橘文策は昭和十三年発行の「木形子 第三號」に次のように書いて高橋忠蔵を初めて紹介した。
「高橋は伊達郡小国村の生まれで、百姓であったが十八歳の時木地屋を思ひ立ち、鯖湖の渡邊角治に弟子入りして八年間修行した。大正七年此地に移り木地店を開くと同時にこけしを作り始めたがあまり賣れなかったといふ。私が昭和十二年春訪ねた時には、開業当時作ったといふこけしが數本、半ば退色したまゝ店棚にゴロゴロしてゐた。純然たる土湯系統で、鯖湖こけしそっくりな、懐古的な佳作である。」
橘文策は、昭和十二年訪問時にこの古作を何本か手に入れて、蒐集家に頒けたから古いコレクションの中にこの手をときどき散見する。左の図版は石井真之助旧蔵品であるが、鳴子「日本こけし館」の深澤要蒐集品はもっとグロ味のある快作だった。いづれも原の町に移って間もない大正中期の作である。
高橋忠蔵は昭和三十五年東京都日野市百草園に移って、この地でもこけしを盛んに作ったから、戦後の蒐集家で忠蔵の温かい人柄に接してファンになった人も多い。
ところで橘文策は同じ「木形子 第三號」に次のような興味あるコラムを書いている。
「昭和十二年春、原の町の作者高橋忠蔵さんを訪問した時のこと、話半にして忠蔵さん「珍しいこけしを進呈しましょう」と言って奧にはいって行った。押入を開閉したり、足踏みを持って来て棚の上を掻き廻したりする気配がしてゐたので、私は何が出るか興味を持って待った。半時間も経って出て来た忠蔵さんは興奮した表情で「確か揃っていた筈ですが見つかりませぬ」といって残念そうに座った。私も一寸気を抜かれたが、煤けた手にこけしの抜首が一個握られてゐるのを見た。私に見せやうともしなかったが、チラリ見るなり、それが鯖湖らしいので思わず手を出してしまった。忠蔵さんは、掌から指先に握り変え、それを横腹の辺に持って行ったと思ふと、着物でツルリと一撫でしてから私に手渡した。目尻の上がった確かに鯖湖の描彩で、径一寸五分程の頭であったがなかなかの佳作であった。忠蔵さんの説明によると、二十年程前、師匠渡邊角治さんに別れてこの地に開業の折、見本として貰ひ受けて来たこけしだそうである。時々子供の玩具になることもあって胴が離れてゐたが確かにあった筈だとつぶやいてゐた。私の鑑定に違わず、轆轤は角治老、描彩は妻君きんさんであった。片輪ものでもよかったら持って帰ってもいいと言ふので、早速その場で、忠蔵さんに赤と黄のダンダラ模様の胴を作って貰った。頭と胴との釣合といひ、彩色といひ、すっかり息が合っている。これで師弟三人の合作こけしとなったので、珍中に加えて愛蔵してゐる。(昭和十三・六 橘)」
ところで右の図版はやはり高橋忠蔵の所から出た物、これも石井旧蔵品で石井氏自身も橘文策と同じように「忠蔵が原の町で開業するとき見本に鯖湖からもってきたものだ」と生前話していた。橘氏のこけしが何本か石井氏のところに入っているから、これが橘旧蔵で「木形子 第三號」の「思い出のこけし」実物なのか、それとも別ルートで石井氏が同様に入手したものか分からない。図版の鯖湖は頭径一寸、赤と黄の胴にはあやめが描いてある。この鯖湖もさすがに大正中期のもので小寸ながら、表情は艶やかで気品がある。
胴下にはまだ切り離す前の用材が残っている。ある人は鑑賞の妨げになるから切り離した方がいいという、別の人はこれが残っているのが貴重だという。このこけしの伝来がはっきり解るし、鑑賞にもそれほど気にならないので私は残している。
ところで鯖湖とはなにか。飯坂にある古い温泉名である。この鯖湖湯の近くに土湯から明治三十二年に渡辺角治(明治十年〜大正十一年)が移り住み、明治三十七年頃から木地屋を開いてこけしを作り始めた。土湯山根屋の名工作蔵の二男だけあって木地は巧みであったが、描彩はせず、当初は八幡屋の栄治に依頼していたという。やがて妻女のキン(明治十四年〜昭和十六年)が温泉宿山形屋の主人などに教わって描彩を始めた。女性らしい柔軟な筆致で、艶と張りのある情味あふれるこけしを作った。蒐集家はこの角治木地、キン描彩のこけしを「鯖湖」と呼んで、その懐かしい言葉の響きとともにそのこけしを大切にしたのである。それ故、橘文策は思わぬところで出会った鯖湖に感激し、夫婦師弟合作のこけしを珍中に加えて愛蔵したのだった。
ここに掲載する鯖湖の群像は、昭和四十九年「木の花」創刊のために同人が橋元四郎平氏宅に持ち寄ったもので、今から見ると記念碑的な写真となった。左より中屋蔵六寸、中屋蔵尺(「こけし這子の話」掲載)、久松蔵七寸五分、久松蔵七寸である。この時の写真は、「木の花」創刊号巻頭の連載覚書第一回“鯖湖こけし”の中でモノカラー版が紹介された。