何故、こけしは東北に発生したか 


今年(2013年)の文化功労者に中井久夫が選ばれた。中井久夫は統合失調症に関して高い業績のある精神分析学者であるが、今回の受賞はその業績に加えて、翻訳やエッセイ、また阪神淡路大震災の被災者に対するメンタルケアの功績も評価されたらしい。
しかし、私は彼の著作にひどく感銘を受けた事がある。それは三十代の時に読んだ「分裂病と人類」と言う本である。この本で、彼は宗教権力と世俗権力(政治権力)の葛藤の歴史を分析しており、日本が世界でほとんど唯一、近世以前に世俗権力が優位に立った国であることを強調している。簡単にいえば、この逆転を行ったのは織田信長である。世界ではガリレオでもダーウィンでも宗教権力には悩まされたし、西欧の近代化とは、如何に宗教権力を宥めながら、あるいはそれと闘いながら近代を勝ち取るかという歴史だった。日本にはもうその葛藤は必要なかった。

これは大変重要な視点であって、「逝きし世の面影」で西欧の人たちが驚いた江戸末期の日本の在り様は、単に300年間他国から侵略されたことのない歴史を持つ特異性ばかりでなく、300年間政治権力と宗教権力との軋轢をもたず、教条的宗教権力の支配から解き放されていたという歴史を過した特異性にもよる筈である。それは今日にまで続いていて、アニメ・漫画・ゲーム、お笑い、崇高さを追求しない藝術などの領域で、世界で傑出する原因になっているだろう。

この「分裂病と人類」は昭和57年1月に発行されているが、おそらく私は発行後間もなく読んだと思う。その強い印象の中で書いたのが、ここにあげる「何故、こけしは東北に発生したか」という原稿で、これは「木の花」の最終巻となった第参拾弐号に掲載された。
私には学生時代から「こけし」というフィールドがあって、何か本などで感銘を受けることがあれば、すぐにそのフィールドでシミュレーションをするという習慣があった。この原稿もその一つであった。

以下「木の花・第参拾弐号」(昭和58年6月)掲載の稿。


何故、こけしは東北に発生したか。こけしの発生に関する議論は、「木の花」の誌上でも最近のこけし専門書でも、しばしば繰り返されて来たが、その発生が東北に限定される理由は必ずしも明確でない。もっとも、東北以外いたるところでこけしは作られたとする人もいるが、こけしの歴史自体がその存在の痕跡を、東北以外で完全に消し去る程古いわけではなく、こけし類似の木人形があったとしてもこけしは東北のものと一応考えておいて無理はなかろうから、ここではこの考え方に立って話を進める。
 こけし発生地の条件として、私はかつて伊勢こけし誌第135号に次の四つを掲げた。@木地屋の存在、A玩具を作る技術(小物挽き、赤物の導入)、B消費地の存在、C消費層の確立。
 ここでB、Cの条件は湯治場と湯治客の存在を意味しており、「ふくしまのこけし」では、これをまとめて「湯治習俗の確立」とし前のニつの条件と合せて、こけし発生の三条件と要約した。「山形のこけし」では@を絶対的条件、Aを技術的条件、Bを経済的条件として同様の議論をしてしるから、この整理の仕方は一般にほぼ受け入れられたと考えてよかろう。

 それでは、これらの条件を満足する場所は東北以外に存在しないかというと、必ずしもそうてはない。湯治習俗は東北以外に信州でも、関西でも(特に有馬は有名)、九州でも行われていたし、小物を作る木地屋がいて、コマやウス、キネなどのおもちゃを売っていた。従って、前述の発生地条件からだけでは、発生地が東北に限定されることの解明は得られない。更に一つの「東北の特殊性」が加えられるはずで、これがこけしを考える上での鍵になるだろうと「山形のこけし」でも指摘している。

 東北でこけしを買った湯治客の大部分は農民であり、湯治が農民の再生儀礼であったこと、農民の宇宙感のなかでは、農民は豊饒多産の呪力の原泉である「山」と、湯治場で接し、「湯」に沐浴して再生するとともに、新しい呪力を、「村」に持ち返る、その呪力の憑依するものとして「おみやげ」のこけしが位置づけられていたであろうことは、「木の花」でも何回か議論を続けた。
 「山形のこけし」の著者は、更に、こけし発生の湯治場が、農耕の水源の山に位置し、他の温泉場より、農民の宇宙感の中で励起した場所であることを指摘した。これは一つの可能性として前進した議論である。そして、東北こそ、こうした農民の宇宙感が、他の地方に比べて鮮明であり、いっそう深い。これが東北に発生した要因であるとしている。

 ここで、思い出されるのは橋元四郎平氏の記述である。「日本は、モンスーン地帯における稲作の農耕に伴うさまざまの民間信仰や呪術の伝統があって、多くの呪物や縁起物、神社仏閣のみやげを産んでいる。これは、ヨーロッパが、乾いた風土で、唯一絶対神のキリスト教によって信仰生活が一元的に統一され、とくに、中世の終焉とともに民間信仰がほとんど跡を絶っているのと比べれば、著しい相違である。」
 ヨーロッパと日本との概括的な比較であるから、個々には例外があるにしても精神的風土によって信仰玩具が強く規定されること、教条的な宗教が多彩な民間信仰を滅ぼしたことの指摘は注目すべきである。

 確かに、ヨーロッパで、民間信仰に決定的打撃を与えたのは、異端裁判と魔女狩りである。中世ヨーロッパては、カトリック教会が農村地帯に適合して広がっていったが、一部山地民は、必ずしもカトリック思想になじまず、古い信仰を残していた。例えばピレネー山麓のキリスト教は、アラビアからの影響と、その地の固有の土俗信仰とを融合して特異の異端文化を形成していた。また、中世の森は教会の権力からも政治の権力からも干渉されない地帯、いわば辺境てあり、そこには薬草で治療する老婆や、森の中にいる地母神や穀物神をなだめる老婆がいた。いわば中世のヨーロッパの森は、みちのくの山と照応していた。
 魔女狩りは、当然宗教的異端に対する処罰であるが、中世の農業生産力の減退と、それにともなう農民の森への進出、すなわち、森と平野との経済的対立と関係があるともいわれる。
 また、農具生産力の減退が、魔女の魔術に起因するとしての攻撃があり、政治的に弱体な領主が、これに積極的に加担したともいわれる。
いずれにしても近代的なルネッサンス運動と宗教改革の時代は、一方でまた、魔女狩りの時代であった。ヨーロッパで魔女として殺されたものの数は数百万に達するといわれるが、旧教徒も新教徒もともに頑冥な迷信家であり、熱心な魔女裁判官であった。そして、この徹底した魔女狩りの結果、森の文化は完全に滅ぼされた。グリム童話の世界は現実世界から消えていったのである。

 日本の場合、教条的な宗教による異端弾圧はあまり行われなかった。魔女狩りに比すべきようなものはなかったと言ってよい。これは、中世以後、政治権力の方が宗教権力より常に上位にあったからてある。両権力の最後の大きな抗争は織田信長の時代であるが、信長は比叡山を焼き払い、一向一揆を撃滅した。その後、権力者は、キリシタン弾圧や檀家制度の確立を行い、宗教布教を原則的に制限した。
 しかし、異端に対しての宗教側の追求が、全くなかったかというとそうでもない。浄土真宗では他の宗派に比べて異端に対する罪と罰がはっきりしており、異端者を異安心(いあんじん)の者として破門・追放した。それゆえ、真宗の支配地域は、民話・民謡・伝説・怪異譚を欠くことで、今日なお、他と画然と区別されるという。
 ちなみに、真宗教団は真宗の模範となる信徒を妙好人(みょうごうにん)として記録した。妙好人の分布は日本国中にひろがっているが、東北地方はその数が際立って少ない。
 このように、教条的排他的宗教が、どの程度その地域に影響力をもったかということと、民間信仰の多彩な習俗やそれに関わるものがどれ程残っているかということとは、深い関係をもっている。東北地方は、日本の中で、おそらく教条的排他的宗教の支配力が最も弱かった地域であり、みちのくの山は、古代の始原的な山として、その呪力を十分に残していたのてあろう。従って、東北が民間信仰の豊饒な地である理由として、東北の後進性、農業生産力が低かったこと、その貧しさなどを指摘するのは、必ずしも当っていないように思う。

 ここでは、東北にこけしが発生した要因の一つとして、民間信仰に裏付けられた農民のいきいきとした宇宙観が東北に残っていたこと、その理由として東北に教条約排他的宗教の支配力が弱かったことを指摘する。 この問題は宗教史とも関わるので、さらに研究の余地が残されており、今後の課題となる。

 なお、本稿をまとめるにあたり、中井久夫著「分裂病と人類」(UP選書)が大変役立ったことを付記する。          

   (一月二二日記)

なお、こけしが東北でのみ発生した背景について、全く別の視点で議論したこともある → こけし誕生の物語

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