西門猴


西門猴は鋭敏というわけではないが実直な人柄だった。こつこつと努力を積み重ねて、齢五十を過ぎたころようやく太平府当涂郊外の郡の長官に就いた。西門猴は幼少のころより、自分の遠い祖先の西門豹の逸話を絶えず聞かされていたので自分もあの西門豹のような偉い人になりたいという志を抱いていた。

 

西門豹は孔子の弟子子夏に学んだはるか昔の人物、魏の国、鄴の長官に赴任したときの逸話が知られる。

西門豹は鄴に赴任すると、近隣の農民たちに強い怨嗟の声があることを知らされた。この地方には毎年黄河の河神に生贄をささげる風習があり、この生贄には特に器量のよい娘が当てられた。薄い木の船に筵をひいて娘を座らせ、絹の幕で飾り立てて黄河に流すのである。船は華奢な作りだから半里も進まずに、黄河に沈んでゆく。西門豹が着任すると早々に生贄を流す儀式の日がやってきて、選ばれた娘の親は悲しみに泣き叫んでいた。見かねた西門豹はこの儀式を取り仕切っている巫覡の長を呼んで言った。

 

「この娘は黄河の河神に捧げるには器量が少し不足しておる。今年は中止しよう。」

すると郡の長老たちは、「滅相もない、きっと祟りがあるに違いない。旱魃がやってきます。」と一斉に反対した。この長老たちは生贄の儀式を取り仕切る巫覡の長と共謀して、近郊から多額の賦課金を徴収していたのだった。西門豹は巫覡の長に向かって「それでは娘の替わりにお前が河神の所へ行って、今年はお気に召すような娘は居りませんと丁寧に申し開きをしてこい。」と言った。目を白黒している巫覡の長をさっさと船に乗せて川に押し出すと、船はまもなく沈んでしまった。しばらく様子を見ていた西門豹は、「何も返事がないな、今度はお前がいくか?」と郡の長老たちに言うと、「とんでもございません、ご勘弁を。」ということで、長く続いたこの悪弊もこの時から中止になったという。この西門豹の差配の妙は長く鄴で語り継がれた。

 

ところで西門猴が着任したのははるか南の長江流域であったが、ここでも同じような風習があった。雨の多い長江では旱を防ぐためではなく、洪水を防ぐために夏の終わりに娘の生贄を捧げていたのである。

 

西門猴は、「ああこれぞ天の配材であろう。私がこの悪弊をやめさせないで誰がやめされることができるというのだ。はるか祖先の西門豹の叡智を再び活かす時が来た。」と大いに張り切った。

生贄の儀式の当日、威風堂々と現れた西門猴は「この娘は確かに別嬪だが、長江の河神が喜ばれるには少しく器量が足りない。今年は中止しよう。ただ中止するのでは洪水などが起きるかも知れぬ。巫覡の長よ。お前が替わりに長江の河神のところへ言って申し開きをしてまいれ。」

 

ここで巫覡の長が泣き叫んで許しを請うものと思っていたところ、「ははっ、確かに承ってござる。」と娘の変わりに小船に乗り込むとひとり沖に向かって漕ぎ出し、やがて霞の向こうに消えていった。

 

しばらくすると、あの巫覡の長は平然と岸伝いに歩き戻って言うには、「西門猴様、長江の河神に申し開きを行いましたところ、さようか、それでは新しい郡の長とゆっくり話をしてみたいとのことでございます。是非、いらしてくださいませ。幸い船はもう一艘用意してございます。」という。

 

西門猴は、不審におもいながらも、あるいは本当に長江の河神と会えるかもしれないと半ば期待もしながら小船に乗り込んだ。巫覡の長が船を押し出すと西門猴を乗せた小船は川の流れに乗って沖へ沖へと下って行った。そしてその後、西門猴を見たものは一人もいない。巫覡の長は「河神の宮の一日は十年にあたるという、西門猴はそれを知らずに、河神に引き止められるまま長逗留しているに違いない。」と言ったので誰もそれを疑うものはいなかった。

 

実は、この生贄の儀式というのは巫覡の長と江賊とが企んで続けていたもので、川に流された器量のよい娘を江賊が待ち受けてかどわかし、当涂の色街や金持ちの妾に売り渡していたものだった。当日、流されてきた巫覡の長とそれを受け止めた江賊の一味とが一計を案じて、この喰えない西門猴をおびき出し、河の真ん中で殺して沈めてしまったのである。

 

木人子曰く、西門豹は、孔子の弟子子夏について学んだ。孔子始めその門弟の儒家の人たちは、もともと旱に雨乞いをする巫覡集団の流れを汲む。したがって、鄴の雨乞いの巫覡に比べると西門豹自身がはるかに格の高い巫覡だったのであり、相手の手の内は十分読み取っていたはずである。西門猴は、西門豹が優れた道徳家であることは知っていたが、巫覡に長じていたことまでは知らなかった。相手の能力を把握できていないのに、無闇に策を仕掛けるというのは賢い人のすることではない。

 



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