木人子閑話(6)


武井武雄「日本郷土玩具」と金蔵

 武井武雄の「日本郷土玩具東の部」は昭和五年一月に出版された(昭和九年四月に「西の部」と合わせて再刊行された合本もある)。この本は日本全国の郷土玩具を体系的に紹介した百科全書的な名著であるが、こけしに関しても昭和二年の天江富弥著「こけし這子の話」以後新発見の十七産地(花巻、盛岡、湯田、中尊寺、下原、滝ノ原、大館、大湯、湯沢、銀山、及位、酒田、米沢、向町、芳泉、岳、中ノ沢)を加え、当時の最も信頼できる手引き書でもあった。さらに各作品には武井武雄の印象的解説がついているので、自ずからこの時代の作品の評価に決定的な影響を与えた。
ここに掲げた図版は「日本郷土玩具東の部」一二七頁の福島県のこけし紹介であるが、武井武雄は次のように解説している。「ここには五人の作者があり各々異なった特質を見せているが、由緒古い土湯系として共通の特色は頭の蛇の目様式と胴の轆轤描きの横縞とにある。最も異色あるものは斎藤太治郎の支那人形らしいフレッシュな美しさと、阿部治助の化けて出そうな薄汚い怪奇魅力と、阿部金蔵の華やかな可憐さとであろう。一体にこの系統は細長いのが通例であって概ね小ぶりのものが多いが、金蔵の二寸級の豆こけしなどは、眼の中に入れても、という程可愛い出来である。」写真右より三本目は「こけし這子の話」を踏襲して阿部治助としてあるが、じつは渡辺作蔵作であることが後に判明した(這子の話の写真図版では治助を金蔵名義で、作蔵を治助名義で掲載していた)。阿部治助は閑話(1)で紹介したように全く別種の情味ある渋いこけしを作った。ところで武井武雄のこの解説で得をしたのは斎藤太治郎と阿部金蔵、損をしたのは阿部治助であった。治助は「化けて出そうな薄汚いこけし」という渡辺作蔵のこけしの評価を自分のものとして引きずって、土湯一下手な作者と言われながら不遇な一生を送った。zufu-hiroshi
ところで武井武雄は阿部金蔵を「阿部広史」として「愛蔵こけし図譜」に採り上げている。 この図譜図版の左のこけしが「眼の中に入れても」と武井武雄が言った小寸ものであろう。作者を広史として採り上げた理由を武井武雄は図譜の解説でこう言っている。「阿部金蔵の作品はフジヤでも見当たらなかったし、『這子の話』の写真を見ると土湯中白眉と思われるし、欲しくてたまらぬので、金蔵宛交渉を始め、送って貰ったのが昭和四年三月、尺五級から豆級までこれは沢山に来着しました。見ると天江氏の写真に載っている金蔵とは似ても似つかぬもの、それもその筈写真の金蔵は治助だったのでした。金蔵は昭和七年六十三歳で物故した由ですが、四年当時は勿論金蔵の名で文通もし、物品も送ってきたので一応金蔵作として蔵品に加えおいたわけですが、飯坂同様父金蔵の作は世上殆どその姿なく、所謂金蔵は概ね息広史の作という定説に従い、この図譜で広史と訂正したわけです。昭和十六年七月、石井氏の照会により広史の解答した父子の特徴は大体次のようなものでした。金蔵:胴模様に山型あり赤等を多く用いた。様式は二三に限られていた。櫻模様枝も花も細かくて多い。広史:太い線赤青黄紫等三本位にとどまる。細い線八本乃至十二本位迄にてその間に模様をかく。大体右の様なもので顔の特徴には全く触れて居らず、相似たものと思われます。確実な金蔵を持っている人が稀なのでこれ以上の比較は一寸出来ませんが広史だけについても古いものの方がよい事だけは確かな様です。あまり大作はヒョロ長くて均整がとれず、九寸(図右)あたりから八寸頃がよく、三寸(図左)の豆級華麗又可憐です。」
さて、武井武雄が昭和四年に手に入れた金蔵名義のこけしは、「日本郷土玩具」の写真図版(左から三本目)と「愛蔵こけし図譜」の木版図版に紹介されているが、それらのこけしは戦災で全て失われてしまった。ところが石井真之助のところに武井氏から来た金蔵というのが一本あり、それが現存している。gappon-kinnzoh昭和九年刊行の合本版「日本郷土玩具」と並べて武井武雄旧蔵の金蔵名義を紹介する。これは七寸で轆轤線の描き方等「日本郷土玩具」写真掲載のものに近い、胴底には几帳面な筆致で「岩代 土湯 阿部金蔵」と墨書がある。「図譜」の九寸とは轆轤線の数が違っている(下段の赤線が図譜は三本)。さてこれが金蔵か広史か、昭和八年の広史九寸二分とこの昭和四年の金蔵七寸を並べてみよう。写真の右が広史名義のこけし。
結論からいうと現在ではこの金蔵名義はやはり広史とは違う、金蔵の作であろうということになっている。「こけし辞典」で中屋惣舜は頭のフォルムと前髪・カセ・眼の描き方で両者は鑑別できるとした。最も分かり易いのは前髪であろう。広史は大正期の作と言われる古いものでも前髪は七〜八つに太く様式的に描く。一方金蔵は筆にまかせて自然に描くため、この七寸では十三、図譜では十一に前髪が細かく分かれている。 いずれにしても昭和十年以前の広史は面描など実に良く金蔵を踏襲していた。金蔵の死後、徐々に作風は変化し、戦後の広史はまるで別物という感があった。
武井武雄の居室は東京池袋近くにあり、「蛍の塔」と号していたが、戦災を受けこけし共々焼失してしまった。おそらく「蛍の塔」コレクション中にあって、現存しているのはこの昭和四年の金蔵七寸くらいであろう。大切にしたいこけしである。

治助のこと

「愛蔵こけし図譜」の解説を読めば、武井武雄は「こけし這子」の写真を見て以来、治助のこけしを高く評価していたことが分かる。金蔵を追いかけたのも実は幻の治助のこけしを求めてであった。文献における作者名の誤謬によって、治助はいわれのない低い評価を受け、一般の蒐集家も本人も土湯一下手な作者と思いこんで長い年月を過ごさなければならなかったのは実に悲しい運命であった。この名義の誤謬が判明して、治助の評価が急に高まったときには、治助は体をこわして既に轆轤に上がれなかったのである。蒐集界の当時の評価とは無縁のところで、生活に追われて治助は多くのこけしを作った。それらは土湯の正統的な様式を良く保ち、渋く味わい深いものだった。 → 治助のこけし

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