雛苑


湖洲府の楊晨は、府の通版まで勉めた。通版は、知府・知州にたいして官は低いが同等の権限が付与され、上下関係はなく、兵民・銭穀・戸口・賦役・獄訟を管掌する重要な役目だった。功なり名を遂げて、引退したが、妻はすでになく、子供たちは独立して他府に移っていたので、自由気ままに暮らしていた。美酒を少し嗜み、詩を吟じることを無上の喜びとしたが、紅燈の巷を彷徨い、若い妓娼と遊ぶことも臆さなかった。ただ、六十を過ぎると体力の衰えはいかんともしがたく、やはりそれが無念でならなかった。
ある年の春、例年にない寒さもようやく去って、桃李の花開く気持ちよい季節に浮かれて、苕溪河岸をぶらついたあと、馴染みの陽湖楼に寄ってみると、遣り手婆が出て来て、今宵はこんなによい気候ですもの、残念ながら女の子はみんな塞がっていると言う。せっかくの気分がなんとなく拍子抜けしたような気がしていると、遣り手婆は、一人だけ居るには居るのですが、旦那の馴染みではないからと言う。ただ、非常に珍しい子で滅多に客を取ることはない。嫌でなく遊んでいただければ決して損する事はないと付け加えた。
まあこんな時だ、どんな娼妓であろうと相手があって、美味い酒が飲めればいいと、楊晨は登楼して部屋で待つと、金雛苑という名のその娼妓がやってきた。雛苑を見た楊晨は吃驚仰天した。見上げるように大きく、しかも堂々とした体躯をしている。まるで部屋が急に一回りも小さくなったような感じだ。しかし、顔は身体に比べて小ぶりで、しかも美しい。幼いような表情もあり、一方で妙にろうたけたところもあって年のころは見当も付かない。
口数は多くはないが、表情はやさしく穏やかで、一緒に居るだけで何となく気持ちが落ち着いてきて、居心地がいい。楊晨は、この巨体はともかく、この雛苑は意外に掘り出し物かもしれないと思った。窓は開けはなれて、李の香りも何処からか漂ってくる。雛苑の酒の酌のしかたも、こちらの気持ちにそって、申し分ない。遠く、管弦の響きも情緒があり、今日は良い日になったと感じていた。
宵も深まって、隣室の臥所に雛苑とともに移り、枕を並べてみると雛苑は羽根布団のように柔らかく、触れるたびに手が吸い付くように微妙にゆれる。まるで大木に蝉が止まっているようじゃないかと自分ながら可笑しくなったが、幸せな気分が一杯になるので、気持ちの動くままに楽しんでいた。楊晨の気持ちが徐々に昂まっていった時、急に身体が引っ張られるように感じたかと思うと、急激な勢いで一物からスポンと身体全体が吸い込まれて真っ暗闇になってしまった。
気が付くと暗い中に、一筋の光が見える。その光を頼りに、這って進んでいくとやがて周りはだんだん広くなって、やがて立って歩けるようになった。洞窟の向こうは急にひらけて、その先には盆地があり、その底のほうに桃李の花に囲まれた小さな村が見えてきた。楊晨は下り坂を注意深く進んで、その村へと入っていった。暖かい春の日に包まれて何か懐かしい小村であった。村の小道にたたずんでいると、次々に村の人たちが現れて、楊晨の周りに集まってきたが、よく見ると遥か昔に亡くなった楊晨のお祖父さんやお祖母さん、更に両親も居て笑顔で楊晨を迎えていた。両親の向こうには、懐かしい妻のうれしそうな顔も見える。みんなは楊晨を促して、一軒の家に向かうと、そこには見たこともないような御馳走が並べられていて、いい香りの酒も用意されていた。楊晨は懐かしい人たちと満ち足りた気分を満喫し、時の経つのも忘れて心ゆくまで楽しい日々を過ごした。やがてお祖父さんが、「楊晨や、もうそろそろ、ころあいになった。これ以上居るとよくないだろう。これは取って置きの酒だ。思い切って飲みなさい。」という。それを口に含むと花の香りが一杯に広がったような気分とともに、意識がだんだん薄れて、やがて何もわからなくなった。
楊晨が気がついたのは、身体全体がなんだかぬるぬるして、部屋の真ん中に投げ出されたときだった。見ると隣に雛苑も横たわっており、汗をだらだら流してぐったりしている。外は明るく、もう日は高いようだ。ただ雛苑とこの部屋に入ったあの春の日と違って嫌に部屋の空気が冷たくなったように感じた。
しばらく、ぼんやりしていると、階段をとんとんと上がって遣り手婆がやって来た。これはこれは楊晨様、お生まれ変わりおめでとうございますと言って、銅の鏡を渡してくれる。その鏡で自分の顔を見て楊晨は吃驚した。六十過ぎの自分の顔はそこには無く、代わりに若々しい男の顔があった。それが二十代の自分の顔だと気がつくにはしばらく時間がかかった。
遣り手婆は、にこにこしながら、もう明日は正月ですよといって、窓を開けると急に寒気が部屋に入ってきた。外は全くの冬景色だった。九ヶ月の間ご苦労様でしたなどという。自分は月が満ちるまでそんなに長い間この雛苑の身体の中で過ごしたのだろうか、そしてあの村はいったい何だったんだろうか、そう思いながら部屋の隅にたたんである自分の着物を身につけていると、着物の間からはカラカラに乾いて色の変わった李の花弁が床に散った。確かに時は流れていたのだ。
楊晨は人に多くを語らなかったが、その若返りは、湖洲府の一部で評判になった。陽湖楼に秘密があると察した人が、何人かその妓楼に登ったが、楊晨と同じような経験をした人は居ない。
楊晨は、若返っても二度と官職には就かず、悠々自適に暮らした。陽湖楼にはよく訪れて、驚くほど身体の大きな娼妓を贔屓にして、母子のようにうちとけて過ごしていたという。百二十歳まで矍鑠として、その後行方は知れない。
 

木人子曰く、命を生み出すのも不思議だが、年を若返らせるというのも不思議なことだ。楊晨にどのような福があって、若返えることが出来たのだろうか、私にはただ欲がなく自足の出来た人というだけに見える。



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