木人子閑話(2)
橘文策「こけしと作者」のこけし
「あの頃のこと」
大阪の「筒井」の思い出を橘文策は「こけしと作者」(昭和十四年刊)の中でこう書いている。
「大阪の堺筋で立派な外国工芸品店を経営していたMさんの先代Tさんが、日本橋南詰を東にはいった北側で、丁度道頓堀川を背にした可愛いらしい郷土玩具店を開いてゐた頃のことである。・・中略・・もう記憶も大分怪しくなってゐるが、表口には『傳説のおもちゃ店』といふ看板がかけてあったと思ふ。間口一間半位の右寄が小さい飾り窓になってゐて、いつも數点の玩具その他のものが並べて有った。・・中略・・流石にどれを見ても錆がのったり、手垢の光ったりしたもの許りで、自分等の持ってゐるものに較べて、何とも言へない深い味を含んで、例へ一個の玩具にしても骨董品の畳を摩すやうな逸品が多いやうに見えた。何時であったか、右側の棚で私は一本のこけしを見付けた。全体飴色になってゐるところから推すと、相当年代を経たものと思われるが、彩色は少しもあせたとは思はれない、胴の割に頭の大きい六七寸のものだった。・・中略・・何処の産だらうと思ってゐると、畳敷の火鉢によりかかって先刻から私の様子を見つめてゐた、あのホッソリした女将さんが福島県のこけしだと教へてくれた。このこけしも東北生まれか・・・そんなことを考へながら買取ることにした。多分八十銭だったと記憶する。家に帰ると早速本棚の前に座って、重なり合った玩具の中からこけしを拾ひ出して一つ一つ較べて見たが、持って帰ったこけしは、どれとも似たところがなかったので、私はとてもいいことをしたように嬉しかった。新来の珍品は特に棚の前の方に立てて何処からでも見えるやうにして置いた。その日から、私の憂鬱な勤人生活にも一抹の明るさを見いだすことが出来た。」
とあって、これが橘文策の本格的なこけし蒐集のきっかけとなった。このこけしは飯坂の佐藤栄治(慶応元年〜昭和三年)作で、「こけしと作者」九ページの群像写真中にある。
同様の記述は、戦後昭和五十三年になって同著者によって発刊された「こけしざんまい」(未来社)の「思い出のこけし・思い出の作者」でも見ることが出来る。
「大阪市西成区粉浜本町に住んでいたころ、道頓堀の筒井という郷土玩具店の棚で、風変わりな人形を見つけて、店の女将さんから、飯坂のこけしだと教えられた。数年前に主人といっしょに福島県まで出かけて買ったものだという。このこけしは、高さ六寸ほど、全体にやや茶色をおび、手ざわりもとろりとした所があって、きのう今日の出来ではなさそうであった。頭の頂やや平たく、三日月形の眉と眼、バチ形の鼻、赤い小さい唇、下でやや開いた胴には四タッチの赤い花に、緑の幅広い葉を四、五枚つけたみずみずしいアヤメを描き、上下に入れた紅の線の艶やかで、魅力的であった。」
橘コレクションは、戦後橘文策が満州から引き揚げてのち事情があって手放され、大部分が本田貫一(西尾市)の手に渡った。ただし、古鳴子など逸品数点は橘氏の手許に残され、後年(昭和五十三年)神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」で初めて公開された。また、「こけしと作者」紹介の何本かのこけしは友人の石井真之助の手に移って残った。この写真の飯坂こけしも石井氏の手を経て現在に伝わったもので,橘文策が「筒井」で入手した記念碑的な一本である。
「こけしざんまい」の頃はもう手元にはなかったこのこけしを、橘氏はまだ正確に記憶して記述している。
この形態の栄治のこけしは、深沢コレクション、天理参考館等にもある。いづれも三日月眼に撥鼻、紅の口、胴には四辨の花を描く。ただ顔の表情の異様な迫力はこのこけし独自のものであり、橘さんが永く愛着を懐いていたのも頷ける。
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