こけし発生考

本稿は昭和四十九年「木の花・創刊号」に掲載したもので、筆者二十七歳の時のもの。当時、この種の議論は全く行われていなかったので、今から見ると大変気負った書き方をしているし、文章も分かりにくい。しかし、この同人誌創刊のときには、同人それぞれが強い意欲をもって始めたので、そうした一端がこうした気負いにもつながっている。その雰囲気を大切にしたいので、そのまま掲載する。従来は「木地屋がいて木地屋が自分の子供に作ってやったのが始まり」というような議論が多かった。こけしを買った側の湯治客の視点が欠落しているではないかというのが導入部の議論である。発生についてはこけしに関するQ&Aで、この稿の趣旨を質問に答える中で説明しているが、そちらのほうが分かりやすいと思う。



橋本正明

     (一)

こけしの発生に関しては、未だ確固とした定説がない。というよりも、こけしの発生という問題が学問的な方法論をもって追求されようとした事が、一度もなかったのではないかと思う。こけしの発生に関する種々の意見―こけしの起源という視点から述べられた事もあるーは、西田峯吉氏によって総説としてまとめられている(1)(2)が、これらの意見はこけし研究、特に発生年代に関する資料蓄積や研究成果の乏しい時代に、直感的にいくつかの特殊資料を附会して作り上げたものが多い。

 物であるこけしと「共同幻想」としての<こけし>を区別し、まず「共同幻想としての<こけし>を担う主体」を正しく認識する事から始めるのが正しい方法であろう。そして、「<こけし>をになう主体」とこけしとが、どのような意味論的関係にあったかを追求する事が次の問題となる。(特定の集団=主体がこけしに共通のイメージを共有していた場合、それを「共同幻想」としての<こけし>と呼ぶ)

ただし、こけしが発生して以来、現在までたどって来た時間の経過をとおして見れば、「<こけし>に共通のイメージを抱いた主体」は年代的に漸次変化してきたという事に注意しておく必要があろう。ここでは、発生について考えるのであるから、「<こけし>を担う主体」をあくまでも発生時、少なくとも明治初期までのものと限定しておく事にする。即ち、趣味家、蒐集家、愛好家、観光客、マスコミなどの二次的三次的主体が介入する以前の「<こけし>を担う主体」であるから便宜上「一次的<こけし>主体」と呼ぶ事にする。「一次的<こけし>主体」が崩壊してゆく過程の中で、趣味家、蒐集家が加わり、新しい「<こけし>主体」を形成していった。新しい「<こけし>主体」とこけしとの意味論的関係は当然「一次的<こけし>主体」のそれとは異なり、さらに「<こけし>主体」が変化膨張するにつれてこけしの概念は不透明=あいまい性を増していったのである。従来のこけし発生説は、このようにこけしに対する概念が錯綜化していた状態で、「一次的<こけし>主体」の画定も行なわずに議論がなされたものが多く、こけし発生時の状況を必ずしも的確には、つかんでいなかったのである。

 従って、ここでは、「一次的<こけし>主体」の画定をまず行い、次に「一次的<こけし>主体」とこけしとの意味論的関係を検討しながら、こけしの発生状況を構造的に考察してゆきたいと思う。

    (二)

「一次的<こけし>主体」を簡単に二つのグループとして表現するとすれば、「作る側=木地屋」「買う側=湯治客」とにわける事ができる。「買う側」には、実際に湯治に行ってこけしを買った人の他、湯治習俗を共有する地域内にいて湯治に行きこけしを買い得る可能性のある人、即ち潜在湯治客も含める事にしよう。こけしで遊んだ子供達も当然「買う側」に含めてよい。

 湯治習俗がこけしの発生に関して重要な役割を果していた事は、しばしば指摘される。まず、こけしの発生地として可能性を残している三つの産地、鳴子・遠刈田・土湯のいずれもが湯治で賑わった温泉地であった。西田峯吉氏はこけしと湯治の関係について要領よく次のように述べている。(1)『こけしと東北地方の庶民とのつながりは、湯治からの結びつきが多かった。東北の人、わけても農村の人びとの湯治は、この地方における一つの生活文化の問題であった。毎年、田植や養蚕の後に、また秋冬の取り入れの後に、いかに多くの農村の人たちが食糧や夜具を持参して湯治の幾日かを楽しく送ったかは、東北以外の地方では想像もできないほどであった。それは次の活動への準備でもあり、ことに長い冬の風雪と戦うための備えでもあった。(中略)湯治土産にこけしはきまりものであった。現在でも、こけしが湯治場で多く作られることが、それを物語っている。湯治客の多くは温泉滞在中にこれを求めて、湯疲れや肩の凝りを癒すため、これで肩をコンコンと叩いて接摩のかわりに使用した後、お土産として持ち帰ることが多かった。』また、菅野新一氏も「こけし事典」の中で、「湯治とこけし」という項目をたてて、こけしが湯治と密接不可分であった事を指摘している。(2)

 しかしながら、こけしの最初の専門書である「こけし這子の話」(3)において既に「山間各地の木地師古老について聞き書きしたもの」を唯一の資料としており、爾来橘文策、深沢要に続くこけし研究は、「作る側=木地屋(工人)」を中心とする発想法の延長上にあり、それはそれなりに「こけし辞典」(4)「こけしのふるさと」(5)という形で一応の成果を上げてきたが、「買う側=湯治客」の研究に関しては、時折「風土」というあいまいな用語の中に押し込められる程度で殆んどかえりみられなかったと言ってよい。

 以下、従来手のつけられていない方の主体、すなわち「買う側=湯治客」に議論の力点を置いて、湯治習俗とこけしの発生の関係、特に、こけし発生の「場」である「湯治空間」の意味について考える事にしよう。

    (三)

 『東北各地の温泉場が一般庶民階級によって保養や治療のために利用されるようになったのは、文化・文政ごろからである。現在のようにレジャーを楽しむ温泉一泊旅行というようなものではなく、疲れを癒し、病気をなおし、また一生懸命に働く力を貯える事を目的としたものであった。だから温泉場といわず湯治場といい、温泉に行く事を湯治に行くといった。』(2) 湯治が必ずしもレジャーや観光気分のものではない事は、当時の交通事情を考えてもよくわかる。鳴子へは仙北の農民が多く湯治に集ったが、鉄道のない頃、馬の背にふとんをはじめ生活道具一式を振り分けにして、子供は両側の荷物の間に一人ずつ乗せて、十数里の道を湯治に出かけるのである。

 石坂洋次郎氏は蒸ノ場(秋田県)の湯治について次のように観察している。『蒸ノ湯には、病人らしい湯治客はあまり見当らない。彼等の多くは、自分の手に依って作られた米味噌を、野菜を、中には寝具を自らの体力に応じて背負い込んで来るのである。なかには数十粁離れた部落から、山越えして来る者も珍らしくはない。彼等の大半は溌刺たる体躯の所有者である。彼等にとっては、湯治は一種の宗教である。彼等は労働の余暇を善用して、健康な体躯を、いやが上にも健全にして旺盛なる労働力の保持に努め様とするのである。明日への繁忙期に備へる爲の、休養である。彼等には、理屈はない。慣習的に、ただこれを実行に移しているだけに過ぎないのである。農山漁村に在って日夜労働にいそしむ彼等にとっては、心身の慰安を、素朴な湯治に求むることは決して贅沢なものとは言えないのだ。この事実は、聖地に参ずる、殉教者の信仰に燃ゆる気持にも、一脈相通ずるものがあると観ることは無理であろうか。』(6)

 石坂氏が、湯治を一種の宗教と感じた直感を大切にしなければならない。

 宗教学では宗教的現象の基本形態として、<逃避>―<放浪>―<帰還>のパターンを提示している。ある人間が、従来の状態から特に新しい資格を身につけて別の状態に移行する時、このような基本形態をとる事が一般的とされる。エリアーデは、多くの通過儀礼(イニシェーション)の中でこうしたパターンが見られる事を指摘した。(7)<逃避>とは「日常的なるもの=俗」からの離脱を示しており、従来のものの死を意味する。<放浪>は「非日常的なるもの=聖」の空間であり、ここで新しい能力・資格を身につけるのである。<帰還>によって、再び「日常的なるもの=俗」へと新しい資格を持って帰ってゆき再生が行なわれて完結する。オーストラリアの未開社会の成人式には、この形態が良く残されており、母に象徴される古い「日常的空間」からの<逃避=離脱>、火に焙られたり割礼をうけたり種々の教育をうける<放浪>成人としての新しい資格をもって部落へ戻る<帰還>の三段階のパターンをとる。(7)

 この宗教学的な基本形態は湯治習俗にも、かなり明確に指境できる。湯治場は湯治客にとって「非日常的なるもの=聖」の空間であり、温泉にひたりながら新しい活力を身に貯える「場」である。湯治客の大部分は農民であったから、「日常的なるもの=俗」の空間は、自分達の村々における農耕生活である。こうした現象を「聖と俗」という二元論的な形でとらえるなら柳田国男氏のいう「ハレとケ」という考え方にも通じるところがある。

 イギリスの人類学者リーチによれば、人間は「時間を一定の流れとして」考えない。「時間とは交替と全休止との継続」として認識するのが最も基本的なものである。さらに、新しい時間と古い時間との間の全休止の時間に祭儀といったものが加わる。即ち、「祭儀とは、存在の正常な世俗的秩序から、異常な聖なる秩序への一時的な転換であり、またその逆もどりを表象するものである。」(8)このリーチの指摘に従うなら、人間は単位時間毎に、古い時間として死に、新しい時間として再生する祭儀を「聖なる時間空間」において行うという事になる。農耕民族を対象として考えるならば、栽培植物との関連から、基本的な周期として「一年」という単位をもつ以上、古い一年として死に、新しい一年として再生する祭儀を持っても不思儀はない。

 こうした人類学的な方法論にたった研究の一例として西郷信綱氏の古事記に関する報告(9)を紹介しておこう。西郷氏は、天孫降臨を天子の再生儀礼と解釈し、大嘗祭の神話化された姿であるとする。天子は「五穀を豊能ならしめる責任と能力」をもつべきものとされており、その能力は基本的な時間単位である一年毎に更新されなければならない。即ち通過儀礼の成人式と同様に「古い身分として死に新しい身分として生まれかわるという変身の過程を通らねばならなかった。」現に大嘗祭で天子は「水穂の国の君主たらんとして、稲の初穂を食べるとともに、殿内の中央の神座で衾にくるまり、そこに臥す所作を演じたものと推測される。それは子宮の羊膜に包まれた胎児の状態にもどつてこの世に再誕しようとする模擬行為で、ホノニニギが生まれたての嬰児として、または真床覆衾にくるまって天降ったというのは、かかる過程の神話的表現に外ならない。」

 議論を整理しよう。人間は基本的に時間を古い時間と、新しい時間の交替として認識する。古い時間と新しい時間の間に、聖なる時間が入り、そこで祭儀が行なわれる。農耕社会では基本的な時間の単位は一年であり、「非日常的な時間=聖の秩序の支配する時間」には豊饒なる農作物を得る資格を更新する再生の儀礼が行なわれる。その代表的な例として大嘗祭の意味を古事記研究の立場から見た。

 以上の考察をふまえて、湯治という習俗を位置づけるなら、これは明らかに一年を周期とする農耕期間と農耕期間の中間に入る「聖なる空間」における再生の行事と考えてよいであろう。湯治が秋の収穫の後に行なわれるのが本質的な形であったという事も、こうした考えからうなずけるのである。リーチにならって時間の流れを表現すれば、左図のようなダイアグラムによって示すことができよう。

 農民は、「聖なる空間」である湯治場で、母なる大地の子宮としてのイメージをもつ温泉にひたり、来る年の五穀豊能を得る新しい力を身につけて生まれかわるのである。

    (四)

 それでは「再生空間」である「湯治空間」を、湯治客達はどのように構成していたか。「聖の時間」である湯治場で行なわれる習俗は、大嘗祭の厳粛な形式性とは対照しあう形の、むしろヨーロッパにおける中世のカーニバルに近い、乱痴気騒ぎという一面をももっていた。即ち、湯治場では「日常的なるもの=俗」の空間における全ての約束事、拘束から自由になり、湯治客全体がこの「湯治空間」の主役となって積極的・肯定的な行動をとり、物質的・肉体的原理に従って活き活きと生活する。湯に入りうたい、笑い、踊り、貪欲に食べ、酒を飲み、同室・隣室の人々、ひいては全ての湯治客とわけへだてなく全体的な「湯治空間」を作り上げるのである。例えば、八月肘折温泉の中央通りに面した自炊部屋の廊下では、上半身裸体の中年婦人達が大勢集って、全く開放的に卑猥な言葉を投げあいながら笑い興じていたり、酒を汲みかわしながら、自分達の郷の歌をうたったり、おどったりしている光景を現在でも見る事ができる。

祭儀というものが、厳粛なる形式性と、乱脈なるドンチャン騒ぎの二面性をもつ事は、よく指摘されるが、乱脈なるドンチャン騒ぎの中に、重要な意味を発見する人は少ない。しかし、バフチーンも指摘するように、このようなカーニバル的なもの、祝祭約なものが実は「人類文化の極めて重要な第一次的な形式」(10)なのであり、この祝祭的な空間こそは、人類の最も原初的なエネルギーの昂揚する「場」でもあったのである。そして、ドンチャン騒ぎの持つ両面的価値(アンビヴァレンス)、即ち古きものを殺し、同時によみがえらせつつ更新させる性格が、「湯治空間」の基本的な性格であり、こけしの発生をうながす母胎であったと考えられるのである。 

    (五)

 「作る側=木地星」と「買う側=湯治客」が「湯治空間」で接触し、互いに緊張した精神構造をもってかかわりあいながら、こけし発生の「場」を形成していった過程については、別稿で既に述べた(11)。ここでは、こけしが湯治習俗とどのような形で関係をもっていたかを考える事にしよう。今まで述べてきたような「湯治空間」においてこけしが発生した以上、こけしは「湯治空間」において何らかの役をになっていたと考えてよい。その「役」が何であるかを追求する事が、こけし発生論の重要な課題である。追求の方法としては、「<こけし>主体」において、こけしがどのような意味をもっていたかを、「<こけし>主体」であるかつての湯治客に直接聞いてまわるのが一番てっとり早い。しかし「買う側=湯治客」からの聞書は今まで殆んど集められていないのが現状であり、今となっては「一次的<こけし>主体」として「湯治空間」とかかわりをもった年代の人々が、どの程度生存しているか問題である。

 こけしの「役」を考える場合、鳴子の工人故高橋盛老が私に語った言葉は紹介に足るものと思う。「昔は湯治にくれば必ずこけしを買って帰ったものだ。こけしを持ち帰って近在の子供のいる家へ配らなけれは、湯治に来た効能がないと言っていた。丁度、神社へ行って、御札を買って帰るようなものだ。」

 高橋盛老の言葉にどの程度の意味があったかはわからぬが、こけしが湯治客にとって単なる玩具以上の意味をもっていた事は想像にかたくない。こけしが子供の玩具としての性格をもつ事は疑いようもないが、それと同時に「再生」の象徴としての「役」をもになっていたと考えるのは、無理な事ではないだろう。農民は「湯治空間」において、新しい能力を身につける「演技」を行うとともにその具体的な形をこけしの中に見ていたのではないかと私は考えている。それは「新しきもの=未来=子供=明るいもの=豊かなもの=生まれいずるもの」の象徹的表象である。

柳田国男は、こけしをオシヤブリと同系統のものとみなし、「あんなオシヤブリのような小さな玩具でも、やはり最初は、御宮笥であり、日本人の信仰から生まれて発蓬したもの」と言っている。私自身はこけしとオシヤブリを別のものと考えているが、柳田氏のいう「御宮笥」という考え方には注意を払っておいてよいと思う。神社等の「聖なる空間」に出向いて、神より何らかの霊現をさずかり「俗の空間」へ戻ってくる時、その象徴としての「役」が「御宮笥」にあるとすれば、こけしにも広義の「御宮笥」的性格を見てとれるからである。ただし、こけしにはより積極的で肯定的な性格があり、「湯治空間」の両面的価値を反映して、全てをまきこんで殺し、同時に更新させる力強さがあったと思う。

 以上のような状況を見てくると、こけしは木地屋側が一方的に思いついて作り始めたというより、こけしという「共同幻想」が湯治客側に前もって存在し、そのイメージにこたえるという形で木地屋が作り始めたと考えるべきであろう。

 こけしの発生年代は、湯治習俗の確立する文化・文政以後であり、赤物技術の伝承という事を考慮に入れれば、土湯・遠刈田で天保以後、鳴子では安政以後という事になる。 多くの宗教的な意味が、速やかに童戯の中へ吸収されていったように、こけしも発生以後は、漸次子供の「もてあそびもの」的性格をつよめ、明治十年頃には玩具として、都市でも売られるようになった。しかし、売られる場所も、はじめは小正月の松焚き神事でにぎわう大崎八幡参道であったり、山形の初市等、「非日常的空間」にかぎられていたようである。都市の「おもちゃ屋」の店先で一年中売られたという事は、一、二の例外を除いて殆んどなかったといってよい。「もてあそびもの」としてのこけしも、「湯治空間」と結びついていたイメージからは、そう簡単に自由にはなれなかったようである。

 本稿では、「一次的<こけし>主体」の画定をおこない、こけしが重要な「一次的<こけし>主体」の一つである湯治客との関係の中で、本質的な意味をもっていた「場」としての「湯治空間」について考えながら、こけしの発生を追求してきた。ただし、こけし発生論の完全解答を目指したものではなく、こけし発生を考える上での最も基本的な方法を示したにとどまった。 本稿をまとめる際、貴重な御意見を賜った松田徹氏に心から御礼を申し上げたい。

           (Jan. 1, 1974)

《引用文載》

(1)西田峯吉=こ」けし風土記(未来社、一九六八)

(2)菅野新一監鯵…こけし事典(岩崎美術社、一九六八)

(3)天江富弥…こけし這子の話(郷土趣味会、一九二八)

(4)鹿間時夫監修…こけし辞典(東京堂出版、一九七一)

(5)菅野新一他編…こけしのふるさと(未来社 一九七二)

(6)石坂洋次郎編…東北温泉風土妃(日本旅行協会 一九四〇)

(7)M・エリアーデ=・生と再生(東大出版会、一九七一)

(8)E・R・リーチ…時間と象徹的表象に関する二つのエッセイ(平凡社、一九六九)

(9)西郷信綱・‥古事記の世界(岩波書店、一九六七)

(10)M・バフチーン…フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化(せりか書房、一九七三)

(11)橋本正明…こけし発生の「場」こけし山河13 (大阪こけし教室、一九七二)