戦前に東京こけし会から刊行された「こけし」誌は、川口貫一郎氏の編集になるB6版和紙リーフレット式二つ折り帖の専門誌で、昭和十四年八月から十九年一月まで隔月刊行で第三十號まで続いた。
題字カットは武井武雄の鉛こけしがデザインされていた。毎號最終ページに作者自身の手になるこけし繪(大部分は面描)木版が掲載されたほか、当時の現地の工人写真を多く載せているのが貴重である。戦時中の数少ない専門誌であり、末尾の「こけし棚」は当時のこけし界の消息欄になっていて、今となれば活動記録としても好資料となる。
創刊当時の会員は二十名足らずであったが、昭和十五年末の第十一號会員名簿では既に百名を超えていた。主な執筆陣は川口貫一郎のほか、鹿間時夫、深澤要、西田峯吉、山下光華、山田猷、荻原素石、秀嶋孜などである。
創刊巻頭言は「めごいこけしを忘れてなろうぞ」で始まる。
「こけし第三號(昭和十四年十月)」のこけし繪は当時未知の作者庄司永吉であった。(右図に紹介する)
その解説に云う「去る六月二十八日山田猷氏より瀬見温泉にて鳴子系旧作者、庄司永吉と会ひ借とった絵筆と云ひませうか画用紙に一筆願ひました、との来信を受けましたので早速それを載せることに致しました。二十年前瀬見で売ったと申してゐる、然し目下は転業致し道具もなく、息子と共に鉄道の方に勤務してゐる由、詳細次號にて山田猷氏より発表なし下さる。」
山田猷は東京美校のデザインを出たが、当時は国鉄の仙台勤務、休日毎にこけしの産地巡りをしていた。産地の情報をいち早く、こけし誌で紹介したほか、工人写真の多くも山田氏の提供による。
山田氏の瀬見訪問記は次四號ではなく、その次の五號(昭和十五年正月)に「瀬見温泉の木地屋」と題して発表された。
「昨冬、觀松館主と火鉢をかこみ乍ら、伺ひたる話を思ひ出すまゝに、認めたる爲多少の矛盾や前後している点は御容赦願ひます。
瀬見には古い木地挽で、奥山勘三郎と云ふのがあつて其長男の善兵衛の代迄続いたとの事であります。外に高橋金蔵と庄司三蔵とがあつて、三蔵の長男が永吉氏で、現在鉄道工員となつてゐるのが、それであります(写真参照:山田氏撮影の永吉、こけし第五號より)。
永吉氏は鳴子に五六年も年期を勤め、学校跡に住ひ「こけし」も「ミズ木」を用ひて楓の葉を書くのが得意でした。明治三十五年の頃、觀松館主高橋権右衛門氏の後援を得て、木工会社を起し、大正三年頃には合資会社としましたが、出資者が十四五人もあり、余りに利益配当をあせった爲に、仲たがひやら、結局解散の、余儀なきに至ったのであります。
然し後、大正四年高橋権右衛門氏がこれを惜しみ、永吉氏の外に、大館方面より職工をも雇ひ、此の事業を経営したのであります。其開業には記念品等をも頒ち盛大に挙式も行はれました。そうして高橋氏と庄司氏とは遠く、遠刈田、鬼首、大館方面に見学に至り、能登、輪島より注文を受けて、大量生産を計画したのであります。常時は殆ど欅材を使用して、椀を作り、お鉢の五合、七合五勺、一升入の三種、お盆の八寸、九寸一尺の三種を標準とし、他に茶器、くけ台の類をも作りました。
然し職工の賃金問題、動力により大量生産を目論みたるに販路の拡張意の如くならず、其上欅材は営林署より払下げを得ましたが、伐木に人夫の不足、運搬の困難等生じて、僅かに一年にして大正五年、廃業の止むなきに至りました。
現在当時の製品は一と通り保有してある由で、高橋氏は将来瀬見の温泉土産として、これを残したい希望をもつてゐられます。
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帰途庄司氏を訪ねた處、幸に在宅にて、最近新庄にて小野寺某氏の講習會にも出席し、最早や孫の顔も見れる様になり、老後の片手間に足踏にても、木地を挽いてみたいと話してゐました。
今後又高橋氏の御助力を得て、必ずや瀬見こけしが再現する事だらうと思ひます。又再現させたいものです。(現在鳴子より仕入れ僅か販売せる店があります)
因に庄司氏一家は、永吉六十才、長男栄治三十一才、長女せい子二十三才、一男安太郎十五才であります。(こけし第五號より)」
この雪を背景にして立つ庄司永吉の写真を見る限り、山田氏の瀬見訪問は昭和十三年の冬であろう。山田報告をおそらく最もショックを受けて読んだのは深澤要であったと思われる。深澤の第一回瀬見訪問は「こけし」誌発表の直後昭和十五年三月だった。