って、最後のところまでいけば本質的なこけし、縁起物として生まれたこけしの姿が見えてくるかもしれない。それが新しい出発点ではないか。」といった話をした。
こけしの蒐集に情熱を傾ける人の中には、工人が作るこけしの「年代変化」を重視し、最も脂の乗り切った年代、いわゆるピーク期のものを集めたいという人達もいる。年代変化を議論することは蒐集を心掛ける場合に大事である。しかし、年代によってピーク期のこけしが分かっても、なぜそのこけしが良いものかが分からなければ意味はないだろう。
こけしが鑑賞に堪えるのは、こけしが本来持っていた生命力や美的迫力ゆえであるが、そうした魅力の源泉は実は縁起物として呪術的効果を期待されていたことによるものと密接不可分の関係にある。それをきちんと見透すことが出来れば、年代変化の知識によらずに良いこけしと向き合えることが出来るだろう。

追記:

宝暦四年刊行の平瀬徹斎撰「日本山海名物図會」はじめ伏見土人形を載せる古典籍のいくつかは、早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」にあり、その原図を見ることができる。
「日本山海名物図會」第四冊の図版9が「京深草陶芸」である。
図版の解説には「京深草陶器(きゃうふかくさかわらけ) 人皇二十二代雄略天皇十七年に、土器連吾笥(はしのむらじあけ)と云ふ人、土器(かわらけ)の細工人を山城国伏見村に置かるる由、国史に見えたり、その時の細工人、今の世まで伝はりて伏見海道の土物さいく、西行行脚のすがた、あるいは狐牛のたぐひ、その外いろいろの人形、うつは物等をつくりて家業とす。その由来久しきことなるべし。庭訓にも深草の土器師(かわらけし)とあれば、久しき名物なる事知るべし。 」とある。
同様の図は「都名所図会」(安永九年:秋里湘夕選、竹原春朝齋畫)第三巻(図版4)にもあり、伏見人形を並べる女と、数人の客が描かれている。
寛永十一年の「都林泉名勝図会」巻之三(図版36)の「稲荷社初午詣」にも伏見土人形を持ち帰る参拝客の姿がある。
都林泉名勝図会
寛政十一年「都林泉名勝図会・稲荷社初午詣」(写し)
布袋土人形を掲げる男と狐土人形一対を背に吊るす男

伏見人形の縁起に関する文献: 

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