華陽楼

江寧府秣陵の蕭雲戴は謹厳実直な男で、地方官を長く勉めた。

雲戴の遠い祖先である蕭子雲は、遥か昔、南北朝の梁の時代に道術を極めて盛名の高かった陶弘景の弟子の一人であったと聞かされていたので、道教にも深い関心があり自分もいつかは俗事から離れて、仙人の道を学びたいものだと考えていた。雲戴は、とりわけ世事を巧みに渡ると言う風ではなく、官位もそこそこにとどまっていたが、根が真面目一方なので、仕事の手を抜くということが出来ず、いつの間にか齢も五十を過ぎるところまできてしまった。

そろそろ官職から退くころあいと考えていたので、この機に昔からの夢を多少なりともかなえたいと、陶弘景が隠れ住んだと言う句曲山を訪ねることにした。句曲山は、別名茅山ともいい、秣陵からは東約五十里ほどのところにある。

陶弘景はこの茅山に四十五年間隠棲し、多くの門弟を指導しながら、八十種の著作を残した。唐の玄宗皇帝も、道教をことのほか大切にしたので、第一福地大八洞天であるこの地に紫陽觀という道観を建立したと伝えられる。

雲戴は、この歳に成ってみれば、自ら修行をして仙人の道を歩むことは無理だとは感じていたが、長年心に抱いていたことなので、自分の祖とも関わりのある道教の聖地茅山を訪ねることには格別の感慨があった。

重陽の登高にあわせて、雲戴は妻彩雲と家僕三人という少人数で茅山を目指した。茅山は思ったほど高くはなかった。約千尺位であろう。元符万寧宮・九霄万福宮・崇禧万寿宮などの道観が立ち並んでいて壮観である。

こうした道観を巡り歩いた後、家僕を宿に帰して、雲戴と妻彩雲は二人で裏手の山の方にまわってみた。やや霧がかかっていたが、道がしっかりしているのでかまわず進んでいくと、頂上と思っていたところから更に上に向かう石段がある。どこに行くのだろうと妻の手を取ってかなりの高さまで登っていくと、少しきりが晴れて、石段のさきに右手に向かう道があり、その先にまた別の道観が見えた。

この道観は不思議な造りで、上のほうにも下のほうにもいくつもの道観が数珠のように連なっている。雲戴夫婦が入ろうとしている道観には扁額が懸かり、華陽楼五十八眺雲臺と書かれていた。中に入ると、道観の中央の太い円柱にも五十八眺雲臺と墨書されている。なるほどここは眺めがよく、遥か下に続く道観、上に続く道観が霧の間に間に見える。

道観と道観は数段の階段で渡ることが出来るようだ。雲戴夫婦は渡りの階段を降りて次の道観に向かった。そこには五十七待望臺と書かれていた。なるほどこの下には更に五十六の道観が続いているのだ。二人は手に手を取って次々に下の道観へと向かった。似たような造りだが、老子像があったり、道教の偉人達の像があったり、それなりに興味は尽きない。

三十五衰全臺はやや手入れも悪く、軒が傾いていて壊れそうになっていた。二十、十を過ぎて七太陰臺まで来たとき、妻彩雲の姿が見えないのに気がついた。いくら呼んでも答えが無い。雲戴はあわてて八雲生臺に戻ると、そこに妻彩雲の姿があった。どうしてついて来ないのだと訪ねてみても、彩雲の答えは要領を得ない。道観はここまでだと言う。

仕方が無いので二人はまた一つ一つ道観を登って、五十八眺雲臺まで戻った。せっかく来たのだし、今度は上に行ってみようと、進んでいくと、六十八懐雲臺を過ぎて、六十九孤雲臺まで来たとき、再び妻彩雲の姿が消えていることに気づいた。彩雲はまた六十八で待っているのだろうと雲戴は一人でずんずん登っていくと、七十五飛天臺に至り、そこから先にはもう道観は無かった。

飛天臺には黄帝の像が据えられていた。円柱には七十五飛天臺、さらに墨書で合雲飛天と書かれていた。飛天臺の窓を通して眺めると連なる道観の屋根が、折れ曲がった一筋の鎖のように下に向かって続いている。雲戴は自分は仙人にはなれなかったが、このように珍しい道観華陽楼を見ることが出来たのは幸せなことだ。しかも最後の黄帝像をも拝むことができたと大いに満足して、またもとの五十八眺雲臺に向かった。

やはり、妻彩雲は六十八懐雲臺のところで待っていた。二人は無口のまま五十八眺雲臺から外に出て、石段を降りてもとの道を引き返した。

この茅山登高以来、雲戴はますます俗事に恬淡となり、やがて官職を辞して秣陵郊外のさっぱりした閑居に引きこもり、真誥、登真隠訣、真霊位業図、養生延命録、本草集注、補闕肘後百一方、華陽陶隠居集など陶弘景の書を読むことを日課とした。

雲戴六十八歳の時、妻彩雲が病気になって世を去った。雲戴はあらかじめそのことを知っていたように晩年の彩雲をいとおしんだ。やがて雲戴は七十五歳になったとき、自分はもう天に羽ばたくときが来たと身辺整理を始めて、静かに世を去った。

雲戴の親友で晩年よく道教の奥義について語り合った沈子約は、雲戴からこの茅山道観華陽楼の話を聞いている。雲戴はうすうすあの道観が自分の人生そのものを表していたに違いないと思っていたようだ。妻彩雲が雲戴六十八歳の時死んだので、それは確信に変わった。「彩雲の寿命は私が六十八歳の時に尽きる、だから六十八懐雲臺より上には行けなかったのだ。妻の生まれ年は私が七つの時であった。だから彩雲は七太陰臺より下には行けなかったのだ。自分はほとんど病にかかった事はないが、三十五の時に一度だけ大病をして死にかかったことがある。だから三十五衰全臺は壊れかかっていた。自分は七十五歳で飛天するだろう」と。 

 

木人子曰く、私はこの蕭雲戴の話を沈子約から聞いた。茅山には私も行った事があるが裏山に鎖のように連なる道観などは無かった。蕭雲戴は長く実直に官職を全うし、その間も仙人の道を慕い続けた。雲戴の祖、子雲の縁が有ったのだろうか、雲戴は荘重として連なる道観華陽楼に訪れることが出来た。自分の寿命をあらかじめ知ることは決して幸福なことではない、まして伴侶の寿命を知ることは苦しいにだけだ。ただ最後の道観には合雲飛天とあったから、ここで彩雲と再会してともに天に飛ぶことを思って、安らぎを得たかもしれない。華陽楼とは何か、陶弘景が弟子を養成した華陽館と関係があるのか、私は知らない。



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