木人子閑話(27)


山内金三郎と吾八

梅田書房の売立会

終戦後間もない時期はとても古書やこけしなどに気持を向けるゆとりは無かったろうと思っていたが実際は必ずしもそうではない。長い間飢えていたものに向かう気持は却って強かったようである。
反町弘文荘の「蒐書家・業界・業界人」を見ると、「古書目録」は昭和十二、三年ころが戦前の最盛期で年間百五十種くらいが出ていたが、戦争が厳しくなるにつれて減少し、昭和二十年には三重県上野の沖森書店と東京新興古書会のわずか二種、しかし戦後の困窮期でも二十一年十七種、二十二年四十種、二十三年には五十七種と順調に回復していたことがわかる。
むしろ終戦から昭和二十四年ころまでが古書の空前のブームであって、この当時は、古書を求める人が古書の流通可能量以上に多く、古書店は古書を持って来る人に優先的に古書を頒けるという好ましくないやり方さえあったという話を聞いたこともある。
反町弘文荘は昭和二十三年の古書目録として、「大分のハレルヤ書店・大阪梅田書房・東京木内書店等のが、プリント刷の数ページのものながら、再出発を始めました」と付け加えて特記している。
この梅田書房は、大阪梅田の阪急百貨店二階阪急古書籍部である。昭和二十二年から「これくしょん」という雑誌を限定四百部ほど、六ヶ月分三十円で発行頒布していたが、翌二十三年より「梅田書房目録」をこの雑誌に掲載するようになった。
ここに掲げた写真は、昭和二十三年発行プリント刷の「これくしょん」の表紙(上)と裏表紙(下)であるが、五月発行の十六号の方には「梅田書房目録」が入っている。
大阪梅田書房として、まず思い浮かぶのは昭和二十三年の西田静波亀楽洞のこけし売立会であろう。鹿間時夫が「こけし・人・風土」の「木華子堂のこと」や、「こけし鑑賞」などで繰り返し触れているから、この売立会のことはよく知られている。
閑話(26)で紹介した斎藤源吉の入手の経緯について「こけし鑑賞」ではこう述べている。『昭和二十三年一月大阪梅田書房での亀楽洞の古品売立会で入手、裏に貼られた亀楽洞のラベルには岡崎久作と書いてあった。亀楽洞は古い大阪の蒐集家で西田静波のこと。二十二年一月米浪邸での関西こけし会では、川口、橘両氏の他に青山一歩人、村松百兎庵、梅谷紫翠、雲井聖山、寺方徹諸氏ともお目にかかった。昭和六、七年頃河本紫香氏が武井画伯の本を見て八つ手会の頒布をした時、西田氏は主として入手されたという。食糧事情も良くない終戦後の当時、夜を徹して米浪、川口、橘諸氏と語り合ったことが思い出される。亀楽洞売立の時は、尺五寸の周助(当時三百五拾円)、直助、キン、乗太郎、島津など十六本求め僅か八百八十三円であった。全部こけしを焼いてしまった山下光華氏が「あんたはまだ熱があるのか」と驚いていた。この時は京都から開店時間に間に合うよう駆けつけたが、滋賀県の井上多喜三郎氏に先をこされた。』
一番乗りをした井上多喜三郎は明治三十五年生まれで、安土町の呉服店主。堀口大学に師事した詩人としても知られている。戦後はコルボオ詩話会、『骨』同人を経て、近江詩人会の設立に関わった。昭和四十一年六十四歳のとき呉服行商の途次に交通事故で世を去った。「井上多喜三郎全集」(井上多喜三郎全集刊行会)、「近江の詩人井上多喜三郎 」(別冊淡海文庫)などが出版されている。
鹿間氏は一月の売立会にしか言及していないが、梅田書房は少なくとも同じ二十三年の三月と五月にも売立会(割愛即売会)を開いている。三月の会場は戎橋北詰西の戎橋書房、五月は神戸阪急会館フルーツパーラー内の梅田書房神戸支店であった。三月は数百点、五月は約五百点とあるから、こちらも相当に規模の大きな即売会であった。「これくしょん」十四号には、「第二回愛蔵こけし割愛会 : 戎橋書房に開いて好評であったので、蒐集家両三氏にお願いして重品を、新しく蒐集されやうとする方のために割愛して頂くことになった。第一日の三月七日には米浪氏の出席を煩わして、こけし蒐集についての質問にお答えして下さることにした。今度の割愛品の中には、温湯の斎藤幸兵衛など稀品も少なくない。これらの物は午前十時までに来店の希望者に抽籤で取ってもらうことにした」とある。出品の両三氏が誰だれかは分からぬが、八つ手会を中心とする正末昭初からの古い蒐集家からであることは、この「これくしょん」十四、十六号の表紙、裏表紙の図からも伺える。斎藤太治郎、斎藤幸兵衛、小椋久四郎、岩本善吉、我妻勝之助、佐藤泰一郎、奥山運七などの出来の良いものが出品されたようだ。

山内金三郎

終戦後直ちに「これくしょん」を発行し、古書目録の掲載を初め、こけしの売立会を催した梅田書房とは一体何か、実はこの梅田書房のオーナー山内金三郎は、大正から昭和、戦後にかけて美術、趣味の古書、郷土玩具、こけしに深くかかわった重要人物である。
まず、山内金三郎の経歴をたどってみることにしよう。
明治十九年大阪安堂寺橋の材木商中五兵衛の長男として生まれる。生家没落のため祖父や親戚に育てられる。画業を志して上京し、梶田半古の門下となり、前田青邨と二人で半古の画塾に寄宿した。画号は「神斧」。小林古径は半古門の先輩、奥村土牛は後輩に当たる。明治四十三年東京美術学校日本画専科を卒業。美術学校時代には渡辺水巴について俳句も学んだ。明治四十四年大阪に戻り、西区新町通に「吾八」を開店、大津絵、泥絵、絵馬、ガラス絵、郷土玩具などを扱う。若い芸術家達のたまり場となった。「吾八」の名は、育ての親である祖父・山内吾八からとったという。明治四十五年には「大津絵集」を発刊、水落露石が序文を、中井浩水が「古大津絵に就いて」という一文を寄稿している。大正二年「吾八」は平野町に移転。大正三年より各国玩具絵集「寿々」を数次にわたり発刊、寿々は仏語Jou jou(玩具)の意。このころ阪急の小林一三も馴染みの客の一人、大正三年に初の公演を行った宝塚歌劇団のポスターなどを小林から頼まれたこともあった。また川崎巨泉の「おもちゃ絵」なども「吾八」で扱った。画家として京都の密栗会などにも参加、大正五年文展初入選。
大正八年再度画業を志して上京。本郷森下町に住む。「主婦の友」の挿絵、こま絵などを描く。石川武美社長に請われて「主婦の友」に正式に入社、やがて編集と事業企画に参画するようになる。
大正十三年東京主婦の友社主催の郷土玩具展があり、大阪の筒井秀雄が出品したという記録があるから、この企画にも山内は関与していたであろう。
この時期、文人たちとの交流も多く、一時不仲になった志賀直哉と里見クの間を取り持ったという話も残っている。
昭和十一年八月「主婦の友」を退社、昭和十二年京橋区銀座西七丁目に第二次「吾八」を開店する。このとき「主婦の友」で共に働き、病を得て湘南で静養回復した今村秀太郎を迎える。雑誌「これくしょん」(戦前吾八版という)を発行。
ところが折角開いた「吾八」を数カ月で今村秀太郎にすっかり預けて山内金三郎は大阪へ戻ってしまう。実はこれは阪急百貨店の小林一三に強く招聘されたためであった。
阪急百貨店は、昭和四年阪急電鉄と連携したターミナル型という新しいタイプのデパートとして開店したが、呉服商からスタートした先行の三越、高島屋、大丸に比べるとむしろ庶民的で、「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売る」というのがビジョンであった。百貨店経営が徐々に軌道に乗ってくると、小林一三はこのビジョンを、日用品や食料雑貨のみならず、美術や工芸にも及ぼそうと考えて昭和七年の売り場拡張に合わせて、「充美会」結成と古美術品売場・茶室福寿荘の開設を行った。充美会は大阪の名の通った古美術商十店(井上柳湖堂 池戸高山堂 晴海商店 戸田弥七商店 太田佐七商店 山中春篁堂 児島米山居 坂田作次郎商店 水原聴雨堂)による組織で、阪急百貨店にそれぞれ専用スペースを与え、また月ごとに各店が入れ替わりで担当する充美会の展示コーナーも設けられた。こうした活動を担当したのが阪急百貨店美術部であった。
この美術部の月刊PR雑誌として企画されたのが「阪急美術」(昭和十二年十月第一号)であり、その編集長として招かれたのが山内金三郎であった。大津絵蒐集の仲間でもあった中井浩水も後に編集に加わった。山内には「主婦の友」編集時代の人脈があり、寄稿者も豊富で、「阪急美術」は先行の他の百貨店のPR誌に遜色のない充実した内容となった。表紙は和紙、装丁は小磯良平(洋画家)、鍋井克之(洋画家)、芹沢_介(染色家)、棟方志功(版画家)、川西英(版画家)らが担当して凝った造りの雑誌でとなった。時に郷土玩具なども取り上げられたが、これは山内の好みからであったろう。「阪急美術」は、「汎求美術」「美術・工芸」と名は変わるが終戦近くまで続いた。

この期間に、銀座の「吾八」はどうなっていたかと云うと、店の経営は今村秀太郎にまかせていたが、山内はオーナーとして月に一、二回は上京して販売や雑誌「これくしょん」の企画などに助言をしていたようである。川上澄生、武井武雄、芹沢_介、関野凖一郎らの版画作品を製作・販売した。昭和十六年から十九年にかけて頒布された武井武雄の「こけし愛蔵図譜」は「吾八」が扱ったものである。
昭和十七年ころには、集古会の林若樹の蒐集品を「吾八」が扱った。何本かのこけしとともに、清水晴風による「うなゐの友」の稿本(美濃版原画)も出たという。これは晴風没後、林が譲り受けたもので、震災の厄を免れて保存されたものであった。この一部は、山田徳兵衛のもとに納まったという。
戦前「吾八」で行われた入札会、即売会では、かなり関西から出たと思われるものがある。閑話(4)で紹介した「これくしょん・三十一号」のものは明らかに関西の婢子会が扱ったものだし、「これくしょん・四十五号」の盛一家や岡崎長次郎の古作なども関西から出たもののようである。おそらく山内金三郎がおもちゃ仲間の人脈を通して、古作こけしを揃え、東京の「吾八」に送ったのではないかと思う。深沢要は、こけしが多く関西に集まり、そこから全国へ、時には東北へも逆戻りしていると「こけしの微笑」に書いているが、木形子洞頒布とは別の意味で、山内はその流れを起こしたキーとなる人物でもあった。
昭和十六年阪急美術部の事業の一つとして百貨店の梅田本店内に「梅田書房」が開設された。これは大正期の「吾八」を大阪でも再現したいという山内の気持から生まれたものであろう。この店の責任者として美術書専門店彩文堂の廣岡利一を招いた。廣岡は自分の店を妻にまかせて「梅田書房」に勤めることとなった。
しかし、戦争は次第に激しさを増し、東京銀座の「吾八」は、昭和十九年四月に閉店することになる。
戦後、昭和二十一年ころから二十四年頃にかけては前述の通り、古書の空前のブームが起こった。「梅田書房」は各地に支店を出した。まずは阪急天満橋支店、さらに戎橋北詰西の南海ビル一階(戎橋書房)、昭和二十三年には神戸の阪急会館フルーツパーラー内に神戸支店を開設した。昭和二十二年からは雑誌「これくしょん」(梅田書房版)の刊行も始めた。「愛蔵こけし割愛の会」が開催されたのはこの時期であり、第一回、第二回が戎橋書房で、第三回が神戸支店であった。
昭和二十四年を過ぎると、古書業界も落ち着いてブームは去り、梅田書房も各支店を閉鎖することになる。廣岡利一も昭和二十五年に退社して、自分の店「りーち」を曽根崎に開業した。
阪急百貨店本店二階の「梅田書房」はその後も続いて、山内金三郎は昭和二十九年には洋書輸入協会の関西支部長になっている。
山内が東京の「吾八」の夢を捨てきれないでいたときに、元阪急百貨店の社長清水雅が、東宝の社長に就任した。清水雅は昭和二十六年に梅田書房から「書斎のたわごと」という随筆集を出版しており、また百貨店の社長であったこともあって山内とは旧知の間柄であった。雑談の合間に「吾八」をもう一度やりたいという気持ちを聞いた清水社長が「じゃあ、やってみたらいいだろう。」ということで、旧東宝本社ビルに第三次「吾八」を再開(昭和三十三年十月十五日)することになった。この「ギャラリー吾八」開業に向けて、「これくしょん」(戦後吾八版)の刊行(十月十日第一号)も再開されている。再開第一号(通巻六十五号)は無料配布、以後は限定三百部季刊で年会費四百円であった。
今村秀太郎がふたたび支配人として招かれた。経営としては「梅田書房」の支店であり、山内金三郎が社長であった。「ひやね」店主比屋根英夫は十七歳から「吾八」でアルバイトを初め、さらに「吾八」で修業を積んだ人だが、当時のことを「会社はあくまでも大阪の梅田書房であって、吾八の従業員は給与明細や保険証も梅田書房から受け取っていた。」と語っていた。晩年の山内は月平均二回上京して「吾八」で旧友知己と会うのを何よりも楽しみにしていたという。
昭和三十六年軽い脳出血を起こしてから体力を落とし、昭和四十一年の十二月に八十一歳で亡くなった。
「これくしょん」は山内の追悼号を出している。表紙・奥付に巻号や発行年月日等の表記がない不思議な刊行であるが、おそらく昭和四十二年二月に三十一号として出されたものであろう。同時に出た別冊には三十一号別冊としての奥付がある。
なお、現在梅田「阪急古書のまち」にある古書店リブレリ アルカード は山内金三郎の孫がやっているという。そのアルカードの隣にあるリーチアートは廣岡利一の開いた「りーち」(現在は株式会社リーチアート)の支店として昭和五十年より開業、経営は孫廣岡功の代になっている。
今村秀太郎は、こけしの普及にも尽力し、戦後の「吾八」再開前より「東京こけし友の会」の発足に協力している。昭和二十八年に創刊された「こけしの郷愁」と「友の会便り」は毎月交互の発行であったが、初期の鳥居敬一のあと、「こけしの郷愁」第四号以降は今村の編集になった。「こけし手帖」に移行してからも十二号まで今村の編集が続いた。
昭和三十二年二月の十三号より「こけし手帖」の編集は小野洸に変わったが、これは今村が「吾八」の再開の準備に取り組むためだったかもしれない。山内没後は「吾八」の経営を引き継いだ。今村は蔵書票の普及にも熱心で日本書票協会会長などもつとめた。平成六年四月没、八十七歳。

「これくしょん」の誌上即売

戦前の「吾八」の入札会は「これくしょん・三十一号」、(昭和十四年十一月)こけし名作号、「これくしょん・四十二号」(昭和十五年十月)があり、また即売会として「これくしょん・四十五号」(昭和十六年二月)などがあった。
この四十五号は「玩具人形文献の栞號」で、川口栄三の私刊本(限定四拾部)書誌を「これくしょん」に順次再掲するとしての第一回で、明治十年柴田是眞「花くらべ」から大正十五年川崎巨泉「おもちゃ十二月」までがこの号に掲載されている。
誌上即売の方法として、『こけしの古作が数十本「吾八」に入りました。地方の方にも平等に取って頂けるやう、此號に発表した特定のものを限り抽籤法をとることにしました。』とある。特定のこけしというのは、下段盛一家の左端、栄治の右三本、長次郎の大きい方の計五本であった。他は二月六日より店頭での即売であった。抽籤は最終日の二月十日に行われた。
下の写真が、昭和十六年の即売品であるが、同寸法同一作者のものが多数並んでいるのに驚かされる。しかも全て大正期のこけしである。出所は蒐集家ではなく昭和初期の業者の売れ残り在庫品だったであろうか。大正期の盛一家を扱った関西の業者と云うとある程度想像がつくかもしれない。

「これくしょん」四十五号:蔵王高湯・岡崎長次郎、鳴子・高橋盛一家群像

「これくしょん」四十五号:左より岡崎長次郎二種、飯坂・佐藤栄治四種、高橋盛一家四種
誌上では長次郎が岡崎栄作名義、栄治が喜一名義になっている
戦後の「吾八」でも、こけしの入札会はたびたび開催された。昭和三十四年の「これくしょん」三号、五号に載った田中純一郎蔵品の入札会、昭和四十二年三十三号、四十三年の三十五号などの入札があった。中古品の陳列販売はかなりあとまで続けていた。私も集め始めのころ、宝塚劇場の前の、入口が狭く奥に長く続いた「吾八」の店で中古品を求めたこともあるし、今村さんにもお会いした。

山内金三郎が残したもの

山内金三郎は、「産地の工人から集めたり、頒布会に入会したり、趣味の玩具店で店主が買い付けたこけしを入手すると云った集め方の時代」から、次の時代、すなわち「古い蒐集家から新しい蒐集家にこけしが再流通する時代」に移っていく時に、その仕組みを作った人である。
趣味家同士の交換や譲渡ではなく、仲立ちを専門家が行う古品の即売会や入札会は山内金三郎が始めたものであった。
阪急百貨店の美術部で充美会の骨董商と深くかかわったことにも影響を受けただろうが、「吾八」と云う店を明治時代から開いて、美術工芸や古書という再流通を前提とする世界にいたことが山内の活動の基盤になっていたであろう。
昭和四十年代五十年代にピークを迎えた戦後のこけしブームは、一つは大衆化によるこけし人口の増大が起こしたものであったが、もう一つは古品の再流通によって第二世代、第三世代の古作コレクターを生み出し得たということにもよる。
参考文献:
   山本真紗子:阪急百貨店美術部と新たな美術愛好者層の開拓、Core Ethics Vol. 6(2010)
   山内十三:年譜、これくしょん、山内金三郎・追悼 (1967)


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