木人子閑話(26)


百貨店の「児童博覧会」

   百貨店の新市場開発

 閑話(25)で三越の「児童博覧会」にまで話が及んだことを知って岡戸正憲さんはさらにもう一冊の本を私に委ねて下さった。それは平成十年に世界思想社から出版された「百貨店の文化史」という本である。編者は一橋大学の山本武利教授、西沢保教授であり、他九名の方が分担執筆されている。
この本では第二部第五章の「百貨店イベントと都市文化」(執筆:津金澤聰廣)および第七章の「百貨店の子供用商品開発」(執筆:神野由紀)に三越の「児童博覧会」についての記載がある。
この本を読みさらに関連資料を調べることによって、明治から大正にかけて盛んに行われた「児童(こども)博覧会」というものの姿がかなり立体的に把握できるようになった。
まずこうした百貨店の活動は、当時百貨店が発行していた月刊機関誌によってかなり詳細に知ることが出来る。こうした機関誌は三越ばかりではない。白木屋、高島屋、松屋、松坂屋、大丸などでも発行しており、その実態はこの本の第三部第九章「百貨店発行の機関紙」(土屋礼子)に詳しい。
三越は明治三十二年から「花ころも」ついで「みやこぶり」という機関紙を半年ごとに発行、ついに明治三十六年八月から「時好」を月刊、明治四十一年から「みつこしタイムス」、明治四十四年から「三越」として月刊を続けた。
明治四十二年第一回の「児童博覧会」は「みつこしタイムス」(第七巻第四号)に紹介されている。
同様に高島屋は明治三十五年から「新衣裳」を、白木屋は明治三十七年に「家庭のしるべ」、明治三十九年からは月刊の「流行」を刊行している。同様に松屋の「今様」、松坂屋の「衣道楽」が明治三十九年から季刊で始まった。
三越の「みつこしタイムス」、白木屋の「流行」ともに機関紙の構成は非常に似通ったものであり、季節の呉服、帯など新着の案内、雛、羽子板などの売り出し、最新の洋装流行の紹介、日本画の売り立てや展覧を写真と解説交互に行っている。その中に催物の大きな企画として三越では「児童博覧会」の報告や「小児会」の参加募集などが入っている。
 こうした百貨店の子供を対象とした市場開拓は非常に大きな成果を上げ、三越が明治四十二年以降ほぼ毎年開催した「児童博覧会」には入場者が殺到し、展示場から直結した売店にまで人の列が続いて、売店での売り上げは非常に大きなものだったらしい。
明治大正の世相や、百貨店の意味について研究する人たちは、従来ほとんど市場として成立していなかった「子供」というものを中心に一大市場を形成したことに「児童博覧会」の大きな意義を指摘している。ただ、私はここで子供の市場というものが受け入れられたことのもう一つの側面を考えてみたいと思う。
それ以前に、子供の市場がなかったということは純粋に子供のためという商品はなかったということである。
それでは玩具、郷土玩具とは何であったのだろう。
清水晴風は玩具について、
  1. 信仰的に作りたるもの
  2. 記念的なもの
  3. 子供にあたえうるもの
つまり、晴風の頭の中には、本来信仰に関わるもの、縁起物であった玩具が、やがて「子供」のおもちゃとして独り立ちしてゆくという図式がはっきりあったに違いない。このことは『「敗者」の精神史』の中で山口昌男も指摘している。
とすれば玩具すなわち子供のおもちゃという常識が出来あがったのは何時からだろうか、言い換えれば、こけしが子供のおもちゃだと誰もが簡単に思い込むようになったのは何時からだろうか、それは百貨店の児童博覧会によって子供を対象とする市場が出来てからではないだろうか。
勿論、それ以前から子供達は思いっきり玩具で遊んでいた。しかし、その玩具は縁起物などの目的で作られ、十分その役割を果たしたのち、子供に与えられ、その遊び道具となった。
こけしも同様であろう。「こけしは本来こどものおもちゃであった」というのは実は刷り込まれた神話なのかもしれない。そうした素朴な発想を簡単に受け入れられるような素地を作ったのが「子供」のための用品を集め並べて売るという児童博覧会であったかも知れない。この「児童博覧会」でこけしも郷土玩具も初めて「こどものため」の市場で売られたからである。 (=>縁起物からおもちゃへ
三越の第一回「児童博覧会」は明治四十二年四月一日から一ヶ月間開催されたが、その「開設趣旨」の概要は次の通り。
”児童に関する最近の活動は極めて盛ん、各方面の研究調査も精緻になり驚くべき状態になっている。その改善発達の状況を見るためには、成果を一堂に集めて多くの人に見てもらうのが一番いい。春で時節も最適な今、三越呉服店特別陳列場で児童博覧会を開く。児童そのものを陳列し、若しくは児童の製作品を陳列するものにはあらず、男女児童が平常坐臥行遊に際して片時も欠くべからざる衣服、調度及び娯楽器具類を、古今東西に亘りてあまねく鳩集し、また特殊の新製品をも募りて之を公衆の前に展覧し、以て明治今日の新家庭中に清新の趣を添へんことを期する。こども博覧会は既に、三府を初め、彦根、博多の各地で開催されたことはあるが、選ぶものは必ずしもそれらと同じではない。新意匠、新考案のものについては審査し、優秀なものには記念賞を与える。”
そしてその審査員として、新渡戸稲造、高島平三郎、坪井正五郎、坪井玄道、塚本靖、中村五六、黒田清輝、斯波忠三郎、三島通良、菅原教造、小野喜惣治、宮川寿美子が挙げられている。
会長は日比翁助、顧問が巌谷小波であった。
三越本店の日本橋通りに面した2600平米の空地が会場となって、展示館が新設され、また事務棟の一部も改装されて会場となった。新展示館は中庭のあるゴシック式大建物でコの字型をしており、正面はスイスのルセルン(Luzern)山の光景を模して、洋々たる湖水もあり、ヨーロッパが蜃気楼のように現れた感ありと評判だった。中庭の花壇には噴水があり、その両側の動物檻には多くの鳥類、熊・猿・犬・猫がいた。演芸館では、お伽芝居、神楽、丸一手品、所作事、しん粉細工、手品などが毎日午後に三回ほど行われた。
この三越の「児童博覧会」に先立つ明治三十九年東京上野の「こども博覧会」の趣意書には「パリのこども博覧会は盛大な催しで非常に成功した。極東の地で戦捷(戦勝国の意)の島において、これを挙行しなくていいわけはない。」とあった。日露戦争に勝って、その後ということにも「こども博覧会」の大きな時代的な背景があったであろう。日露戦争以前は富国強兵の意識が強く、内国勧業博覧会でもその主たる対象は工業振興のためのものであった。それゆえ内国勧業博覧会の余り物を販売することから始まった勧工場も工業を勧めるという命名であった。
日露戦争に勝ったというゆとりは市民の意識も変えたであろうし、施政者の政策にも影響を与えたであろう。東京上野や京都岡崎で開催された「こども博覧会」は、作る側から買う側に重心の移った画期的な催しであったが、それをさらに全面的に推し進めたのが、三越の「児童博覧会」であった。三越はこの成功を見て、常設の研究組織として「児童用品研究会」を発足させた。
市場を創出し購買意欲を促すために開かれる博覧会の時代が始まるのである。
三越の「児童博覧会」は九回開催された。七回が東京日本橋で、二回が大阪三越での開催であった。規模の変遷は下表のとおりである。
博覧会の陳列品は全国からの出品であるが、その出品人をみると殆どが東京府の人である。例えば、明治四十四年三月二十五日から五月十五日まで開催された第三回児童博覧会には出品総人員344人中、東京府244名であった。ついで京都府の17であるから他県は数名である。最後の第九回でも出品者は560名のうちやはり東京が445名で圧倒的に多かった。出品総点数57,777のうち、玩具は16,570点であった。
こうした三越の「児童博覧会」で展示されたものを、最後の大正十年第九回の主なもので見ると、第一会場:服飾品(クッション、枕、傘、和服、洋服、帽子、靴など)、衛生品(哺乳器、氷嚢、氷枕、歯磨きなど)、食料品(ネッスルミルク、ジャム、カルピス、桃太郎せんべいなど)、運動品(海水着、海水帽、野球、庭球、撃剣の道具、三輪車など)、第二会場:学用品(図書、文房具、鞄、知能検査機、楽器など)、玩具(電気応用音楽入り電車、活動写真、自動車、人形、飛行機、木製、セルロイド製、ゴム製玩具など)、第三会場:木村満円堂玩具、伊勢辰木版とその実演、万国郵券、第四会場:ジオラマ(世界周遊)といった具合であった。
この第九回児童博覧会については、機関紙「三越」第十一巻第九号が記念号として大きく取り上げた。夏休みにかけて開催されたので学童の来場も多く、会期38日間で来館者数は百万人に上ったと書かれている。
児童博覧会はおそらくこの第九回が最も規模が大きかった、と同時にまた最後でもあったと思われる。
スペースを大きくとって、他の販売にも影響をあたえる大規模博覧会は次第に開催するのが難しくなっていたようであり、むしろ恒常的に繰り返し開催する適度な規模の物産展、陳列会、展覧会のほうに比重が移ったものと思われる。
三越では大正五年から「児童用品研究会」による「児童用品展覧会」を毎年開いており、これは「児童博覧会」が開かれなくなった後も続いた。例えば、大正十四年にの「児童用品展覧会」に関しては、機関紙「三越」が張り子や土人形といった郷土人形の出展を写真ページで紹介している。しかし規模は「児童博覧会」のように大きなものではなかった。
「東北名産品陳列会」という催しも始まっており、その第一回を大正六年に、第二回を大正八年に、第三回を大正十年に開いている。ここでは織物、鉄瓶、銅器、刃物、漆器、菓子類、果物と並んで、玩具、木製玩具などが出品され売られたようである。商品部の豊泉益三が半年前から計画し、東北各県を回って出品の打ち合わせをしたという記録がある。これらが後の県別物産展の始まりであって、おそらくこけしなどもここで売られたであろう。
ついでに紹介すると「児童用品研究会」によって、大正六年に「日本玩具集(天・地)」が芸艸堂から刊行されている。明治四十三年にドイツのドレスデンで開催された万国衛生博覧会に「児童用品研究会」によって出品された代表的日本玩具を版画集としてまとめたもので、巌谷小波が序文を書いている。郷土玩具関係の文献としてはごく初期のものである。

関西遠征

明治四十四年に三越の機関誌は「みつこしタイムス」から「三越」へ変わるが、その第一巻第一号、および第二号に面白い特集がある。大阪博物場で大阪府主催で開催された「こども博覧会」を三越の児童博覧会に関わっていたメンバーが見に行くのである。
この遠征軍は三越の「児童用品研究会」会員たちで、総勢八名、坪井正五郎、高島平三郎、菅原教造、巌谷小波、柴田常恵、日比翁助、武田眞一、松居眞玄である。

記事の書き出しには、「大阪府の官民相集まって二月十日より博物場で第二回こども博覧会を開く。東京では三越の児童博覧会がもう年中行事になっているが、他では珍しい。大阪は第二回とは言えその第一回は数年の以前にありて、規模もそれほど大きくなかった。今回は意気込みが違って、府当局からわざわざ我々の児童用品研究会に参考品借入のため一吏が遣わされたくらいだ。志を同じくするものが現れたことはうれしい。参考に皆で見に行くことにした。」と書かれている。
坪井正五郎は、この大阪に千島、琉球、樺太、台湾、アメリカ、シャム、ビルマ、ジャワ印度諸地方の人形を参考出品し、おまけに会場で講演までしている。遠征軍の八人はこの関西行の機会に、大阪三越で二晩続けての講演会、若林北野第二尋常小学校訪問、三越のお伽子供会参加、三越京都支店での児童研究講演会で五百名の聴衆の前で講演など、引っ張り凧の人気ぶりだったようである。
ところで、これが第二回とすると大阪の第一回こども博覧会は何時かということになるが、閑話(25)で紹介した東京上野の「こども博覧会」記事(同文館)には次のような一文がある。
「先年、大阪にて玩具の展覧会開かれたることありと聞けども、その関するところ極めて狭小にして、広く社会の注目を惹かざりしが如し。純然たる児童教育を標榜して、組織せられたる『こども博覧会』は、実に、これを以て嚆矢となすべきなり。」
また、この本の多くの執筆者たちも上野の「こども博覧会」を日本で最初のものと書いている。
とすれば、大阪の第一回というのはおそらく明治三十九年三月に大阪博物場で開いた「日本玩具博覧会」のことを言っているのではないかと思う。後々田寿徳は、「大阪博物場-楽園の盛衰」(2009)の中で、明治三十九年のこの「日本玩具博覧会」のことを「こども博覧会」と記しており、この催しの性格はこども博覧会に近いものだったと思われる。それ故、明治四十四年を第二回としたのであろう。
大阪博物場のこの第二回こども博覧会にも清水晴風は諸国の玩具獅子頭および諸国玩具十二支を出陳し、博覧会会長の平田武二より謝状を受けている。清水晴風はあるゆる博覧会への玩具出品者であり、殆ど唯一の専門家として当時は公認されていたことが分かる。
なお、山口昌男は「内田魯庵山脈」のなかで、大阪第二回こども博覧会のことを「多分これは大阪三越主催の催しであろう。坪井正五郎などが講演に赴いた記録が遺されている。」と書いているが、主催は大阪府であり、会場は東横堀川沿いにあった大阪博物場である。多忙な坪井の京都大学出張に合わせて三越「児童用品研究会」メンバーの関西訪問が計画され、その機会に大阪、京都の三越で何回かの講演会が企画されたのである。
大阪でも「こども博覧会」が非常に集客力のある企画であることを三越の日比翁助や武田眞一は身をもって知ることになる。大正二年、大阪三越にも東京の「児童用品研究会」に相当する「大阪こども研究会」が作られ、大正三年に第六回の「児童博覧会」が東京から大阪に移されて開催される。大阪三越では大正七年の第八回「児童博覧会」と二回開催された。また、昭和三年十一月には「大阪こども研究会」の企画として御大典奉祝「こども博覧会」も開催されている。大阪での三越の「児童博覧会」も、東京の方式を踏襲したとすれば、展示のコーナーがあって、その先に即売コーナーがあったであろう。そしてそこでは郷土玩具やこけしも並べられたに違いない。そしてこれは大阪の郷玩会にも何らかの影響を与えたはずである。
一方、主催者側としては「こども博覧会」の経験から、消費者の購買意欲を呼び覚ますための様々な企画が百貨店にとって効果的であることを知った。機関紙は新しい流行をいち早く伝え、季節ごとに新しい意匠で呉服、嗜好品の紹介とともに雛人形や羽子板市、そして催しものを伝えていった。今日でも集客力のある北海道展のような県別の物産展もこのころから始まっている。

大正十二年の京都大丸山形県物産展

関西の古い郷土玩具収集家でおもちゃ絵で知られる川崎巨泉は明治十年生まれ、明治三十六年ころよりおもちゃに興味を持ち郷土玩具を集め始めた。大正七年から八年にかけて出版した「巨泉おもちゃ絵集」は、玩具の文献としても「うなゐの友」についでごく初期の部類に属する。巨泉の描き残したおもちゃの絵のかなりの部分が大阪中之島図書館に入り整理され研究もされているので参考になる。しかも、その絵のうち肉筆画帖「巨泉玩具帖」「玩具帖」は「人魚洞文庫データベース」としてデジタル化され、だれでも参照できるようになっているので非常に有り難い。膨大な資料のうちこけしが描かれているものだけを参照したいなら、検索のページから「巨泉による分類」に「小芥子(こけし)」を入れて検索すると八十八枚が選ばれて出てくる。
大正初期に集めたものでは遊佐民之助があるが、当初は福島産として入手したらしい。米浪氏に教わって鳴子遊佐民之助と分かったとある。このような注記が絵の横についているのも面白い。山三から来た鳴子のねまりこも載っている。また大正十三年筒井より入手として盛一家の小寸もある。鯖湖のこけしで品川山三から米浪さんに入った手と同趣のものがあり、「渡邊角治作といふ 米浪氏の話」と注記がある。飯坂の佐藤栄治には「大正十一年頃飯坂温泉と云ひ入手せしもの」とある。
鳴子のこけしが当初大鰐産として描かれていて、実は桜井万之丞と注記のあるものもある。おそらくこれも米浪氏の教示であろう。左上図は米浪旧蔵の桜井万之丞であるが、川崎巨泉の大鰐産とされたものと全く同種の作である。巨泉の絵の別の鳴子小寸物にも「大正十年ころ大鰐産と云ひ入手せしもの 鳴子町湯元桜井万之丞作と云ふ」との注記がある。米浪旧蔵も含めこの一連の万之丞は大正十年ころ関西地方で売られたものであることが推測される。

川崎巨泉の絵には、さらに「大正十二年三月京都大丸呉服店山形県物産展求之」と注記された蔵王の斎藤源吉と思われるこけしもある。胴模様の重ね菊の描き方(赤のみの重ねで両端が下がっていない)など、岡崎一家のものではなく源吉の手法である。
右下図は鹿間旧蔵と米浪旧蔵の源吉であるが、川崎巨泉のものに近い時期の作であろう。鹿間旧蔵は西田静波亀楽堂が旧蔵していたもの、鹿間氏は戦後の梅田書房売立会で入手している。やはり、関西から出たこけしであった。大正十四年に毎日新聞社主催の大大阪記念博覧会には川崎巨泉とならんで西田静波も出品しており、彼らは同じ玩具仲間で「娯美会」の会員でもあった。この玩具仲間が大丸で同じ時期に入手したのかもしれない。米浪氏と川崎巨泉の親交はおもちゃ絵に描かれた注記からも伺える。ただ米浪氏の蒐集は昭和に入ってであるから、米浪氏の源吉は大正期に大丸の物産店で求めた人から譲られたものであろうか。(川崎巨泉のこの源吉図は検索のページから「画題キーワード」に「山形県物産展」を入れて検索すれば見ることが出来る、万之丞は「大鰐」で検索すればよい。)
川崎巨泉の斎藤源吉の絵で面白いのは、大正十二年に百貨店の県別物産展が京都で既にあり、東北各県からこけしが出品され販売されていたことを確認できることだ。大正期のこけし蒐集法としては、山三や筒井玩具店といった専門店から求める方法に加えて百貨店で求めるという方法がかなり有力だったであろう。こけしガイドなどない時代には工人に直接注文するというのは非常に難しかったに違いない。工人に直接注文できるようになるのは「こけし這子の話」や「郷土玩具・東の部」が出版されて工人の住所がわかるようになってからである。鳴子が大鰐になっていたり、福島となっていたりすることは現地収集をした山三、筒井経由で、主人の蘊蓄を聞きながら求めた場合にはまず考えられないから、これらは百貨店経由であったかもしれない。
川崎巨泉自体も百貨店との関係は深く、大正八年に大阪三越で最初のおもちゃ絵展を開催しているのである。
こども博覧会については多くの研究がなされているが、初期の「県物産展」については殆ど議論されていない。百貨店の物産店や、百貨店にまで成長出来なかった地方の勧工場は、蒐集家が工人に直接注文出来るようになる以前のこけしの流通に大きくかかわっていた可能性がある。
三越の機関紙「みつこしタイムス」および「三越」のホームページでの使用許可を与えて下さった早稲田大学図書館と株式会社三越に感謝いたします。


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