木人子閑話(10)


「こけしの追求」と粂松、永吉のこけし

深澤要と「こけしの追求」kokeshinotuikyuu_hyoushi

深澤要は明治三十七年七月二十四日東京池之端に生まれた。生後一年六ヶ月で広島へさらに九州福岡へと転々として子供時代を過ごしたが、生来病弱で学校も入退学を繰り返した。大正十一年頃より童話の研究を始める。昭和九年頃より、こけしに興味を持って産地旅行に出るようになる。昭和十三年「こけしの微笑」を東京昭森社より出版、こけし産地と各地のこけし愛好者の間を頻繁に行き来する、このころすでに「こけしの追求」の原稿を暖めていたが、昭和十七年東京から西宮に転居、鉄工所経営で多忙を極め、「追求」の出版は実現できなかった。昭和十八年三月肺炎を発病、小康を得て「奥羽余情」の版木を彫ったり、陶器古丹波の研究などを始めたが、昭和二十一年十二月二度目の肺炎を発病、翌二十二年一月十二日西宮で逝去した。行年四十二才。

kokeshinotuikyuu_box「こけしの追求」は深澤要の死の五年後、昭和二十七年九月二十日に昭森社より出版された。全部で五百六十部、こ版十五部(千五百円)、け版九十五部(千円)、し版四百五十部(三百五十円)の三種が出版された。こ版はA5判、べにがら色の開き箱入りで表布は広本長子染めによる茶色のこけし模様。け版はB6判、箱はセピア色和紙に題箋紙を張り、表布は広本長子染めによる紺色のこけし模様。し版はB6判、洋紙箱にけ判と同じ題箋紙、表布は白絣布で種類は一様でない。ここに写真で示したのは、し版(限定番号65)で白絣布の表紙および箱の題箋である。この「こけしの追求」その他文献から深澤要の産地旅行の軌跡を追うと次のようになる。

(  )内は報告記事あるいは関連記事記載文献。
調査漏れも多い(特に九〜十三年)と思われるが、ここに拾い上げただけでも極めて頻繁に産地旅行を行っていることがわかる。この期間、産地旅行の合間に大阪、名古屋各地のこけし会を飛び回っていたのだから、ほぼこけし一筋の生活を送っていたことがわかる。

昭和十五年三月の産地旅行

佐久間粂松と庄司永吉

昭和十五年三月の産地旅行は、三月一日に小原を尋ねて本田鶴松、亀寿に話を聞いたあと、川俣に行って佐久間粂松にこけしを作らせた。粂松は明治三十年代まで土湯でこけしを盛んに作ったが、その後相馬郡へ転出、さらに明治四十年川俣で開業し、おもに絹織物用木管を挽いていたので、こけしは全く作らなかった。この時の深澤入手が粂松復活初作である。その後、深澤要は米沢経由で奥羽線を北上し、瀬見の庄司永吉を訪問、 十日過ぎに帰京している。

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この旅行中、米沢から石井眞之助宛に発信した葉書がある。
「残雪の東北線から奥羽線に入るといやはやものすごい雪です。今度の旅で新人を一人見付け出すことが出来てよろこんでゐます。責任旅行で案じつつ歩いて居ります。
三月四日                      米沢にて  深澤要」
豪雪の東北のスケッチが添えられた楽しい便りである。また帰京後、その報告を次のように書き送っている。

「旅行から帰りますと澤山の通信物が参って居りました。先づ御尊堂のものから開封して幾度も読み返して居ります。それに又こけしと書物とエハガキを御恵送下さいまして誠に有り難う存じました。厚くお禮を申し上げます。蝠堂氏他御一同の寄書もこけしアルバムに加えさして頂きました。(中略)富田御用こけしの旅は意外の雪で思うやうに参らず、何とも恥ずかしい歴訪となりました。只ふり返って見て忘れ難く存じますことは佐久間由吉弟粂松のこけしを入手したこと、今一つ別人の木地に瀬見の庄司永吉が描彩したものを入手したことです。特に永吉の古風な胴模様は鳴子の名工大沼岩太郎を偲ぶ上に非常に参考となって悦んで居ります。他の二三の作者にも依頼して来たので、その内またいいものが入りましたらお送りする考えで居ります。
今日か明日鳴子の秋山忠が訪ねて呉れることになって居ります。今日はこれにて失礼いたします。御禮まで。
三月十二日
石井眞之助様                     深澤要」

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御尊堂というのは石井眞之助の堂號名「こけし草堂」を踏まえての表現。蝠堂は三重県富田の有名な玩具蒐集家伊藤蝠堂のこと。ここに紹介する粂松(六寸八分、五寸八分)は現在鳴子にある深澤コレクション六本の粂松のうちの二本。日本こけし館展示中のものを許可を得て撮影紹介させて頂く。おそらく深澤氏の復活初作であろうと思われる。いわゆる粂松の大仰な写楽ばりの表情がまだ現れない自然な古土湯の表情が残っている。さて、瀬見に急いだ深澤要の胸には、庄司永吉にこけしを作らせたいという熱い思いがあった。瀬見の庄司永吉、鳴子の名工大沼岩太郎の弟子で其の所在が山田猷氏の報告で明らかになり、「こけし繪」と紹介記事が東京こけし会機関誌「こけし」に出たばかりだったからである。

  ・「こけし」誌と庄司永吉  −こけし誌に載った永吉のこけし繪―

「こけしは鳴子に始まり鳴子に終わる」と言った深澤要は、どうしてもこの未見の作者の復活初作を手に入れたかった。永い眠りから覚めて、作り始める第一作は、筆を止めた遠い昔の作風をそのまま残していることが多いからであり、深澤要はそのことをよく知っていた。そして庄司永吉は鳴子の大沼岩太郎について修行し、明治三十年代始めまで盛んにこけしを作ったが、以後盆、鉢、椀、茶器類は挽いたがこけしは作っていない。うまくいけば、明治三十年代のこけしが眼前に現れるかも知れないのだ。山田猷の持ち帰ったこけし繪はその期待を十分いだかせるものだった。

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昭和十五年三月瀬見を訪れた深澤要は聞き書きと同時に鳴子で求めた白木地を持参してそれに描彩をしてもらっている。三月十二日の深澤書簡では師岩太郎を偲ばせるその古風な胴模様を讃えていた。さて、この時は何本こけしを描かせたのか、そして何処に現存しているのか、残念ながら今は不明である(例えば西田コレクションにある永吉の中の一本あたりがそうか)。深澤コレクション(現在、鳴子の日本こけし館)には三本の庄司永吉があるが、いづれも昭和十六年六月の作である。深澤要は他人木地の庄司永吉描彩にあきたらず、翌十六年に永吉を瀬見から鳴子まで連れ出して、伊藤松三郎のロクロを借りて永吉に自挽きのこけしを作らせたのである。肩の低い古風な形態で、こけしの出来も素晴らしかった。この時の感激を深澤は「私は一個の木片から出来上がるまで見ていて、なる程これは大沼岩太郎の忠実なる遺風に相違ないという気持ちが起こったのであった。私は限りなく讃える、この気品ある清新さを。(「こけしの追求」)」と書いた。写真紹介の深澤コレクションはこの時の六寸二分と四寸二分である。「こけしの追求」の図版にはこの四寸二分ともう一つの七寸一分が掲載されていた。
他人木地に永吉が描彩したものは、大沼健三郎木地、秋山忠木地など幾種かが残っているが自挽きのものはこの十六年六月のものくらいであろう。

さて、このようにして粂松と永吉が昭和十五年三月の深澤現地旅行によって世に出たわけであるが、石井氏宛の書簡に「責任旅行」とか「富田御用こけしの旅」とか書かれているその意味は何であろうか。富田は玩具蒐集家伊藤蝠堂氏の住居、したがってこの旅は伊藤氏から依頼を受けた何事か目的を持った旅であったことがわかる。蝠堂氏が依頼したこと、それは蝠堂氏が企画していた昭和十五年五月の「おもちゃ祭」に関係していたものと思う。「おもちゃ祭」は名古屋の四光会が主催して五月五日のこどもの日に伊藤氏の富田・於茂千也函(蝠堂氏のコレクション名)にて催された。伊藤氏は深澤に「おもちゃ祭」で頒布するこけしの買い付け、あるいは話題提供となるような珍しいこけしの入手を依頼したのではなかろうか。「こけし追求」の永吉の記事の中で深澤は「この稿は富田の於茂千也祭記念冊子“こけし”(昭和十五年五月)に瀬見紀行として私が発表したことのある旧稿に基づき、書き改めたものである。」と書いている。自分の興味から言えば新たな工人の復活作をも手に入れて大いに収穫のあった旅であったはずであるが、伊藤氏の依頼から見れば「意外の雪で思うやうに参らず、何とも恥ずかしい歴訪となりました」と言うことだったのであろう。
この時期の深澤氏はこけしに夢中で、あらゆる機会を見つけて、こけし産地を飛び回った。そのためにはスポンサーも必要だった。名古屋、関西には深澤氏の助力を必要とし、そのお陰でコレクションを充実できた蒐集家も多かったのである。そういう環境がなければあのように頻繁に東北産地を巡り歩くことは不可能だったはずであり、またあの貴重なこけし調査を残すことも出来なかったのである。



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